住吉神社

月刊 「すみよし」

『「終戦記念の日」の誓い』
照沼好文

ことしも、八月十五日の『終戦記念日』がめぐってくる。今から、六十七年前の昭和二十年八月十五日当日は灼熱の太陽が照りつける猛暑であったが、ラジオを囲んで陛下の玉音放送を謹聴したことが思い出される。そして、今も各人それぞれが、当日の出来事について感慨ふかい想いを懐かれていることと思う。

嘗て、私は靖国神社の社務所で『社務日誌』を閲覧させて頂いたことがある。特に、『日誌』の終戦当日の記録は印象深かった。

八月十五日 水曜日 晴

一、本日正午十二時過ポツダムニ於テ日本ニ対シ戦争終結ヲ提議シタル 米英支三国共同受諾ニ関スル 大詔煥発セラレ畏クモ 陛下御躬ラ ラジオヲ通シ 全国民ニ対シ御放送アラセラル 宮司以下職員一同 記念殿ラジオノ前ニ正座謹聴ス 洵ニ恐懼感激ノ至リニ堪ヘズ 続テ総理大臣ノ告諭及経過大要放送アリ 終テ宮司ヨリ訓示セラル

八月十六日 木曜日 晴

一、昨日 陛下ノ玉音ニ誓ヒ奉ル決意ヲ込メテ 終日参拝者踵ヲ接スルガ中ニ 拝礼シツゝ 感泣嗚咽スル者多シ

八月十七日 金曜日 晴

一、一昨日 昨日ニ引キツゞキ 早朝ヨリ参拝者多ク涕涙拝殿前ニ額ツクモノ 後ヲ絶タザリキ

靖国神社の御社頭には連日参拝者があとを断たず、「感泣嗚咽」「涕涙」して額づく姿が見られたと、国民の深い悲しみが記されていた。

また、同『日誌』九月十二日の条には、つぎのような記録が残されていた。

一、米国兵ノ社頭出入日々増加スルヲ以テ取敢(ヘ)ズ神門前及中門前ニ左記制札ヲ欧文ニテ掲示ス

(1) 神門前下乘スベシ

(2) 中門前此掲示以内ハ写真撮影及喫煙ヲ禁ズ

一、米兵約壱百名ノ壱団来リ社務所周辺ヲ見物シ 神札所ニテ栞等ヲ購ヒ来ル

以上の記事はさきの社頭における参拝者の姿とは対照的で、米兵の一団が「社務所周辺ヲ見物」する姿が描写されている。また、この時の一団を、共同通信社の通信員が撮影していたので、その写真も残っていた。

最後に、鈴木終戦内閣書記官長迫水久常(さこみず・ひさつね)氏の『降伏時の真相』の文章を引用して、本稿を結びたい。

(陛下は)「自分の意見は去る九日の御前会議に示した所を何ら変らない。」と同一の主旨を御述べ遊ばされた。陛下は暫く御言葉を切られ、純白の御手袋をはめられた御手にて御眼鏡を御拭ひあそばされてをられたが、かくのごとくにして戦争を終ることについて皇軍将兵、戦死者、戦傷者、羅災者、遺家族らに対する厚き御心遣ひの御言葉を御述べあそばされ、しばしば両方の御頬を御手をもって拭はせられた。しかし乍ら事茲に至っては国家を維持するの道はたゞこれしかないと考へられるから、堪へ難きを堪へ、忍び難きを忍んで、茲にこの決心をしたのであるといふことを仰せられた。

列席者一同は陛下の御言葉の始まると間もなくよりたゞ慟哭するのみであった。(七四頁)

かくて、今次大戦の終結には、陛下の御聖断の御力のおかげであったことが、歳月の流れと共に忘れ去られていく。しかし、「終戦記念の日」を機に、心に深く銘記されることを祈っている。

 

『広島高等師範学校教授・金子健二』
風呂鞏

周知の如く、広島はかつて軍都であると同時に教育のメッカでもあった。広島高等師範は東京高等師範と、日本の教育界を真二つに分け合う、西の総本山だった。

明治の官立高等学校、所謂“ナンバースクール”は、明治十九年から二十年にかけて全国に五校(東京、仙台、京都、金沢、熊本)、各地域の中枢に設置されていた。明治三十一年、やっと中国地方に六番目の高等学校が新設されることが、国会で決まったのである。

この時、誘致を進める運動を展開したのは四県、岡山、愛媛、香川、そして広島であった。

広島は中国地方の中心であり、第五師団司令部が置かれているため、当然選ばれるものだと広島県人は安易な気持ちでいた。ところがいざ蓋を開けてみると、第六高等学校は岡山市に決まってしまった。広島と岡山が争奪して、両県選出の代議士が議会の廊下でなぐりあいの乱闘に至ったという伝説まで残っているが、高校誘致に失敗した広島県人の落胆は、言語に絶するほどであった。以後、鹿児島、名古屋とナンバースクールは第八高等学校で打ち止め、旧制高校は“地名スクール”へと移行して行くのである。

