住吉神社

月刊 「すみよし」

「御製に見る大御心」
宮司 森脇宗彦

□はじめに

二月十一日は、建国記念の日である。日本の国の誕生を祝う日である。昭和四十一年に祝日となった。改正祝日法には、「建国を偲び国を愛する心を養う」とある。

建国を祝うということは、日本の国柄をかんがえる日でもある。天皇を中心として歩んできたのが日本である。我々の日本民族の先祖が現在の皇室なのである。日本の国の歴史は、天皇を抜きに語ることはできない。天皇の大御心を拝するのが日本の国民でなくてはならない。大御心はお言葉、御製などで拝することができる。御製を通じて大御心、国民へのメッセージを拝してみたい。宮内庁は、平成二十六年中の天皇・皇后両陛下の詠まれた御歌を三首ずつ発表した。

□神宮参拝の御製

最初の御製は、〈神宮参拝〉と題されている。

あまたなる人らの支へ思ひつつ白木の冴ゆる新宮(にいみや)に詣づ

この御製は、平成二十六年三月二十六日の伊勢の神宮へご参拝された時ものである。このご参拝は、伊勢の神宮の式年遷宮に伴うものである。神宮の式年遷宮とは、式年とは定まった年で、遷宮とはお宮を遷すこと、二十年ごとに御正殿、御神宝、御装束などの造替がくりかえられてきた。大御神の御稜威の甦りであるといわれる。また常に若々しいという「常若」という考えから行われているともいわれる(諸説あり)。

平成二十五年十月には、伊勢の神宮の内宮・外宮の遷御が行われた。新宮に大神様がお遷りになった。「新宮」とは、新しく造替された白木(素木)の新しい社殿である。伊勢の神宮の御社殿は新たに造替されるが、同じ形で再生するという。ここに特徴がある。

皇祖神である天照大御神をお祀りする伊勢の神宮は皇室にとって特別なおやしろである。伊勢の神宮では、天皇陛下の聽許なしにはできない神事がある。治定といって日時の決定も陛下の定まれるものとしている。式年遷宮の主な諸祭事は陛下の聴許、治定である。伊勢の神宮は、一宗教法人とはいえ歴史伝統にのっとり皇室のおやしろである。神宮では私的な祈願はしてはならないという。私幣禁断という。現在でも御正宮では個人祈願の祭事はなされていない。ただし個人祈願は神楽殿で行っている。

御製で、「あまたなる人らの支へ」と詠んでおられるが、式年遷宮は約八年の歳月と、多くの人の奉仕がなければなしえない。世界でも例がない大規模な祭りである。すべての御社殿、千五百種類に及ぶ御神宝・御装束の造替などは宮大工を始め、当代の日本を代表する多くの日本の伝統工芸の人間国宝の方々などの支えがなければできない。また、それにかかる資金は莫大で、今回は当初は五百五十億円といわれた。この資金は神宮からの拠出されるもの以外は、国民の奉賛によるものである。戦前までは国の費用で執行されていた。式年遷宮は時代を反映している。戦後は国の管理から離れ、国民の奉賛といういまのかたちになった。そのような多くの支えを陛下は思われたことであろうと推測する。日本国民の神宮に寄せるこころの支えを拝察されて詠まれたと思われる。

式年遷宮後の親拝は戦後はじまった。前回、平成六年の豊受大神宮参拝時の御製がある。第六十一回神宮式年遷宮だ。

白石(しらいし)を踏み進みゆく我が前に光に映(は)えて新宮(にいみや)は立つ

この参拝には、「剣璽ご動座」があった。三種の神器である剣と璽(勾玉)が、陛下とともに動かれた。これは二十年ぶりのことであった。

□長崎平和公園での御製

第二首目は長崎の平和公園のでの献花を詠まれた御製である。

爆心地の碑に白菊を供へたり忘れざらめや往(い)にし彼の日を

この御製は、長崎のみならず、広島の行幸啓の時の平和公園での献花と重なる思いがあったことが拝察できる。広島の平和公園の献花とかさなる御製とみても何ら違和感がない。戦後七十年を明年迎えるにあたっての思いが伝わってくる。

