住吉神社

月刊 「すみよし」

『明治の角聖常陸山』
照沼好文

 

開催が一時危ぶまれた七月中旬の大相撲名古屋場所は、熱烈な全国の相撲ファンの声援もあって、無事に千秋楽を迎えた。とくに、今回は私の郷土、水戸の産んだ明治の角聖横綱常陸山谷右衛門のことが回想された。彼の生涯は、国技としての相撲道をとおして、国の生気復興につとめ、一方日本の国技相撲の精神を、世界に向って堂々と弘布したからである。

現在、水戸市内の茨城県立武道館玄関わきには、横綱常陸山の銅像が建っている。常陸山は明治七年、水戸城下に市毛高成の長男として出生。旧水戸藩時代には、市毛家は武術をもって藩に仕えたので、父高成は維新後も剣、弓道の達人として知られ、高成の弟高治は剣道家として著名であった。常陸山は幼名を「谷」と呼び、少年期には旧制水戸中学に入学したが、父の事業失敗で明治二十三年、叔父高治を頼って上京している。そして、谷少年の相撲界に入るきっかけも、ふとした叔父との会話から始まる。

ある日、谷少年は叔父と亀戸天神を散歩していた時、叔父が約八〇キロ(二〇貫)ほどの岩石を指して、少年にその石を抱え上げられるか、どうかを問うたところ、少年はなんなく、その巨石を持ち上げたという。これが切掛けとなって、谷少年は明治二十四年十七歳で、水戸出身の四代目出羽海運右衛門の部屋に入門した。その五月、四股名を水戸光圀の西山荘から取って、御西山谷右衛門を名乗り初土俵を踏んだが、のちに四股名を常陸山と改めている。常陸山は明治三十二年正月の入幕から、大正三年五月の引退までの約十六年間、三十二場所の成績は百五十勝十五敗、二十四預り弘分けの成績であったという。また、彼の出世街道を見れば、明治三十二年正月入幕、東前頭四枚目、三十四年正月東関脇、同年五月西大関昇進、大関に五場所止まり、三十六年五月全勝を果して、梅ケ谷とともに横綱に推挙されている。梅ケ谷と並んで、常陸山は相撲界の黄金時代を飾った。

ところで、横綱常陸山は非常に義理に篤い人柄であった。とくに、日露戦争の旅順港封鎖で知られる広瀬武夫中佐とは、義兄弟の間柄であった。広瀬中佐は明治三十七年三月に、福井丸を指揮して戦死するが、その前に、中佐は常陸山の土俵入りが見たいと、横綱に連絡している。彼は早速写真を送ったが、この写真をみることなく、中佐は戦死された。

明治四十三年常陸山一行は、朝鮮から旧満州地方(中国東北部)に、巡業相撲に出ている。大連での興業が終って、常陸山は七月二十二日旅順の白山忠霊塔を参拝して、奉納相撲を披露している。これは今回の巡業では予定外のことであり、本来ならば同日鉄嶺丸で帰国する予定であったが、この船には常陸山一行は乗船せず、後便で帰国した。不運にも、さきの鉄嶺丸は航行中濃霧のため、木浦浦で座礁沈没し、乗員全員死亡の惨事が伝えられた。

また、横綱常陸山は国際人として、堂々たる紳士であった。明治四十年八月二十日、当時三十二歳の常陸山は力士三名を伴い、加賀丸で太平洋を渡り、米国に上陸している。さらに、米国の首都ワシントンにおいて、駐米大使青木周蔵と有名な高峰譲吉博士の案内で、同年九月二十八日セオドル・ルーズベルト大統領に謁見、盛大な晩餐会のもてなしを受けた。この時、大統領への贈物として、水戸九代藩主烈公遺愛の「兵庫鎖太刀」と同じ造りの蕐麗な太刀を、水戸から拝領して持参している。現在、米国立スミソニアン博物館に保存されている。再び、大統領に招かれホワイトハウスで横綱土俵入を披露した。当時、現地の報道機関はこれを大きく取りあげ、日本の国技相撲の名声を弘めた。同じくニューヨークの日本人会でも、土俵入りを披露したが、常陸山一行は欧州にわたり、英国、ドイツ、ロシア等を訪遊して、シベリア鉄道経由で、翌四十年三月に七カ月ぶりに故国の土を踏んだ。大正三年引退後の常陸山は、年寄り出羽海を名乗り、相撲協会の筆頭取締役に選任され、協会の発展に努めたが、同十一年六月、右足関節炎悪化のため、四十八歳の生涯を閉ぢた。

現在、水戸市立博物館には、常陸山の書二幅が保存されている。一幅には「仁義禮智信」と揮毫され、他の一幅には「角力養國家之元氣」(「角力国家ノ元気ヲ養フ」)と。ともに常陸山の生涯を髣髴とさせる雄渾闊達な感動の書である。そして、視野を広く世界に向けた颯爽とした常陸山の雄姿に、強く心引かれる思いである。

『小泉八雲と蟻への関心』
風呂鞏

いま江戸東京博物館で「大昆虫博」が開催されている(六月二十二日から九月五日までの六十六日間)。「虫を知ると未来が見える」という一大テーマの もとに、「日本の四季と虫―日本人と虫の共生」「東京の虫たち」「日本人と虫」「大昆虫フィールド」「虫LABO」「生物多様性と虫」「虫シアター」「虫 で学んで遊ぼう」など、大きく八つのゾーンに分けて、虫と親しむ大切さを知ってもらおうというビッグ・イベントである。ギフチョウの発見者である名和靖が 大正八年に開館した名和昆虫博物館からも多くの出展があるらしい。