この時、次の策を推進する人物がいた。当時は全国的に教員不足が言われており、教員を養成するための高等師範学校を、既存の東京以外、すなわち地方に、一校設置する必要性が議論されていた。その広島高等師範学校の誘致を先頭に立って尽力したのが、市議会議員・森川脩蔵(一八六〇−没年不詳)である。明治三十五年九月、遂に広島高等師範学校が、広島市国泰寺村(現中区千田町)に設置され、開校をみたのである。森川脩蔵は、“東京を東部における国民教育の中心、広島を西部におけるその源泉たらしめんとしたのである”と、昭和六年八月二十五日付中国新聞紙上で当時を回想している。

さて、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は一八九六年から東京帝国大学で、六年七ヶ月の間英文学の講義を行った。教え子たちの中で、金沢の第四高等学校と広島の高等師範学校で教壇に立った者が多い。広島高師には金子健二(一八八〇―一九六一)がいた。

金子健二は、明治三十五年東大入学、同三十八年卒業した。夏目漱石が東大で教えたとほぼ同じ時期に学生であったが、ハーン最後の講義を半年間聴講する幸運にも恵まれている。金子は、ハーンと漱石両者の授業をうけた学生として貴重な存在なのである。 金子三郎編『記録 東京帝大一学生の聴講ノート』(限定一〇〇部の自費出版、平成十四年)があり、『古書通信』(二〇〇二年六月号)が次の如き紹介を載せている。

編者の祖父で、「カンタベリー物語」の全邦訳などで知られる英文学者金子健二は、明治三十五年九月東京帝国大学入学、同三十八年七月卒業した。本書はその学生時代の聴講ノート翻刻。講義はハーンの英文学史と英詩、およびハーンの後任となった夏目漱石による文学概論。ハーン、夏目の講義録は共に全集その他に収録されているが、当時の学生による実際のノートの復原だけに、既刊書にはない詩の引用などもあり貴重。金子の日記の中から、小泉、夏目の講義の感想部分を抜粋しているのも誠に興味深く貴重な証言。

英国留学から帰国して東大の講師となった漱石は、結局ハーンを追い出す形となった。金子健二著『人間漱石』(協同出版、昭和三十一年)にも、金子自身の日記を通して、ハーン及び漱石の授業風景が印象的に書き残されている。また、「ヘルン先生留任運動の餘燼」と題して、ハーン解雇に纏わる学内外の動きが、誠にドラマチックに活写されている。

明治十三年新潟県に生まれた金子健二は、昭和三十六年一月三日急性肝炎のため他界した(享年八十一歳)。一月十三日昭和女子大学は大学葬をとり行い、文部大臣荒木万寿夫が弔辞を読んだ。その中に金子の略歴が紹介されているので一部を転載する。

東京帝国大学文科大学を卒業後、明治四十三年広島高等師範学校教授となり、その後文部省督学官、静岡高等学校長、姫路高等学校長を歴任、昭和十六年、日本女子高等学院教授に転じ、同二十四年昭和女子大学の創立にあたり初代学長に就任、以来今日に至るまで専心学園の整侑発展に尽瘁されたのでありまして、前後五十余年の久しきにわたり、終始一貫教育のために貢献してこられた功績はまことに顕著なるものがあります。

明治四十二年にアメリカ留学から帰国した金子は、四十三年から広島高等師範学校教授となり、大正十五年まで十七年間、英語部の建設と育成に努めた。大正四年(一九一五)英語部を文科第二部と改称した当時、金子は主任となっている。大正十一年高師内に第二臨時教員養成所が設置され、英語科が置かれた。高師二〇年目の英語担当教官としての記録には、小日向定次郎が英語主任と記されているが、金子は依然として文科第二部主幹、言語学・独語主任となっている。

大正十三年臨教卒業の吉武好孝は、のちに武蔵野女子大学名誉教授(文学博士)となり、『ホイットマン受容の百年』などの著書でも有名であるが、広島高師での学級担任が金子健二であった。“よく行き届いた担任であった”と、「第二臨教英語科第一回生の思い出」の中で語っている。 ハーンはアメリカの詩人ホイットマンを必ずしも高く評価しなかったが、吉武がその著書で「ハーンのホイットマン論は、客観性をよく保ちつつ分析の細やかさを発揮した好評論である」と述べるのも、広島高師時代の恩師金子健二の影響かもしれない。ハーンを愛した金子は大正十五年から昭和二年にかけて出版された第一書房『小泉八雲全集』の翻訳に参加、静岡高校校長時代には、焼津でのハーン顕彰碑建立にも尽力している。

バックナンバー
平成27年 1月 2月 3月 4月 5月
平成26年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
平成25年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
平成24年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
平成23年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
平成22年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
平成21年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
平成20年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月