住吉神社

月刊 「すみよし」

『五浦去来』
 照沼 好文 

すでに、東北関東大地震が一ヶ月余をすぎているにもかかわらず、なお強力な余震が続いている。また、巨大地震、津波、相馬原発の放射能などの被害は、日を追うごとに大きくなるととも、それは言語に絶する惨事であり、深刻な状況であると、リアルタイムで報じられている。しかし、そうした中から、人びとが郷土の再建、伝統的な行事や祭りなどの復活、生活の自立のために、力強く立ちあがって活動している姿には、おのずから頭の下る思いである。

ところで、この度の地震や津波によって、重要な文化財或いは遺蹟などが、破損・崩壊・崩落や消失などの被害を蒙ったところも大きかったと聞いている。私も何度か訪れたことのある岡倉天心ゆかりの、北茨城市の五浦、六角堂も、その一つであった。

五浦の六角堂は、茨城大学五浦美術文化研究所内の旧天心邸、天心のレリースと横山大観指毫の「亜細亜ハ一な里」(天心の言葉)を刻んだ巨大な記念碑、日本美術院跡とともに一般公開されていた。

天心が、常陸五浦を、(現在、北茨城市大津町五浦)隠棲の地に選んだ経緯について、長男一雄氏は『父天心』のなかに、

五浦という所は、五つの湾入があり、岩礁(がんしょう)に富んだ海岸で、常には波穏やかな勝地である。そこで奇勝と算うべきは北の蛇頭、中央の笙鼓洞、大五浦の棚磯であり、…天心は一見して、この海岸に執着を感じ、雨を冒しての観察だったにも拘らず、小五浦の南面に峠つ磯山の上に腰を下ろして、二、三時間、去ろうともせず眺めくらした。…(原歴史的仮名)

と五浦の奇勝と、その景観に満足して、じっと太平洋を眺望する天心の姿を語っている。

とくに、この「仙境五浦一廓」に、理想の「美術郷」建設を意図して、天心はこの地を選んだ。明治三十九年には、東京・谷中初音町の日本美術院を移転し、横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山らの四家族が五浦に移住した。

これより先、明治三十八年秋に五浦に、天心は粗末ながら、大規模な家居を建てた。その庭前先端に、中国の詩人杜甫の草堂にならって、「六角堂」を造営した。老松に蔽われ、眼下には太平洋の怒涛躍る断崖に建てた六角堂は、「朱塗りの外壁と屋根の上の如意宝珠に仏堂の装いを施し、内部に床の間を備え茶室としての役割をかねた」(茨城大学五浦美術文化研究所「資料目録」解説)天心の「静思默考の浄域」(斎藤隆三著『岡倉天心』吉川弘文館版)であった。また、天心はこの六角堂を、打寄せる太平洋の潮を見る東屋「観瀾亭」(かんらんてい)と呼んだ。そして、平櫛田中(ひらくしでんちゅう)翁作「五浦釣人」天心像のような姿が、磯の岩上に見られたが、晴れた日には、舟をととのえ遠く洋上に出て、釣り糸を垂れるのが常であったという。

しかし、この度の大地震による巨大津波で、旧天心邸などの遺蹟が、被害を直接蒙ることはなかったものの、貴重な文化財としての五浦六角堂が、一瞬に消え去ったのはまことに残念である。必ず、六角堂は将来復元される時があると思うが、私は横山大観の描く風景―老松、断崖、春夏秋冬の海潮、朝日、月などに限りなく五浦の憧憬を感じる。

天心逝去後、大正五年八月に初めて印度の詩人タゴールが来朝し、杖を曳いて五浦を訪ねた。日本の盟友天心を偲んで、詩一篇をものし懐旧の情を深めた。その詩の響に、五浦の情景と天心のこころが調和して聞える。

私がこの波に耳を傾ける時

この浜辺にて遠い幾そたびの夕暮に

懐(いだ)かれし偉大なお声を偲びます。

お声が、わが友よ。

私の胸の中に徘徊いたします

聴き耳立てる

叢松の間の

あの沈んだ海の音のやうに

     ―岡倉由三郎訳―

『東日本大震災に想う』
風呂鞏

平成二三(二〇一一)年度の小学校五年生用の国語教科書『銀河』(光村図書出版)に、「稲むらの火」の主人公・濱口儀兵衛の伝記が掲載されている。既にご存じだとは思うが、「稲むらの火」は一九三七年から一九四七年三月までの十年間、国定教科書の国語教材として使用され、その後姿を消していたのである。防災教育のバイブルと謂われる、この教材の主人公の伝記が俄かに登場したことの背景には、いったい何があるのであろうか。

最も大きな理由の一つとして、最近の火山噴火や地震の多発、それに伴う大津波の脅威、そうしたものへの不安・危惧が存在すると考えるのが自然であろう。

今年は阪神・淡路大震災(マグニチュード七・三、六四三四人が死亡、三〇万人が避難)から十六年目だが、近年は、世界で自然災害の発生率が極めて高くなっている。一つ一つを此処に列挙して行くと、紙面が足らなくなるのでは、と思うほど頻発している。それでも、二〇〇四年の新潟県中越地震(二〇〇七年には、中越沖地震も)、二〇〇八年の中国四川省地震(二〇一〇年には、青海省でも)、この時は死者が六万人を超えた。昨年二〇一〇年の一月には、マグニチュード七・〇で、死者二三万人を出したハイチ地震があり、衛生悪化でコレラの流行が深刻化したことなどは記憶に新しい。二月にはチリ地震もあった。