今年四月には両陛下はパラオに慰霊の旅をされるという。先の大戦に対する深い悲しみと、世界恒久平和への思いをこめられる。多くの英霊たちが、今も南洋の島々に眠る。今の日本が平和であるのは英霊たちのおかげである。このことは、決して忘れてはならない。今年は戦後七〇年である、戦後を振り返り改めてご英霊たちに感謝の誠を捧げたいとおもう。

陛下がお慎みの日とされているのが四日あるという。沖縄戦終結の六月二十二日、広島原爆投下の八月六日、長崎原爆投下の八月九日、そして終戦の日の八月十五日である。外出などをされず静かにお過ごしになる日である。

□広島市行幸啓の御製

三首目は広島土砂災害に関する御製であった。昨年十二月の行幸啓の時の歌がいち早く発表されていることは、天皇陛下の広島に対する深い思い入れを見ることができる。

いかばかり水流は強くありしならむ木々なぎ倒されし一すじの道

昨年八月二十日、広島市安佐南区、安佐北区を中心とした豪雨による土砂災害が発生し、七十四名もの犠牲者がでた。あらためて哀悼の意を表する次第である。この災害のお見舞いに昨年十二月三・四日天皇皇后両陛下は広島市に行幸啓された。もっとも被害の大きかった安佐南区八木の被災地に立たれ、その爪跡の残る山肌に向かって犠牲者の御霊に哀悼の意を表せられた。その時の御製である。

山から一直線に下った山肌に残る爪跡をたしかめ、その土石流の強かったことに想像をめぐらされその被害の大きさに驚かされた様子がつたわる。それとともに被災された人々への思いが伝わってくる。

私も何度かそば近くを車ではしったが、山肌に残る爪跡は、遠方からでもはっきりと見て取れる。

陛下の被災地によせられる温かい心遣いが、被災者の心を癒す。何よりの復興への励みになる。傘寿という高齢にもかかわらず、全国各地の行事や、お見舞いにと行幸される姿には本当に有難く頭が下がるおもいである。

自然災害が発生するたびに被災地をお見舞いになる機会が昨年は多かった。年初の豪雪被害、夏の異常気象、八月二十日の広島市での土砂災害、九月二十七日の御嶽山の噴火の被害、十一月二十二日の長野地震と続いた。広島市では犠牲者が七四人に、御嶽山では五十七名(行方不明者六名)が出ている。

□宮中歌会始めの御製

 今年一月一五日に歌会始めの儀が催された。宮殿松の間で行われ、今年のお題は「本」であった。宮中の歌会始めの儀は、日本の和歌の伝統を受け継いでいる宮中の伝統行事である。

夕やみのせまる田に入り稔りたる稲の根本に鎌をあてがふ

今年の天皇陛下の御製は、日本の国柄がもっともよくわかる御歌である。皇居の中の水田があるなどというと驚かれる人も多い。天皇陛下が、水田で稲作をされるためにある。先進国の中に君主が稲作をされる国はない。日本にのみある。日本独自のものであり、これこそが日本なのだ。(「すみよし」一月号「祈年祭と米」参照)

皇居の水田は決して広くはない。生物学研究所の近くにある。陛下は春には籾種をまかれ、田植えをなされ、秋には収穫される。米つくりを自ら行われる。米つくりにいそしむ国民の生活を体験される。

稲であることに意味がある。稲は日本人にとって生活の糧となり、米は主食である。稲作が日本人を作ってきた。体も心も作ってきた。稲作によって日本の文化が培われたといってもいい。日本人のDNA、遺伝子はここにある。大陸から稲作は伝わった。それによって、日本人の生活が大きく変わっていった。縄文から弥生文化へと移行したという。稲作がもたらした変化である。稲作は共同作業である。地域、村といった社会から国へと統一された。日本人のもとは稲作にあることは疑いがない。

日本人は稲作は、神聖なものとしてとらえた。それを神々の物語としてつたえた。いわゆる神話である。稲作を最初に行ったのは高天原におられた天照大神であると神話はつたえる。天照大神は日の神ともいわれ、恵みをもたらす太陽神であるとも言われる。

