住吉神社

月刊 「すみよし」

『活字文化』
照沼好文

二月七日付の読売新聞に「活字文化は精神の栄養」と題して、文字・活字推進機構理事長の肥田美代子氏が語った記事を、興味ふかく読んだ。肥田氏は先ず「読書は教育の基盤です」と前提を説き、つづいて次のように語っている。

読むことだけでなく、書く・話す・聞くという言葉の総合的な力をつけてくれるからです。理解力・想像力・考える力をも育んで呉れます。言葉の力をつけるには読書しかありません。と読書の基盤を説明し、また学校に於ける問題として、新学習指導要領で「言語活動」が重視され、自分の力で課題を発見し、資料を読み解くことが求められるため、学校図書館の役割が重視されつつあります。よい傾向だと思います。小さい子には親が読み聞かせをするし、小学生は朝の読書運動をやっている。中学生や高校生になると本から離れてしまう。それには受験勉強などに時間を奪われていることも一因です。若い世代は、携帯メールなどで簡単な文章を書くことは増えています。あれは話し言葉であり、きちっとした文章語、書き言葉ではありません。大学の先生や企業の社長に聞くと、情報の切り貼り、起承転結もない文が多いとのことです。と、直面する現代の弊害を指摘した上で、児童生徒間のいじめの問題にも触れている。そして最後に読書を活字文化は精神形成の栄養です。日本の識字率の高いのは行き届いた義務教育と活字文化の発展のお陰だと思います。栄養が?乏すると人材が衰え、国が滅びる。と。

ここまで先日読んだ新聞の「活字文化」は精神の栄養という記事を身近に感じて紹介してきた。世の多くの人々の傾聴に価する一文ではあるまいか、私は若い人達に「努めて読書の風に当たろうではないか」と伝えたい。愛読書は人生の師であり友であり心の宝である。

ところで私にも大切にしている一冊がある。柳宗悦氏の『日本の民芸』で国際文化振興会発刊。この本は宗悦氏が米国ハーバード大学で、日本の民芸に就いて一年間講義をした記録を一冊に整理して昭和十一(一九三六)年に出版された。用紙は「西の内」という有名な和紙、表紙は和紙に「柿しぶ」をほどこしてある。本の内容は日常の生活をはなれ心の憩いとなるものであるが、こうした日本の文化を語ってくれる書物もまた良いものである。

ともあれ、長い史に培われた活字文化が生き生きと継承され、より高い日本の文化へと昇華されることを願っている。

 

『日葡合作映画「恋の浮島」』
風呂鞏

去る二月九日、世界の名作映画を日本に紹介、エッセイストとしても活躍した岩波ホール総支配人の高野悦子さんが、大腸がんのため死去した。旧満州(中国東北部)生まれ、享年八十三歳であった。菊池寛賞、芸術選奨文部大臣賞などを受賞。二〇〇四年には文化功労者にも選ばれた。二月十九日の中国新聞文化欄には、日本映画大学学長の佐藤忠男氏が追悼文を寄稿した。高野さんは東京・神田の岩波ホールでヨーロッパの巨匠たちの名作を丹念に紹介したのみならず、アジア、アフリカの社会派の映画人と連携し、国の内外を問わず、女性の映画作家たちを積極的に支援した国際的文化的活動家であったと述べている。

 一九六八年六月、日本ポルトガル協会(会長は柳満珠雄・元三井銀行社長)が発足、高野さんは常任理事になった。彼女自身八年前にポルトガルを訪れ、ポルトガルに心奪われていたのである。繊細な自然、親切な人々、新鮮な魚介類など日本によく似た姿があり、ポルトガル民謡ファドは演歌を想わせ、郷愁を誘うのである。作家の壇一雄が、その素朴さを愛し一年間も漁村に住み続けたことはよく知られている。

ところで、友人が呉れた『東京外語会会報』(二〇一三年二月号)の中に、元日本経済新聞常務取締役和田昌親氏の「ブラジルの世界一物語」が載っている。二〇一四年のサッカーW杯(ワールドカップ)開催地ブラジルは優勝五回を誇る世界一のサッカー王国であるが、和田氏に言わせると、「ブラジル人は世界一優しい」らしい。大らかで楽天的なのはラテンに共通だが、ブラジル人はこれに加えて「他人に優しい」特徴があると言う。人種差別が少ない。戦争をしたことがない。小さな子供を異様にかわいがる。ボサノバの響きが優しい。奴隷食だったフェジョアーダが国民食になった。サッカーで反則が少ない、などなどが証拠として挙げられる。しかし、こうした全ては、心根の優しいポルトガル人に支配されたことに由来するのだ、という氏の仮説。極めて説得的な論で納得してしまう。

