住吉神社

月刊 「すみよし」

『小泉八雲の好物「ウナギ」』
風呂鞏

山陰の宍道湖周辺の小学校等では、殆んどの子供たちが知っている常識でもあるのだが、山陰以外に住む者で「す・も・う・あ・し・こ・し」と聞き、直ちに“宍道湖七珍”(注一)のことだと言える人は、何度か松江近辺を訪れ、そこでの食の豊かさに触れた経験を有する人であろう。更に、その平仮名七文字が「スズキ、モロゲエビ、ウナギ、アマサギ、シラウオ、コイ、シジミ」という宍道湖で捕れる美味なる魚介類の頭文字を並べた記憶法であると説明できる人は、山陰の食に相当高い関心を持つ御仁ではなかろうか。しかし、そのような人でも、出雲と鰻との濃密な因縁については案外ご存ないかも知れない。

去る七月二九日は夏の「土用の丑の日」であった。スーパーなどには鰻の蒲焼きが並び、食欲をそそる香りを放散していた。大昔から「ウナギ」が日本人の大好物であることは言うまでもない。但し周知の如く、土用は春夏秋冬、年四回ある。夏の「土用の丑の日」とは、立秋前の土用のうち、(十二支の)丑にあたる日と云うことになる。昔から、丑の日には「う」のつく食べ物(うどん、瓜、梅干しなど)を食べると身体に良いという言い伝えがあるが、ウナギに関しては、夏に脂がのって特別に美味しくなるという訳ではない。では、何故に日本人は夏の「土用の丑の日」に競うが如くウナギを食するのであろうか。

荒木英之著『松江食べ物語』(山陰中央新報社)という本が出版されている。著者に拠ると、ウナギの旬は十月の下り鰻にある。夏の土用が美味とは海外養殖鰻の戦略で、秋の地鰻には断然劣る。「土用丑の日」という夏の宣伝文句は、夏場の売り上げ不振に悩んだ鰻屋の知人に頼まれた平賀源内(一七二八‐一七八〇)が客寄せのキャッチコピーを考えたと言われている。「本日、土用丑の日」と大書して店頭に張り出したところ、その鰻屋が大繁盛したというもの。さらに太田蜀山人(一七四九―一八二三)が「丑の日に食べる薬」といってウナギを宣伝したのが始まりだとの説もある云々、との内容が読める。以来、「蒲焼は土用丑の日のものに限る!」ということになり、現在では、ウナギの年間消費のおよそ三〜四割が夏の「土用の丑の日」を中心に消費されているらしい。

江戸中期の一七五六年、出雲国の中海はウナギの豊漁に沸いていた。大量にとれるウナギを高値で売買できる大消費地の大阪へ運んで販売しようとウナギの輸送に乗り出した安来の商人がいた。ウナギは活きたまま運ばなければ意味がない。勿論クール宅急便もなかった時代である。天秤棒で担ぐ籠には水で濡らした海藻を入れ、水分補給の為要所要所にウナギ池を作った。陸路はるか四十曲峠を越えて運び、後には備中高梁から川船(高瀬舟)で下り、岡山港からは生け簀付きの専用船に積み替えて、播磨灘を通って大阪や京都へ運んだ。かくして、約七日かかったと言われる出雲から大阪へ至るウナギの輸送ルートのことを「鰻街道」と呼んだのである。一八九〇年代からは鉄道で輸送したが、この活鰻(かつまん)輸送は大阪の食文化に多大な影響を与え、一九四八年ごろ大阪旧市内だけで三百余軒もの「出雲屋」という鰻屋が乱立した。食い倒れの上方では業態を屋号で表すが、後日「出雲屋」といえば鰻屋を指すようになったのである。「割き三年・タレ八年・焼き一生」というその焼き方は、出雲から上方に伝わった地焼である。(小学館発行『日本うなぎ検定』参照)

「ウナギ」は万葉の頃の古名「ムナギ」が転じて「ウナギ」となったと言われる。萬葉集第十六巻(三八五三)に「石麻呂に吾物申す夏痩に良しといふ物ぞ鰻(むなぎ)漁(と)り食(め)せ」とある。「む」=身、「なぎ」=長い、で体の長い魚という意味だという説もある。

