住吉神社

月刊 「すみよし」

『国旗「日の丸」について』
照沼好文

多分、みなさんはつぎの小学唱歌、国旗日の丸の歌詞を覚えておられると思う。

白地に赤く日の丸染めて ああうつくしや 日本の旗は(以下省す)

この国旗日の丸の歌詞を口遊むと、私はいつも国旗の簡潔な、そして清純な姿に、晴やかな心境を覚える。

本紙『すみよし』の表紙にも、「祝祭日には国旗を掲げましょう」と、よい言葉が掲げられているので、今回は国旗日の丸に対する日本国民の伝統的心情について述べてみようと思っている。

まず、私たちの国旗日の丸の謂れ(1)を考えてみると、日本の国旗は日章旗とも、或いは「白地に赤く」太陽を染めた旗であるので、日の丸の旗とも云っている。つまり、東天に昇る太陽を象徴している。そのために、日の丸のアカは、暁の東天に昇る太陽の赫光色であると云われ、実に簡素・清潔である。

そして、国旗日の丸は白地とアカ色との二色から成り立つ簡素にして素朴なハタであるが、これは何を意味するのであろうか。安津素彦(あんづ・もとひこ)先生の高著『国旗の歴史』(2)を繙いてみると、つぎのように述べられている。

白色は清浄・潔白・清純の色彩である。又赤の動に対しては静・温和を示す。中心のアカは太陽で躍動の象徴であり、これ又日本心(やまとごころ)の理想像を示すマゴコロのシンボルでもある。…白と赤の国旗、清純な心とマゴコロで満足しきった心との結び付き。ここには自づと感謝の念湧く。白は赤を俟っていよいよ白く(清らかになり)、赤は白により、弥々赤く輝く。

ところで、元伊勢神宮大宮司徳川宗敬翁の歌集『鶏鳴』に、

海原の真中に昇る太陽は無窮の空を照らしそめけり

―「洋の日の出」―

渚辺に立って拝する太陽が、広い海のまん中に昇り、やがて太陽の赫光が空を照すと詠んだ格調高い歌。日の丸の国旗が歌心をよびさますような清い一首で、口遊む者の心に染みる。このような国旗に対する感情は、古来受継がれてきた国民の伝統的心情である。

国旗の中心、日の丸は太陽である。そして、それは建国以来、太陽の神として連綿と信仰されてきた天照大御神を象徴化している。さらに、皇室の祖神、天照大御神には、つぎのようなご神格が備っている。

寛大な神、温和な神・公平無私・広大無辺に、平等に愛情を注がれ、…げに太陽と仰がれるに相応した神である。歴代の天皇の国民に対して示されている限りない公平無私な仁愛・温情はこれ又、春日の燦々(さんさん)と万物に普く公平に注いで生育せしめる太陽の恵みと同様に、国民は感謝し、感動深くうけとめている。(3)

つまり、日本国民が国旗として日の丸を、尊び仰ぐ所以は、この点にある。

いずれにせよ、国旗は国のしるしであり、象徴でもあり、国の目当・目標・理想を併せもっている。従って、国旗は云うまでもなく、他国の国旗に対しても、慎重かつ丁重に扱わねばならない。すなわち、「国旗はいずれの国旗でも、その国の民族の伝統、建国の事情等が語られ、国民の理想・信仰を図案化したものである。…人間は相互に相手を尊敬し、人格に敬意を払うのが正常な人間の懐く良識としたら、各国民は自国の国旗に対して尊意を捧げ、敬虔な態度で接すると同時に、他国の国旗に対しても同様の誠意をこめて接し扱うのが当然の所為であろう。」(『国旗の歴史』)

この言葉は国旗をとおして、日本人としての自覚と同時に、国際人としての生き方を、私たちに示唆しているのではあるまいか。

【註】(1)国学院大学安津素彦教授著『国旗の歴史』(桜楓社・昭・四七・一五刊)。本書は先生のご生前に受贈し、いま繙いて懐旧の念が一入である。(2)―(3)右同。

 

『小泉八雲と浦島物語(一)』
風呂鞏

巌谷小波の『日本昔噺』を開くまでもなく、日本昔話の代表格は何と言っても、日本人のヒーロー「桃太郎」であろう。そして、それに劣らず人口に膾炙しているものの中に、「一寸法師」「猿蟹合戦」「花咲じじい」等と並んで「浦島太郎」がある。

我々の知る昔話の浦島太郎は、助けた亀の背中に乗って竜宮城へ行き、美しい乙姫様に会って御馳走になり、「開けるな」と言われたのに、お土産に貰った玉手箱を開けてしまい、哀れ白髪のお爺さんになるという、悲しい物語の主人公である。明治四十四年の文部省唱歌「浦島太郎」(注一)は、ストーリそのまま、次の歌詞で始まる。

