住吉神社

月刊 「すみよし」

『西洋人の日本学 ―アーネスト・サトウの場合―』
照沼好文

駐日英国公使館書記官アーネスト・サトウ(一八四三―一九二九)は、明治五(一八七二)年十二月二日に外国人として、初めて伊勢神宮を公式に参拝し、そして明治七(一八七四)二月十八日、『日本アジア協会紀要』に、『伊勢神宮』(The Shinto Temples of Ise)という論文一篇を発表している。

『同紀要』の末尾に拠ると、日本政府の蒸気船タボール号が灯台巡視のため、鳥羽港に入った折、参議大隈重信、工部大輔山尾庸三らの計らいで、西欧人一行に伊勢神宮に立ち寄る機会が与えられた。その時サトウは神宮を参観し、その後にこの論文を纏めて発表した。

サトウの『伊勢神宮』の中には、江戸の職人たちや商店(たな)で働く奉公人たち数千人が、伊勢参りに出かける様子などが記され、また東海道経由による伊勢までの里程なども、詳細に載っているが、神宮は日本の全神社のなかで、その神聖な点では最頂点に位置し、ギリシャ人、アルメニア人らにとってのパレスチナの聖地、或いはイスラム教徒にとってのメッカと同様に、日本を代表する聖地として位置づけ、社殿様式や配置・寸法などを詳しく記している。

ところで、サトウの報告のあとで、出席者の間から興味深い問題が提起され、討議されている。萩原延寿氏は『遠い崖―サトウ日記抄』(『朝日新聞』、昭・六一・六・十六夕刊)に、「日本の『宗教』とは何か、神道は『宗教』と呼びうるかという、この古くて新しい問題をめぐって、白熱した議論がつづいた」と批評しているが、この討論の席に参加した数名の人々のうち、特に英国公使パークス、当日の論文発表者サトウの発言に注目してみよう。

まず、サトウの発言の要点をみれば、

神道には道徳律がないというヘップバーン(米宣教師)氏の意見に同感である。じつは近世における古神道の復興の推進者のひとり本居(宣長)は、…道徳律は中国人が発明したものであり、…非道徳的な民族であるからである。…日本では道徳律の体系の如きものは必要ない、というのである。」「本居の説くような神道は、国民を精神的隷属の状態に閉じ込めておく手段以外の何物でもない。一八六八年(明治元年)の革命後、『御門』(みかど)の政府が神祇官に高い地位をあたえ、これを太政官と同格としたのは、まさにこの理由のためである。」(萩原氏訳)

萩原氏は、この「サトウの発言は神道の政治的役割についての代表的な批判のひとつと呼んでよい」と批評した。また、英国公使パークスも、つぎのように発言している。

わたくしも他の諸君と同じように、神道とは何かが理解できなくて、失望している。…しかし、かつて土着信仰にすぎなかったものが、近代になってひとつの政治的手段に転化しているとすれば、…このような状況下では、神道は宗教としての性格を失い、やがてこの国の支配者にとって好都合な内容のものに作り変えられてゆくであろう。…ともかく神道の意味をさぐるためには、古代に遡らなければならないことはあきらかである。」(萩原氏訳)

かくて、サトウの日本学の系譜は、B・H・チェンバレン、或いはW・G・アストンに引き継がれた。明治十五(一八八二)年には、チェンバレンによって英訳『古事記』と、その評論が完成され、英国に帰国したのち、明治二九(一八九六)年アストンによって、英訳『日本書紀』が出版された。

今改めて戦後、占領軍によって与えられた苛酷な『神道指令』を振り返ったとき、その基底には明治の初め、すでにサトウやチェンバレンらが、強調した神道観の影響の大きかったことも否めない。

 

『小泉八雲の妻セツ』
風呂鞏

明治二十三年(一八九〇)四月に来日したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、その年の八月末に松江で教職に就いた。松江滞在は僅か一年三ヶ月であったが、十八歳年下の武士の娘小泉セツと結婚した。彼は民俗学への関心も強く、松江滞在中に書き残したものの中に「二つの珍しい祭日」がある。ハーンは“節分”に興味を懐いていたようだ。

もう一つお話したい祭りは、節分の祝いであるが、これは旧暦によるところから、ちょうど太陽暦の年の始め―冬が初めて春にやわらぎそめる時節にあたる。チェンバレン教授の言うように、「期節の移る祭日」とでもいったらよかろうか。この節分の祝いは「オニヤライ」といって、悪魔を追い払う、変った儀式のために有名である。節分の宵に、「厄払い」といって、悪魔を追い払う男が、錫杖を打ち鳴らして、それが商売の妙な声で、「鬼は外! 福は内!」とどなりながら、町すじの家を一軒一軒呼び歩いてくる。この男は、呼びこまれた家で、わずかの鳥目をもらって、簡単なお祓いをおこなう。このお祓いは、ただ仏教の経文の一節を読んで、錫杖をガチャガチャ鳴らすだけである。そのあとで、家の人は、家の四方へ豆(白豆)を撒く。妙なわけがあって、鬼というやつは白豆が嫌いなのだ。それで、鬼は白豆をよけて、外へ逃げ出すわけだ。こうして撒かれた豆は、掻き集められて、その年はじめて雷の鳴るときまで、大事に仕舞っておいて、初雷が鳴ったときに、そのうちの幾分かを煎って食べるという習わしがある。どうゆうわけで、そんなことをするのか、判らない。鬼が白豆を嫌うという由来も、何から来ているのか、よく判らない。もっとも、白豆が嫌いな点では、実は白状すると、私も鬼と同感であるが。