「ウナギ」は大昔から日本人の大好物であると先に書いたが、夏目漱石など古来数多くの文化人が鰻好きであった事が知られている。たとえば、鰻好きで知られる文化人の中でも、斉藤茂吉(一八八二−一九五三)の鰻に対する執念は並外れていたようだ。息子・斉藤茂太の結納の席で、嫁の分まで蒲焼を平らげてしまったエピソードは有名である。一説に拠ると、茂吉はどうやら鰻の蒲焼きに宿る神秘的なパワーを信じていたらしい。

松江市の大根島に「うなぎ神社」というパワースポットがあり、お参りをすると人生運が“うなぎ上り”になる(?)と言われている。神社に隣接しているのが、一九一四年以来開業の「うなぎ処・山美世」である。店のパンフレットには、次の説明がある。

日本の文化に魅せられ来日したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が最初に赴任したのが松江でした。小泉八雲として日本を愛し、数々の著書を残した八雲でしたが、食に関しては幼いころより親しんだ洋食を好み、和食は苦手だったようです。しかしながら、八雲の曾孫にあたる小泉凡氏によると、「鰻と奈良漬だけはよく食べていたようです」というように、鰻の蒲焼は八雲が愛した数少ない和食のひとつでした。八雲が横浜から松江に入る際に通った道が「鰻の道」こと出雲街道であったことも、何かの縁ではないでしょうか。

文化人にも愛され、日本を代表する食文化である“蒲焼”だが、最近、国際自然保護連合(IUCN)がニホンウナギをレッドリスト(絶滅危惧種1B類)に指定した。国内で捕れる子ウナギ(シラスウナギ)の量が三十年間で九〇%以上減少しているからである。激減の原因は乱獲や環境の悪化、それに日本人の食べ過ぎだと指摘されている。

日本の誇るこの和食文化を次代に繋げてゆくには、我々自身がウナギを安く食べるのを多少我慢してでも、捕獲や取引を規制するなど保護策を講じなければなるまい。

(注一)「宍道湖七珍」の起源は、松陽新聞(現・山陰中央新報)の編集長であった松井柏軒氏が紙上で宍道湖十景八珍を紹介したことにあると言われる。最初は八珍として「キス」が入っていたが、「キスは宍道湖より中海」とのことで、七珍となった。

自然との共生
宮司 森脇宗彦

謹んで豪雨による災害のお見舞い申し上げます。

この度の豪雨により被害を受けられた皆様に謹んでお見舞い申し上げます。

この上は一日も早く復旧がなされますことをこころよりお祈り申し上げます。 

 先月二十日未明よりの集中豪雨により広島市安佐南区、安佐北区を中心とした地域に土砂災害が発生し甚大なる被害が出ました。

時間当たりの降雨量は記録的なものでした。安佐南区、安佐北区は住宅密集地で、宅地開発は山裾までおよんでいます。

広島県は土砂災害が発生する危険な場所は全国一位であるといいます。山は花崗岩が風化してできた「まさ土」でおおわれています。水を含むと崩れやすい地質と言われます。

過去にも土砂災害は県内に多く発生しており、急峻な山のふもとの住民はその危険を認識してきたのです。しかし災害は発生いたしました。

被害の甚大だった安佐南区八木地区には何度も行ったことがあります。今回のような大規模な災害が発生するとは想像がつかなかったです。

被災された方の報道が連日されています。被害にあわれた人は、新婚夫婦、高齢の夫婦、市の要職のひと、将来を嘱望されていた研究者、幼い子供、高校生などとそれぞれのこれまでの人生をもって報道されています。本当に無念だと察するものです。哀悼の意を表したいと思います。

自然災害には人間の力ではどうすることもできないのが現状です。気象レーダーが進歩し正確な予報ができるようになったといっても今回のような甚大な災害発生を防ぐことができなかったのです。

確かに防災の意識は必要ですが、自然と対立する考え方では解決できません。先の東日本大震災は多くの教訓を残しております。日本人へ警鐘を鳴らしています。

先人は自然と対立するのではなく、自然と共存していたのです。今回の災害も、開発という名の自然との対立関係になってしまったことによる人災でもあるのです。

被災地区の安佐南区八木には光廣神社が鎮座しています。毛利氏が鶴岡八幡宮より勧請された神社といいます。境外社に貴船神社(龍王社)があり、ご祭神はタカオカミノ神です。この神様は水をつかさどる神様です。日照りの時には雨乞いがなされた記録があります。また止雨の神様でもあるのです。この地区の人が古来雨水を必要としたからお祀りをしたことがうかがえます。今回は神様の許容範囲を超えたものだったということができます。

もう一度歴史を再確認して、先人の信仰を見直したいものです。

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