昔々 浦島は

助けた亀に 連れられて

竜宮城へ 来て見れば

絵にもかけない 美しさ

この『尋常小学唱歌』は五番まであるが、玉手箱をあけた後は勿論、「中からぱっと 白烟たちまち太郎は お爺さん」となって終わる。曲そのものは明るく調子がよいので歌いやすい。しかし、苛められていた亀を助けた浦島太郎が、何故お爺さんにならなければならないのか、という素朴な疑問は残るのである。

ところで、去る四月七日、スペースシャトル「ディスカバリー」が打ち上げ三日後に国際宇宙ステーションへのドッキングに成功した。その「ディスカバリー」号に乗り込んだ女性宇宙飛行士山崎直子さんが話題になった。彼女の初の著書に『何とかなるさ!』(サンマーク出版)がある。その中で、宇宙飛行士候補の選抜テストに、桃太郎と浦島太郎のどちらが好きかを問う質問があったことを、面白く紹介している。

桃太郎は、「鬼の征伐」という目標に向かってしっかり突き進み非常に合理的。一方、浦島太郎は竜宮でたっぷり楽しみ、「決して開けてはいけない」と言われた玉手箱を貰って来てしまう楽観性、さらにそれを開けてしまう、子供みたいな無邪気さがある。つまり何が起きるか予測できない状況でもそれを楽しめる人ということで、精神医学の観点からは、宇宙飛行士に向いているのは「浦島太郎」を選んだ人なのだそうだ。

小泉八雲こと、ラフカディオ・ハーンの好きなものは、西、夕焼け、夏、海、遊泳、芭蕉、杉、淋しい墓地、蟲、怪談、浦島、蓬莱などであった。さらに、妻のセツが『思ひ出の記』の中で次のように語っている。

日本のお伽話のうちでは「浦島太郎」が一番好きでございました。ただ浦島と云ふ名を聞いただけでも「あゝ浦島」と申して喜んでいました。よく廊下の端近くへ出まして「春の日の霞める空に、すみの江の…」と節をつけて面白さうに毎度歌ひました。よく暗誦してゐました。それを聞いて私も諳ずるやうになりました程でございます。上野の絵の展覧会で、浦島の絵を見まして値も聞かないで約束してしまひました。

ハーンを繋ぎとめた日本の魅力の一つが「浦島物語」だったのは間違いない。ハーンはギリシャに生まれたが、二歳以後アイルランドで育ち、フランス・イギリスで教育を受けた。十九歳で渡米し、カリブ海のマルティ二―ク滞在を経て来日。日本では横浜、松江、熊本、神戸、東京に居住した。四歳で母親と別れ、家庭に恵まれることのなかったハーンは、自分を温かく迎えてくれる心の拠り所を「楽園」という名前のもとに常に捜し求めていたのである。ハーンの放浪は、異文化体験という形をとり、西洋から離れて行くものとなったが、彼の楽園願望の基底には、母を象徴する優しい女性の存在が不可欠であった。やがて日本の土を踏んだハーンは結婚をして家庭を持ち、子供の父親となった。謂わば、家族がハーンの捜し求めていた楽園に匹敵するものだったのである。日本は彼にとって楽園模索の旅の終点となった、と言えるのではあるまいか。

ハーンの生涯に己のそれを重ね合わせ、羨望を禁じ得なかった人に萩原朔太郎がいる。彼は「小泉八雲の家庭生活」を次の書き出しで始めている。

萬葉集にある浦島の長歌を愛唱し、日夜低吟しながら逍遥して居たといふ小泉八雲は、まさしく彼自身が浦島の子であった。希臘イオニア列島の一つである地中海の一孤島に生まれ、愛蘭土で育ち、仏蘭西に遊び米国に渡って職を求め、西印度に巡遊し、遂に極東の日本に漂白して、その数奇な一生を終ったへルンは、魂のイデーする桃源郷の夢を求めて、世界を當てなくさまよひ歩いたボヘミアンであり、正に浦島の子と同じく、悲しき『永遠の漂泊者』であった。

(ふろ かたし)

(注一)明治三十三年の『幼年唱歌(初の中)』という曲集に収録されている「うらしまたろう」(石原和三郎作詞・田村虎蔵作曲)は、我々の知るものとはやや異なる。

一、むかしむかし、 うらしまは、

こどものなぶる、かめをみて、

あわれとおもい、かいとりて、

ふかきふちへぞ、はなちける。

六番まで続き、最後に玉手箱を開くと、「ひらけばしろき、 けむがたち、 しらがのじじいと、 なりにけり。」という具合に、歌詞はかなり乱暴である。

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