 ポルトガルは日本と最も古い関係にある国だ。 一五四三年、ポルトガル人を乗せた船が種子島に漂着した。ポルトガル人は鉄砲をはじめ、宗教、医学、天文学、地理学、航海術、印刷術、造船術など、数々の西洋文明を日本に紹介。ポルトガル語のパン、コップ、ボタン、カステラ、コンペイトウなど多くの言葉が、今でも日本に生き続けている。

やがて高野さんの進言で、全国のポルトガル縁の地に協会が出来始め、一九七〇年には、ポルトガルの文豪モラエスがこよなく愛し、その地に没した徳島にも協会が発足した。歌人吉井勇は「モラエスは阿波の辺土に死ぬるまで、日本を恋ひぬかなしきまでに」と歌ったが、日本ポルトガル協会の会員の中には、「モラエス病」と呼ばれる伝染病の患者が多数おり、高野さんも、日本全土にこの病気が蔓延することを祈る重傷患者の一人であった。

 日本に恋い焦がれたモラエス(一八五四−一九二九)。彼の徳島での生活は、決して幸福なものではなかった。神戸で睦合った芸妓ヨネの死後、同棲した姪のコハルには裏切られた。そのコハルも若くして病死。彼女亡き後は終生徳島で二人の墓を守った。ヨネとコハルへの追慕の情を本国の新聞に書き送ったが、「モラエスは魂を日本人と取り替えた」と酷評される。徳島の子供たちには西洋乞食と揶揄され、警察にはドイツのスパイと間違えられることもあったが、モラエスは日本人の無理解を優しく許している。孤独の中で死んだモラエスの生涯を知る時、胸は痛みモラエスを愛して止まぬ気持になる。これが「モラエス病」であり、故新田次郎氏もそうであった。

新田氏には絶筆となった毎日新聞連載小説『孤愁』があり、高野さんは一九八三年パウロ・ローシャ氏と共同で日葡合作映画「恋の浮島」を製作した。日本を愛し、日本についての著述を残したヴェンセスラオ・デ・モラエスの生涯を軸に、東洋と西洋の触れ合いを中国古代の詩人・屈原の「林足辞」の“九歌”の構成を借りて描くものである。

昭和五七年に、高野さんは『シネマ人間紀行』(毎日新聞社)を書いた。この著書には、「モラエスと恋の浮島」と題する文があり、先に紹介したモラエスの徳島での生活、未完で終った新田次郎『孤愁』や、映画「恋の浮島」製作中の苦労にも言及がある。

二〇一二年は新田次郎生誕百周年記念の年であり、新田次郎・藤原正彦著『孤愁』(文藝春秋)が出版された。未完の絶筆を、息子の藤原正彦氏が書き継いだものである。父の死後三十二年間、父の訪れた所をすべて訪れ、父の読んだ文献をすべて読んだ。そして父の亡くなった歳と同年齢になって書き始めたのである。目次の後に、本書は「美しい国」から「日露開戦」まで(十七章)を父が、「祖国愛」から「森羅万象」まで(九章)を自分が執筆した、とある。書き継ぎを故意に半分の長さで纏めたのも父への崇敬からであろう。父の無念を晴らし、珠玉の作品として蘇ったこの本に心底からの拍手を送りたい。

モラエスとハーン(小泉八雲)が初めて日本の土を踏んだのは、明治二十二、二十三年のこと、日本が近代国家を目指している最中であった。日本で生活した年数は、ハーンの十四年に対し、モラエスは三十年以上。二人に面識はないが、日本を愛して海外に紹介したという共通点がある。モラエスはハーンを「世界文学の中で第一級の現代散文作家の一人」と評し敬愛した。その書簡・著書にはハーンへの言及が多い。ロシア皇太子を巡査が襲撃した所謂大津事件の際、京都府庁で自決した畠山勇子のことを、ハーンは「勇子―ある美しい思い出」に書いた。その作品を読んで感銘を受けたモラエスは、ハーン没後の一九〇七年、勇子の葬られた京都の末慶寺を訪れ、ハーンの著書に署名した上で、住職に贈り、勇子のことをポルトガルの雑誌に書き送っている。

残念なことに、独り淋しく自宅で事故死したモラエスは「徳島のモラエス」以上に知られることが稀だ。然しハーンに憧れたモラエスは単なるハーンの亜流ではない。その善き人柄と親しみのある作品を偲ぶためにも、日葡共同制作の美しい映画『恋の浮島』が今こそ大々的に再上映されることを、泉下の高野さんは願っているに違いない。

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