屋外に出て自然の中で時を過ごす小中学生が最近めっきり少なくなり、五感力の大切さが話題に上ってきている事情もあり、夏休みを挟んでの長期に亘る昆虫展は、まことに時宜を得たものであり、諸手を挙げて応援をしたい。

小泉セツの『思い出の記』に拠ると、八雲の好きだったものは、西、夕焼け、夏、海、遊泳、芭蕉、杉、淋しい墓地、蟲、怪談、浦島、蓬莱などであった。周知の如く、八雲は生涯、弱きものや小さきものの味方であり、特に昆虫は大変な興味を示した。蠅や蚊も払うだけで、殺したことはなかったと謂うし、熊本時代であったか、授業中昆虫が舞い込むと、授業を忘れてその虫と話し込んだこともあったらしい。書斎で浴衣(波や蜘蛛の巣の模様)を着て、蝉の声を聞いていることなどは、楽しみの一つであった(注一)。

したがって、昆虫こそ、八雲理解への大きな柱の一つであり、彼の昆虫への愛を通して、 二十一世紀への提言―共生、異文化への共感、豊かな環境作りなど―が聞こえて来る。

ところで、八雲にはアメリカ時代から既に、「昆虫の政治学」「昆虫の文明」「蟻の消息」といった、蟻に関する記事があり、日本でも晩年の作品『怪談』所収の「蟲の研究」の中で、蟻のことを詳しく論じている(注二)。誠に興味深いことではあるが、八雲は彼のアメリカ時代から東京時代まで、人生の半分は蟻への興味・観察を忘れたことはない。これは極めてただならぬ現象であると言わざるを得まい。

既に何方(どなた)もご存じのことであるが、小さな蟻の勤勉さと用心深さは諺に成るほど有名で、イソップ寓話集「ありときりぎりす」にあるように、怠け者のキリギリスと好対照をなす。十七世紀のラ・フォンテーヌが書き改めた「蝉と蟻」や、次の『箴言』にもこの物語と同じような内容が見受けられる。―「怠け者よ、蟻のところへ行き、そのす ることを見て知恵を得よ。」(第六章六節)

先のアメリカ時代の新聞記事「昆虫の政治学」「昆虫の文明」「蟻の消息」では、八雲は蟻のもつ高度に組織化された社会、昆虫の中でも飛び抜けて優れた知力について触れている。『怪談』所収の「蟻」では、蟻の社会形態における倫理状態に最も注目している。

蟻の社会では、利他主義と愛他主義とが互いに区別がつかないほど融和し折衷されて、道徳進化の理想が実現されている。 今日のような体制の中に生きる人間は、蟻のごとき完全無欠な知的習性を養うことはできないが、ハーバート・スペンサー(注三)の言うように、いずれ人類は倫理的に蟻のそれと比較できるような、ある種の文明状態に達するであろうと、八雲は考えているのである。その時の世界は次のようである。

そこには人間がいっぱい居て、その人達が一時の休みもなしに汗みずくになって働いており、しかも、その働いている人達は、誰一人傍からいくら勧めても、騙しても、自分の体力を保つに必要な食べ物の他は、一粒一滴といえども、これを摂ることをしない。また誰一人、自分の神経系統を完全に働かせていくのに、必要な以上の睡眠を一秒たり とも貪るようなことをしない。そして、その人達はことごとく女で、少しでも不必要な怠慢を犯せば、必ずそこに何か機能の混乱が起こってくるような、ある特別な体制のもとに生きるという世界である。

一方、八雲は一八九九年出版の『霊の日本』で「蚕」について書いている。この小品は “進化論上の教訓”を与えてくれる。蚕は、衣、食、住、安全、快適など、望むものは全て得ていて、至上の幸福の境涯にいるかのごとくである。しかしながら、蚕(かいこ)蛾(が)の美しい翅は退化しており、口はあるが物を食べない。ただ交尾して卵を産み、死ぬだけである。大多数のものは糸を紡ぐ際、殺される運命なのである。

我々は、ものを感じものを考える生物はみな、闘争と労苦が産んだものとしてのみ生存を続けて行くことができる、という宇宙の法則を肝に銘じる必要がある。したがって、八雲が蟻の対極にあるものとして蚕の生態を挙げたのは、極めて適切で説得力がある。蟻は自らの強烈な欲望と闘いながら進化して、利他的社会を構築している。それに対して蚕は、全ての欲望が充たされた結果、逆に退化しているからである。

八雲の昆虫文学を読み、スペンサーの進化学説を以って、倫理と宇宙の法則を解き明かそうとすると、人類はまだまだ進化の理想からは程遠く、昆虫の生態から教えられることの如何に多いかに気づかされる。人類はもっともっと謙虚にならねばならない。

(注一)『堤中納言物語』に出てくる“蟲愛ずる姫君”を思わせるが、八雲が愛用した食器、文具、煙管などには昆虫の模様がついていた。

(注二)『怪談』の中には、十七篇の怪談と「蟲の研究」が収められている。そして「蟲の研究」の中には、“蝶”、“蚊”、“蟻”の三篇が含まれている。

(注三)ハーバート・スペンサー(一八二〇−一九〇三)は、イギリスの哲学者・社会学者。その哲学思想は明治前半期の日本に大きな影響を与えた。著書に『総合哲学体系』あり。

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