神話の世界では、高天原、葦原中国がある。高天原は神々の世界である。葦原中国はこの地上の世界、人の世界である。天原から天照大神の子孫ニニギノミコトが降臨して、この国を統治したと神話は教えている。天孫降臨という。降臨に際して、下されている三大神勅のひとつが「斎庭の稲穂」の神勅である。日本書紀に伝える。

「吾が高天原にきこしめす斎庭の穂をもて、亦吾が児にまかせまつるべし」

 稲作の起源となるこの神勅を実践されているのが天皇陛下だ。

天皇陛下が水田で刈り取られた稲穂は、伊勢の神宮の十月の神嘗祭にお供えになる。またその稲穂は掛税(かけちから)として外玉垣にかけられる。また収穫された稲は十一月の宮中の新嘗祭にお供えになる。

□結び

日本の国は天皇を中心とした国ということを確認したい。いざというときには、天皇の決断を仰いでいる。歴史がこれを証明している。国難を乗り超えたのも、天皇の存在抜きに考えることはできない。

国民とともに歩まれる皇室である。国民統合の象徴である。権力の象徴ではない。名誉の源泉として存在すのが皇室である。決してピラミットの頂点ではなく、球の中心としての存在が天皇であると考える。

戦後七十の今年は、戦後見失った、捨ててしまったものを再発見するときではなかろうか。戦後の教育は神話教育を始め、多くの日本の歴史を否定してきた。神話を教えなかった国は亡びるとまで歴史学者トインビーはいう。日本人のルーツを教える神話はこれからも必要な国の力になることであろう。そうなることを信じている。日本の良さを発見するときではなかろうか。美化のみではいけない。文化は一つの国を護持するのに必要なものでる。  (平成二十七年一月二四日)

『八雲会創立一〇〇年』
風呂鞏

開国以降の明治日本は、西洋至上主義、オリエンタリズムの風潮が渦巻く中、文明開化の旗印のもとに、近代化という欧化政策をまっしぐらに進めてきた。 その明治も半ばを過ぎた二十三年(一八九〇)に、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は来日した。ハーンは教壇の上から学生たちに、日本の旧き善きものへの崇敬を忘れないようにと説き、数々の著作を通しては、心の琴線に触れる麗しき英文で美しい日本の面影を海外に紹介してくれたが、日露戦争の始まる明治三十七年(一九〇四)この世を去り、日本の土と化したのである。

日本での晩年十四年間のうち、僅か一年三ヶ月という短期間の滞在ながら、ハーンは松江の中学校で生涯初めて教壇に立ち、デ・アミーチスの『クオレ』を彷彿とさせる心の教育を披露した。まさにこの時の教師像こそが、後の熊本時代、東京時代を経て、後世にも伝わる“英語教師ハーン”の原型と言っていい。

今も多くの人々の記憶に鮮明に残っていると推察するが、昨今の“ハーン現象”とも言うべき国内外におけるハーンの顕彰活動が飛躍的に拡大していったのは、平成二年(一九九〇)松江で開催された「来日一〇〇年記念フェスティバル」であった。当時松江のハーン顕彰団体である八雲会の銭本健二会長(島根大学教授)はハーンの丁度一四〇回目の誕生日に当たる日、全国のハーン愛好者に向かい「遊ぼう八雲の世界―心の内なる旅味わって―」と題し、声高らかに松江への集結を呼びかけたのである。(紙数の関係上、断片的に引用する)

ハーンが生きた明治の十四年間と私達が生きた昭和の後半期は共に加速された時代と呼んでいい。そうした中でハーンの穏やかな眼差しが私達を引き付けて止まない。ハーンは、目の前の人々の毎日の生活を小さな苦楽のままに受け取る愛の作家であり、日本の文化の基層までさかのぼり、そこから歴史を辿り、日本の将来を見つめる直観の人である。その素人っぽい真直ぐな目によって、大人も子供も全ての人が同じ平面に立つような不思議な気持ちにさせられる。外国から訪れる人と交わりながら、八雲の世界を遊ばれるようお招きしたい。(一九九〇年六月二七日付『中国新聞』)