節分というと、住吉神社で毎年二月三日に行われる節分祭「焼嗅がし神事」を思い起す人も多いであろう。昨年の『すみよし』三月号には、テレビ、新聞などマスコミにも取り上げられたことが紹介されていた。 鰯の頭を焼きその煙で鬼退治をする大変ユニークな神事で、平安時代には既に行われていたと謂う。

この珍しい神事に酷似したしきたりが、明治の松江でも庶民の間に行われていたらしく、ハーンは先の引用に続いて、次のような観察を書いている。

さて、鬼がすっかり追い払われてしまうと、またぞろ舞い込んでこないように、住まいの出入口の上に、小さなまじないの品を置く。これは、焼串ぐらいの長さと太さをもった小さな串に、ヒイラギの葉が一枚と、それに干鰯の頭と、これだけで出来ている。この串を、ヒイラギの葉の真ん中に突き刺して、串の先の割れ目へ鰯の頭をはさみ、串の根元を、雨戸のすぐ上の柱の継ぎ目のところに挿しておくのである。(平井呈一訳)

先に述べたように、ハーンは松江で武士の娘小泉セツと結婚した。 小泉セツは慶応四年(一八六八)二月四日、松江藩士小泉湊と妻チエの次女として生まれた。「セツ」という名は、節分に生まれたことに因んで付けられたという。子供のいない遠戚の稲垣家との約束で、セツはお七夜の晩に稲垣金十郎・トミの養女になった。格式の低い稲垣家では、セツのことを「オジョ(お嬢)」と呼び大切に育てた。

世が世なれば、禄高百石とはいえ何不自由なく暮らして行けたはずだが、時はまさに氏族没落の時代。稲垣家、小泉家も例外ではなく、士族の商法で事業に失敗した。セツは小学校の下等教科を卒業したのみで、家計を助けるべく機織りに精を出す日々を余儀なくされた。松江の小泉八雲記念館に展示されている「セツの織見本帳」には、セツが機織りで家族の命を繋いだ証が染み込んでいる。

十九歳になったセツは、鳥取の士族、前田為二を婿養子に迎えた。しかし、為二は稲垣家の借金や生活を背負うには耐えられず、間もなく出奔してしまった。一八九〇年一月離婚が正式に決まり、同時にセツは実家の小泉家に戻っている。

離婚して一年、傷心を癒す間もなく小泉・稲垣両家の生活を背負ったセツは、周りからの洋妾(らしゃめん)”という陰口にも耳を塞ぎ、住込み女中としてハーンの世話を始める。当時の外国人に対する偏見を考慮すれば、セツの並々ならぬ覚悟は涙を誘うばかりだ。

ハーンはセツの零落した身の上、彼女が親達の露命を繋ぐ孝行な女性であることに心を打たれ、一方セツはハーンの正義感と純粋さに惹かれ、次第に二人の距離は縮まっていった。これは余談だが、セツには笑窪があり、ギリシャ生まれのハーンには、セツの笑顔がアルカイックスマイルを想わせ、美人に映ったのでは、と評する美術家もいる。また、何よりも、セツが有能な語り部であることを知ると、怪談好きのハーンは悦び、毎夜怪談を語らせた。

日本の土となったハーン、その晩年の十四年間は、英語教師、再話作家として充実した日々であったと思えるが、“日本はハーンに何物も与えなかった”と酷評する外国の学者もいる。しかし、ハーンは著書の並ぶ書棚の前に息子の一雄を連れて行き、「この本皆あなたの良きママさんのおかげで生まれましたの本です」と言ったという。実際、セツの語りがなければ、あの名作「耳なし芳一のはなし」は生まれなかったに違いない。今更にして、小泉八雲の妻となったセツに、我々はいくら感謝してもし切れないのである。

何という偶然の一致なのであろうか、私がこの文を書いている時、山陰で出版されている季刊誌『キラリ』冬号(No.23、二〇一一年十二月発行)が、「小泉八雲の妻―孝女セツ夫人の素顔」を特集した。その中で「セツの生き方を振り返る時、激動の世の中に翻弄されながらも常に前を向いて懸命に生きる姿が浮かんでくる。そして、声に出さずとも己の意志を持ち続ける出雲女性の芯の強さを感じさせる」と高橋みか氏が巧みに纏めている。

節分生まれのセツ夫人は、昭和七年二月十八日静かに六四歳の生涯を閉じた。

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