住吉神社

月刊 「すみよし」

「クール・ジャパンと雅楽」
宮司 森脇宗彦

「クール・ジャパン」という言葉を最近よく耳にする。

「ジャパン」は日本である。「クール」は洗練された、感じがいい、かっこいいとの意である。決して「冷たい」の「クール」ではない。

日本の伝統文化はもちろんのこと、マンガ、アニメ、ファッション、食文化など海外で評価されている日本文化を「クール・ジャパン」という。

日本のよさが、世界に発信され、外国人にも評価されつつある。日本人も意識していない日本の文化が、世界では称賛されていることに改めて驚くことも少なくない。

文化国家日本、伝統文化の日本といわれつづけていくようにしたいものである。“洗練された文化”ということを考えた場合に伝統工芸品等は実に洗練されたものが多い。日本の魅力でもある。今日の洗練された日本文化の形をつくったのは、日本の風土に育まれた日本人の気質によるものである。

日本には世界に誇れる世界最古のものがある。二、三あげてみると、世界最古の小説は、紫式部の『源氏物語(げんじものがたり』。世界最古の漫画は、日本の『鳥獣戯画(ちょうじゅうぎが』だ。そして世界最古の伝統音楽としてのオーケストラ(合奏)の形態は、「雅楽」である。

その中で、日本が世界に誇れる雅楽(ががく)を紹介してみたい。

雅楽は日本のもっとも古い古典芸能だ。ユネスコの世界無形文化遺産に登録されている。

アジアの音楽と舞を日本で集大成したものである。日本の文化はアジアとつながっている一例だ。

雅楽は古典芸能として今でも生きている。「生ける正倉院」といわれる。奈良の東大寺の正倉院は八世紀頃の聖武天皇の遺品を中心に所蔵されている倉。この倉にはアジアからの伝わったものが多く残され、シルクロードを通って伝わったものもある。

雅楽は古い歴史があり六世紀に中国、朝鮮半島から伝わったといわれている。

日本に伝わった雅楽は、日本独自の発展をする。奈良・平安時代には役所に「雅楽寮」がおかれていた。役所の中では最も職員の多い部署であった。それだけ雅楽は大人数で演奏し、儀式には欠かせないものだった。その後歴史を経て、一八六九年に宮内省の楽部になる。

雅楽の楽器はおもに「三管」といい三つの楽器がある。龍笛(りゅうてき)、笙(しょう)、篳篥(ひちりき)である。

龍笛は横笛(よこぶえ)。この楽器は雅楽では天と地との間を駈け巡る龍をあらわしている音色といわれている。「空の音」という。

笙は竹を一七本束ねた楽器。パイプオルガンの元祖といわれている。天から差し込む光を表現している音といわれている。「天の音」という。和音(ハーモニー)を醸成する楽器である。

篳篥は、縦笛(たてぶえ)。葦のリードを使っている。舌(リード)楽器の元祖といわれる。地上にこだまする人々の声をあらわし、騒々ししい音色だ。「地の音」という。

このほか楽太鼓(がくだいこ)、鞨鼓(かっこ)、鉦(かね)、などの打楽器、和琴(わごん)などの弦楽器もある。雅楽には舞がある。舞楽(ぶがく)という。

演奏される越殿楽(えてんがく)は雅楽のオーソドックスな曲です。雅楽の曲としてはよく知られている。祭典などの儀式にもよく演奏される。めでたい曲だ。

雅楽といい、和食といいユネスコの世界無形文化遺産に登録されている。いずれも世界的に評価の高い文化である。「遺産」という言葉は、生きていない、死んでしまった文化を連想するが、日本の世界遺産は現在も生きているというのが特徴といえる。

日本も経済大国であるが、GDPでは中国に追い越され世界三位となった。ここらで経済大国は返上して、文化大国として豊かな国を目指す時に来ているのではなかろうか。文化次第で心豊かさは維持できる。

ものの豊かさが心の豊かさにつながるとは限らない。心の豊かさはものの豊かさに比例しない。心の豊かさは、ある面文化にあると思う。文化をより洗練することによって心の豊かさが生まれる。

『小泉八雲記念會』
風呂鞏

今の若い人たちには無論馴染みがある筈もないが、かつて昭和期に放送され、大ヒットとなったラジオドラマに「君の名は」というのがあった。脚本家菊田一夫(一九〇八−一九七三)の代表作の一つである。番組が始まる時刻になると、銭湯の女湯から人が消える、と言われたほどの超人気ドラマであった。やがて映画化されると岸恵子演じる女主人公・氏家真知子が身につけたストールの真知子巻きが女性の間で大流行を惹き起こした。その菊田一夫が「忘却とは忘れ去ることなり」という名言を残している。

「君の名は」の場合は忘れたくとも忘れることが出来ない、“忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさ”をテーマとした悲劇だが、この世には、忘れてはいけないものが人々の脳裡から早々と消え失せてしまったり、記憶への努力が著しく減退している事例も多い。