こうした記念碑的なイベントの他に、機関誌『へるん』の発行、ヘルンをたたえる青少年スピーチコンテスト、「小泉八雲を読む読書感想文」コンテストという三つの大きな柱を堅持しつつ、八雲会は例年その活動を続けている。そして日本各地(特に、ハーン縁りの地)に点在するハーン顕彰団体(「広島ラフカディオ・ハーンの会」もその中の一つ)と連携を密にする努力を続けているが故に、“ハーン現象”は着々と浸透拡大しているのである。最も新しい活動としては、昨年七月、ハーン生誕地ギリシャ・レフカダで開催された小泉八雲没後一一〇年記念事業「オープン・マインド・オブ・ラフカディオ・ハーン“西洋から東洋へ”」と題する小泉凡氏夫妻主導による一大イベントへの協賛がある。

ところで、やや角張った表現で恐縮であるが、上記八雲会の活動は昭和四十年(一九六五)六月二七日に発足した「第二次八雲会」に属するものである。実は、ハーン没後一〇年目の大正四年(一九一五)六月二五日に創立された「第一次八雲会」という先行の存在があり、今年二〇一五年は創立一〇〇周年の記念すべき年に当たるのである。現在の(第二次)八雲会の目覚ましい活動を見るにつけ、その礎を確立した先人たちのご労苦と並々ならぬ功績を風化させる訳にはいかぬ、との思いが高まってくる。

第一次八雲会設立時の大きな事業目標は、旧居の保存(一九四〇年に史蹟に指定される)、及び小泉八雲記念館の建設であった。

ハーン没して暫くの間、ハーンの名を知る日本人は多くなかったが、『知られぬ日本の面影』など、ハーンの著作によって日本を知ると共に興味を覚え、ハーンの遺跡を訪ねる外国人の数は年々増加していた(注一)。然しガイドブックなどは、塩見縄手に遺る八雲旧居のご当主根岸磐井が著した「小泉八雲旧居の記」(大正二年)のみという状況であった(注二)。松江に旅行した日本人の中でも、「小泉先生の旧居を訪ふ」というエッセイを「週刊朝日」(大正十一年七月)に寄せた厨川白村は、松江駅でも市役所でも旧居のことを知っている人がいない。図書館へ行ってやっとこの本を知り、旧居の有り場所が判明、訪ねることが出来た。ハーンに対する世間の無知と忘恩を責め「ヘルン先生没後既に二〇年に近いが、その間松江に居た知事とか市長とかいう者は何をしていたのだ」と声を荒げている。

根岸磐井(一八七四−一九三三)は旧居の買い上げを市に依頼するなど保存に努める一方、自邸西隣の所在地一三七坪を提供し、ハーンの業績や遺品を保管展示する記念館を建設することを構想、その実現に努力した。大正十三年、ハーンの蔵書二四三五冊が富山高校に寄贈されるという、松江市民にとり寝耳に水の一大ショックが発生したが、セツ夫人のご厚意で八雲愛用の机など、ハーンの遺品二八点を譲り受け、記念館建設への気運は高まった。募金活動には幾多の苦労もあったが、市河三喜東大教授の募金協力という救援があり、昭和八年十一月に記念館が竣工したのである。磐井は「完成を見る事が出来ず残念」の言葉を残し、長年苦労して土台を創り上げたのに何一つ報われる事なく、同年三月この世を去った。

全国に点在する八雲顕彰団体の総本山「八雲会」が、創立一〇〇周年を祝賀し、ハーンの功績を後世に伝承すべく陰に陽に尽力された先人の尊き思いを偲ぶことは、 決して徒や疎かにされてよいことではない。大正四年はハーンが従四位を贈られた年でもあった

(注一)島根県警察部の調べでは、ハーン没年の明治三七年、年間一五〇人を超えていた。

(注一)大正七年根岸磐井は大谷正信に「旧居の記」の英文版を依頼。翌年出版された。

 

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