住吉神社

月刊 「すみよし」

『日本の教育力』
照沼好文

吉田茂元首相は『日本を決定した百年』(日本経済新聞社・昭四二・六・一〇刊)という書物のなかで、明治開国以来の日本の近代化、戦後日本の急速な復興、発展の成功には、「日本人が高い教育を受けた有能な国民であった」こと、また「近代化のために教育を重んじたのは、日本の近代化の大きな特徴で」あったと繰返し強調された。

また、日本の西欧化と道徳の頽廃を憂慮あそばされ、この国の教育に最も力を注がれたのは、明治天皇であった。聖上は欧化思潮への反省から、その先頭に立たれて、国民を導かれた。例えば、侍講元田永孚(もとだえいふ)を召し、明治十二年国民教学の指針として、『教学大旨』を示し給うた。同十五年には元田侍講に、『幼学綱要』の編さんを命じ、国民教育の基本として天下に頒布せしめられた。次いで、明治十九年十月、聖上は東京大学に行幸あそばされ、ご視察の上、教学の振興を侍講に諭し給うた。侍講は恐懼(きょうく)して、これを『聖喩記』(せいゆき)として謹記した。やがて、明治二十三年十月に至って、教育の宝典『教育勅語』の発布となった。

殊に、聖上はこうした教育の問題については、実際に各地方の山間僻地における小学校などを親しくご巡察され、その折の感想を側近のものからお聞きになって、方策を実行された。『明治天皇紀』明治九年六月十五日条を見れば、

是の夜木戸孝允、学校教育将来の目的等に就いて奏上する所あり、孝允聖駕に扈従(こじゅう)して各地を巡察するに、到る所小学教育の聖なるを認む、然れども徳育の智育に伴はざるなり、欧州各地の如く宗教を重んぜざる本邦にありては、特に力を修身の学科に到さざるべからずと為す。(六三三頁。)

と、木戸孝允は各地の小学校を視察した感想を奏上されている。

さて再び、さきの吉田茂翁の著書を繙いてみると、吉田翁は、日本人の教育力について、

教育制度が高かったからこそ、明治の日本人は西洋の新しい技術を身につけることができたのであり、教育が与える人間的訓練が日本人に危機に対することを可能にさせた。…同じように、教育程度の高さは、戦後の復興に大きな力となった。日本は戦争によって多くの財産を失ったけれども、最も大切な能力である人間の能力は失われていなかった。……

と、歴史的に育んだ日本人の「国民的特性」と教育の力とが、近代日本を支えただけでなく、戦後日本の復興、発展にも、最大の原動力であったことを力説している。

おわりに、東北大震災の復興に尽力している人びと、そしてその苦難を共通する私たち日本人へのメッセージとして、吉田翁の言葉を掲げておきたい。

最も困難な時期は、人間の最もりっぱな素質が発揮される時期でもある。食うに食なく、住むに家なしという、戦争直後の日本を注意深くみるならば、人は日本人がそのよさを失っていないのを認めることができたであろうし、日本が敗戦の瓦礫(がれき)と残骸のなかから、やがて立ち直るのを予測することができたであろう。…/そして日本人は基本的に楽天的な国民であった。敗戦はたしかに大きな打撃を与えたが、国民は「文化国家」の建設とか、経済復興とか、あるいは自分たちの生活復興とか、さまざまなことに自分たちの生きがいを見いだし、将来を信じた。…こうした素質は、日本の復興とともにつぎつぎに現れることになるのであった。

私たちはすぐれた日本人の特性を信じ、力強く日本の復興・発展に邁進(まいしん)したい。

『国道五四号線と布野村』
風呂鞏

思えばひと昔前になるが、二〇〇〇年七月この地広島で、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)を愛好する同志七人と「広島ラフカディオ・ハーンの会」を立ち上げることが出来た。爾来毎月一回の例会を重ね、二〇〇八年十二月には、第一〇〇回記念大会を開催し、小泉凡氏(ハーンの曾孫)に記念講演を頂くことができた。今年は早くも十一年目である。

 六十六年前、広島は世界で初めての原子爆弾が投下され、文化遺産は壊滅状態となった。しかし幸いなことに、ハーンに縁があると誇れる場所や人物の名残も、僅かながら存在する。そうした人物や場所を探索し、顕彰することが、この会の大きな目的の一つである。

 明治二十三年九月、ハーンは島根県尋常中学校および師範学校で生涯初めて教壇に立った。しかし冬の寒さなどを理由として、熊本市の第五高等中学校への転任を決意、翌年の十一月十五日には松江を離れたのである。僅か一年三ヵ月の松江滞在であった。

熊本への赴任の際、通常ならば美保関からの汽船による日本海ルートを選ぶのであるが、ハーンはそれを断念した。松江から宍道まで水路を行き、今の国道五四号線を南下して広島へと向かったのである。急ぎの旅(四泊五日)ゆえであろう、ハーンにしては珍しく道中の記録が少なく、幾つかの場所が記述ノートに遺されているだけである。そうした中、二日目に宿泊したであろうと思われる県北布野村での日記が残っている。