今年に入って、一月二六日には新燃岳の爆発的噴火、二月二十二日には、ニュージランド南部での大地震、三月九日には、三陸沖地震(M七・三)があり、六〇cmの津波も観測されていた。それに東海・南海地震が迫っていると懸念されており、これが同時に起こると、死者は二五、〇〇〇人にも達すると予測され、それらが二〇三〇年代までに発生する確率は、東海が八七%、東南海が七〇%という数字も出ている。

テレビや新聞などが、今年から急に「稲むらの火」に言及する回数が増えたのは、日本という国全体が、地震と津波に対して極めてナーバスになってきた事情と、百年後のふるさとを守る人間を育てたい、という明確な目標が浮上してきた証拠であろう。

津波といえば、テレビに映ったドイツ人が「ツナミ!」と英語で絶叫した、あのスマトラ島沖巨大地震での光景が瞼に焼き付いている。二〇〇四年十二月に起きたもので、巨大津波による死者は二十二万六千人にも達した。マグニチュードは九・一もあった。

 高波の来襲が沿岸や町を一瞬のうちに呑み込んでしまう、こうした大津波は余りにも規模が巨大過ぎて、バーチャルな仮想の事として受け止め勝ちだ。津波大国に暮らす我々日本人にも、あれは他国の事で、身近に起こり得るリアルなものとしては受け止め難かった。

ところが、去る三月十一日午後二時四六分ごろ、国内観測史上で最大のマグニチュード九・〇の地震が三陸地方で発生したのである。北海道から九州、沖縄にかけて一〇メートル以上の津波を観測し、各地で家屋が倒壊、流失した。死者・行方不明者は三万人近く、特に福島第一原発で起こった事故は、チェルノブイリと並ぶ最悪の「レベル7」にも達し、まさに国を挙げての大惨事へと拡大して行ったのである。

伊藤和明著『地震と噴火の歴史』(岩波新書)によると、三陸大津波の最古の記録は、『日本三代実録』にある八六九年七月十三日(貞観十一年五月二六日)のものである。この日、陸奥の国で大地震があり、人びとが立ち上がれないほどの激しい揺れに見舞われた。城郭や倉庫、門櫓などの多数が倒壊あるいは崩落し、やがて雷のような海鳴りとともに大津波が襲来した。津波はたちまち多賀城下に及んで、陸地を呑み込み、原野も道路も、すべて青海原と化してしまった。人びとは、船に乗るいとまもなく、山へ駆け上がることも出来ず、溺死者が一、〇〇〇人に上ったと云う。以後も、三陸沿岸はしばしば大津波による大災害に見舞われた。一六一一年(慶長六)、一六七七年(延宝五)、一七九三年(寛政五)、一八五六年(安政三)にも津波災害の記録が残っている。

さらに巨大津波による被害は止むことを知らず、明治三陸地震津波、昭和三陸地震津波、チリ地震津波の三つも悲惨を極めた。一八九六年(明治二九)六月十五日(旧暦五月五日、端午の節句)には、M八・五を記録、死者は二二、〇〇〇名、岩手県田老町では波高十四・六mに達した。一九三三年(昭和八)三月三日(M八・一)には死者二、九九五名、波高は二八・七mという驚くべき高さであった。このため田老町では、高さ一〇m、総延長一、三五〇mの大防潮堤が築かれたのである。一九六〇年(昭和三五)五月二四日には、南米のチリで発生したM九・五という巨大地震の為、発生から二十二時間三〇分で津波が来襲した。 日本での死者は一四二名を記録したが、津波はまさにジェット機並みの猛スピード(時速七〇〇キロ以上)で太平洋を渡って来たのであった。

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)がまだ神戸に在住していた一八九六年、明治三陸地震津波が発生した。それを報じた大阪毎日新聞が、「海嘯の歴史」として安政元年(一八五四)における濱口儀兵衛の活躍も記事にした。紀州和歌山藩広村を襲った安政南海地震(M八・四)のあと、大津波があった。津波の予兆に気づいた濱口儀兵衛が稲むらに火を放ち、村人の生命を救った、という美談である。ハーンはこの記事をヒントにして、「生神様」という作品を書いた。和歌山県の小学校教諭中井常蔵がその作品を「稲むらの火」に纏め、それが教科書に登場した。また、ハーンの用いた“tsunami”がOED(英語辞書)に採録された。

今回の東日本大震災は、巨大地震、巨大津波、火災、山崩れ、それに最悪の原発事故、と五重苦の災難が重なった。日本が今後どう復興し、希望と気力を取戻せるか、極めて厳しい覚悟が要る。「想定外」で右往左往するのでなく、被災地の人々に一日も早く安心できる生活を保証することが先決だ。大正十二(一九二三)年の関東大震災時の後藤新平や、紀州を救った濱口儀兵衛の如き、強力なリーダーシップと知恵を兼ね備えた先人から学ぶことが、今ほど急務とされる時はない。

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