今年は被爆七十年である。広島でも、原爆を知らない世代は益々増加し、さらには日本とアメリカが戦争をしていた事実さえ知らぬ若者が多くなっている。世界遺産の原爆ドーム(元は広島県物産陳列館)は誕生から今年で一〇〇年目を迎えるが、昭和三十五年(一九六〇)急性白血病で亡くなった十六歳の少女の日記が県民の心を動かし、市議会が保存を決議した歴史がある。当時の故浜井信三市長ですら「惨事を想い出させる」ことに堪えられず、当初は解体論を唱えていた時期もあったのだ。原爆ドーム一〇〇年に当たり、幾多の論議を経て永久保存に決まった経緯を振り返ることは、核廃絶を目指す未来に向かって大いに意義あることではなかろうか。戦後五十年広島を訪問したドイツの元首相ヴァイツゼッガーの「過去に目を閉ざす者は、現在に対しても盲目になる」という言葉が想起される。

筆者は本紙二月号に「八雲会創立一〇〇年」を書いた。今年二〇一五年が全国の八雲顕彰団体の総本山・松江八雲会の“創立一〇〇周年・五〇周年”(第一次八雲会が誕生して百年、第二次八雲会が誕生して五十年)という記念すべき年に当たるからである。

第一次八雲会の事業目標は旧居の保存と小泉八雲記念館の建設であった。八雲の業績や遺品を保管展示する記念館の建設には、当時の金額で壱萬円が必要であった。世話人代表の桑原羊次郎が上京して岸清一博士(一八六七−一九三三)に相談、岸博士は費用の半額五千円は自ら寄付することを約束、残り半額は郷土が負担するように、とのことであった。

 昭和四年九月に桑原羊次郎以下二十名連名で「��居保存記念館新設の義捐金募集案内」(本文省略)が出ているが、募金活動は中々成果が上がらなかった。昭和七年偶々八雲遺跡研究のために来松していた市河三喜東大教授(一八八六−一九七〇)が石倉市長を訪問、記念館建設の募金協力を約した。市河博士は東京の自宅を事務所として「小泉八雲記念會」を結成し、寄付者四三二名(外国人三十六人を含む)から約六五一〇円を集め、さらに八雲関係の書籍三五〇冊を購入して八雲会に寄贈したのである。

昭和八年一月に小泉八雲記念會が出した「記念館建築費用募集」の依頼文がある。発起人七十名のうち十二人の実行委員に○印が付いている。研究社の『新英米文学』第二巻第一号(昭和八年二月)、北星堂のTHE POLE STAR MONTHLY (Vol. III, No.1、一九三三) 等にも同じ文が掲載され、広く募金を呼び掛けていたことが判る。

拝啓 時下益々御清祥奉賀候陳者御承知の如く、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)先生は稀代の名文を以て日本を世界に紹介せし恩人に有之、その著述は死後三十年に埀んとして尚盛に愛讀され、各國の國語に翻譯され、又その講義は固より書翰雑筆の類に至る迄廣く蒐集整理され、今日尚續々出版されつゝある有様に有之候

而して此不朽の文豪の遺稿並に遺品の大部分は出雲松江市にあり、目下同市同廰の倉庫内に保管せられ居り候も右は木造の市役所に附屬せる舊式なる土藏に候へば燒失の患なしと保し難く、又先生を敬慕して遥々松江に赴く内外の人士も、手數の煩瑣、搬出の不便等の為に容易に觀覽するを得ず、且つ取扱の際に破損の危険多く、甚だ憂ふべき状態に御座候

右の次第にて先生舊居の隣接地に鐵筋コンクリートの記念館を建設して此品々を陳列すると共に、關係圖書類を蒐集して舊居と共に觀覽せしむる計畫は、かねて松江市に於ても決議發表せられ居候へども種々の事情の為いまだ實行を見るに到らざる次第に有之候

然れども前述の如き状態に有之候故この儘荏苒年を閲する事は好ましからず、且つ先生の遺品を保存して長く其風格を傳ふる此計畫は、文學に携はる者は固より、先生を敬慕する者の當然助力して完成を期すべき事業と存じ候依て左記の要領により、廣く資金を募り度企圖致候間何卒奮って御賛同あらん事を希望仕候 (以下、四項目の「要領」は省略)

東京市牛込區北山伏町二五 市河三喜方 小泉八雲記念會(振替東京 二、五五四五番)

寄附者の中には、大谷正信、小日向定次郎、金子健二の名も見える。岸清一も改めて百円寄附、伯爵陸奥廣吉(鎌倉)が百円も寄附していることは前号で触れたとおりである。

記念館は、昭和八年五月に着手、同年九月二十六日(ハーンの命日)までに完成の予定だったが、九月下旬までに落成できず、やっと十一月に山口蚊(ぶん)象(ぞう)設計(請負は大阪の奥田組)で竣工した。八雲の母親ローザがギリシャ人であった関係で、ギリシャ神殿を真似たドイツのワイマールにあるゲーテ記念館を参考にして建てられた。昭和五十九年四月に純和風様式(長屋門、塀を配し、土蔵づくりをモチーフ)に建て替えられたが、その礎は岸清一、根岸磐井らの尽力、市河博士の知名度と貢献にあったことを忘れてはなるまい。

なお、山口蚊象は富山大學「ヘルン文庫」の前身、「小泉八雲図書館」(昭和十年竣工)も設計している。

大正四年(一九一五)に創立なった第一次八雲会の歴史を繙くことで、八雲の功績を後世に伝承すべく身命を賭して陰に陽に尽力された先人の尊き想いとご労苦を偲ぶことが出来る。泉下の八雲先生の御霊も今一度松江に帰り、旧居と記念館を満足げに眺めておられるのではあるまいか。

 

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