双三郡布野村は、かつて銀山街道沿いの村として賑わったが、二〇〇四年の市町村合併で、現在は三次市布野町となっている。町の中央を南北に貫く今の五四号線沿いには、「道の駅ゆめらんど布野」もあり、町自体はかつての活況を取り戻している。集落全体が過去に数回大火に見舞われ、その度に街道も少しずつ西へ移った。旧道は今よりかなり東を走っていた。

五四号線から東へ二つ目の通り、即ち明治時代の旧布野村の街道沿いには、次のような案内板が長岡家の入口北側に建てられ、往時が偲ばれる。

【備後最北端の布野宿】

布野宿は寛永十年(一六三三)広島藩の街道と宿駅整備の藩命により雲州街道が整備され、陰陽を結ぶ交通と商品流通のために設置されました。赤名宿まで四里八丁(十六、六q)三次宿へ三里(十二q)の間隔がありました。

運ばれる荷物は、幕府大森銀山の運上銀銅、鈩(たたら)場の原料や銑鉄、この外商品の魚、塩、乾物、木綿等の衣類があり、二十四頭の伝馬が常置していました。赤名宿、三次宿からの荷物は、永田初一氏宅の前で、受継がれていました。

布野宿は雲州街道に沿って五十六軒の家が並び、お客屋が二井屋(長岡宅)、石州代官の本陣が平林、旅人宿として阿賀屋、塩屋、小原屋、菅野屋がありました。公用や商用で利用する人達によりにぎわっていたということです。 

ハーンは第一日目の夜、掛合の宿・竹下屋(現竹下醤油店)に投宿した。そして第二日目に泊まったのが、布野の二井屋(長岡宅、現在の熊谷電機商会の位置にあった)であろう。最近になって、二井屋の写真が見つかった。そこには玄関の天井がアーチ風になった建物が写っている。また長岡家では、昭和二〇年から村長を務めた長岡精華氏(故人)が購入されたと思える第一書房の『小泉八雲全集』十八巻も書棚を飾っている。ハーンの日記「島根・九州だより」(『ハーン著作集』第十五巻、桝井幹生訳)には、次の記述がある。

布野という寒村で、面白いものを見た。一人の老人がそこに宿屋を建てた。半ば倉のようでもあり、半ば洋館風でもあった。障子のかわりにガラスを填め込んだピッチリとした窓枠にした。そのほか冬期快適なように、いろいろと工夫を凝らした。床は無論畳敷きだが、客室のまわりに畳を填め込んだ一種の低いピカピカに磨き上げた腰掛けをめぐらした。戸は西洋式の蝶番で開閉し、玄関の天井はちょっとアーチ風の丸味をもたせてあった。庭がもっとも風変わりであった。イギリス風をまねて花壇が造られているが、何かもっさりとしていた。どこにも見られる石灯籠のかわりに、木製の燈台の模型が中央にデンと立っていた。老人は長年神戸に暮らしたことがあり、老人なりに欧風の考えを取り入れたつもりだった。居心地の点で言うと、老人の考案した客室は申し分のないものであるが、庭だけはその醜悪さの点でどう評していいかわからぬ代物であった。

西洋人として初めて出雲大社本殿の昇殿を許されたハーンは、日本の西洋化を嫌い、古き良き日本の面影を求めた。明治二五年に隠岐の西郷を訪ねた際、宿で予想もしなかった西洋料理(ビフテキ、ロースト・チキン)があると知り、失望したことがあった。同じように、赤名峠を越えたばかりの寒村に西洋風の旅館を発見して驚き、且つガッカリした。   

客間の畳には喜んだが、洋風を真似た庭の造りには醜悪と述べざるを得なかったのであろう。

布野には、県の重要文化財に指定され、在銘のものとしては県内最古の、松雲寺の石造五輪塔や知波夜比売(ちはやひめ)神社の銅製鰐口などの文化財がある。秋の大祭に奉納される布野神楽は、明治二〇年頃布野町下布野知波夜比売神社の舞子として結成されたものである。 ハーンはこうした文化財を楽しむ暇もなく、次の宿泊地可部へと人力車を急がせたのであった。

布野町はいま、「フランチェスカの鐘」などで有名な歌手二葉あき子さんのモニュメントを建立するなど、新しい町づくりを始めている。また、来年二月にオープン予定の「憲吉文芸館」建設の構想もあり、アララギ派の歌人中村憲吉の里として蘇りつつある。

二〇一〇年一月作成の美しい小冊子『中村憲吉』(四〇ページ)には、憲吉の誕生から晩年までの足跡を辿る、詳しい解説・写真が満載、布野町への訪れを誘(いざな)っている。

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