住吉神社

月刊 「すみよし」

『先人の祈り―吉田茂元首相の場合』
照沼好文

戦後政治の原型、今日の日本の基礎を築いた吉田茂元首相は、つねに自国の歴史、伝統、文化を尊重し、そして信奉することの大切であることを主張しつづけた。とくに、それらの根源であるところの「神道は日本国民の宗教である」として、「神道は皇室の宗教であることはもとよりであったが、一般国民にとっても、広い意味での神道は、すなわち伊勢神宮以下諸々の神社を尊崇する国民共通の気持ちであるという意味において、国民の宗教でもあったわけである」と、吉田翁自身の信念を吐露されている。(『世界と日本』随筆編、二二四頁)

こうした信念のもとに、終戦後における神道復活に貢献した吉田翁について、元熱田神宮名誉宮司長谷外余男(はせとよお)氏は、つぎのように述懐された。

終戦後一たん地に堕ちた神社に対する国民の信仰とか認識とかいふものが二十年を経た今日、少しづつでも復活しつつあることは単に時勢の移り変りとかによるものではない。先生のやうな政界の元老が、神道に対する愛情を持ち続け、これを実践してゐられる影響の大きさも見逃してはならぬと思ふ。

果して然らば、先生は斯界の恩人である。私は広く同職の方々にこの事実をお伝へして、共々先生に対する感謝を捧げたいと念ずる次第である。(『神社新報』第九四三号)

吉田翁の「神道に対する愛情」と「実践」とに、長谷氏は感謝された。

また、吉田翁のご皇室に対する尊崇の念には、確固たるものがあった。翁は『私の皇室観』(『回顧十年』第四巻八三頁)のなかで、「わが歴代の天皇のうち、今上陛下(昭和天皇)ほど御苦労なされた御方は、蓋し稀ならんと存ぜられる」と前置きして、昭和天皇、香淳皇后陛下の御苦労をねぎらわれている。

今上陛下登極以来屡々国難に際せられ、且つ空前の危局に遭遇せられしに拘らず。国勢よく茲に至りたるは、一に聖徳の然らしむところと存ずるのである。庶幾(こいねがわ)くは、日本の国情、将来永きに亘って…「独り至尊をして社稷を憂えしむる」ことなからしめたい。

とくに、今次大戦の終結に対して、翁は陛下の御苦衷を身近に、ひしひしと感じていた。とりわけ、昭和二十年八月十四日戦争終結を決定する御前会議における「御諚」(ごじょう=陛下のお言葉)に関して、吉田翁は、

斯の聖断なかりせば、わが国土は焦土と化し、国民は流亡の民となったであろう。しかるに陛下は終戦の詔勅を玉音放送され、「万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」と御決意ヲ披瀝セラレ、つゞいて「朕ハ…常ニ爾臣民ト共ニ在リ」と仰せられしことは、絶望の深渕に臨める一般国民をして全く蘇生の思いあらしめたのである。実に終戦の詔勅は今尚涙なくして拝読し能わざるところである。

と陛下に対する尊崇の至情を一たんと深くしている。こうした吉田翁の皇室に対する至情は、佐藤栄作元首相に大きな影響を及ぼし、陛下と佐藤氏とのやりとりは、しだいに親密さを増し、また佐藤氏は「君臣の情義」の意識を強くしていたという。首相在任最後の日、佐藤氏は昭和陛下に、天皇、皇后「両陛下の御写真」を「おねだり」している。(『読売新聞』平二四・五・一二号)

顧みれば、日本国民の自覚を問うと高く声を大にした歳末の衆院選挙も終って、新しい年を迎えた。この年頭に際し、私達は真剣に国の将来を考えなければならない。この秋(とき)に、改めて先人たちの「日本への祈り」、深渕な国家観を認識して、日本国民としての自覚を強固にしたいものである。

 

『懐かしの物売り、その声』
風呂鞏

二〇一二年度文化勲章が山中伸弥京大教授や映画監督の山田洋次さんら六人に贈られることとなり、昨年十一月三日文化の日に、皇居で親授式が行われた。山田監督の代表的な作品といえば、誰しも渥美清主演の「男はつらいよ」を思い浮かべるであろう。一九六九年に始まった映画シリース(テレビドラマは前年の一九六八年)だが、正月映画としての公開が毎年の恒例となり、「寅さん」は冬の季語ともなっている。

一九七一年(昭和四六)一月十五日公開の第六話「男はつらいよ・純情篇」は、長崎と静岡(浜名湖)を舞台に、マドンナ役に若尾文子を配した作品である。その中の一シーンで、寅次郎が「正月の鶴亀の置物」を売る場面がある。その売り口上は次の通りである。

御通行中の皆様、新年あけましておめでとうございます。お客様、どうぞ今年もよいお年でございますように。さて、ここに陳列されましたるは幸せを呼ぶ鶴亀でございます。鶴は千年、亀は万年。あなた百まで、わしゃ九十九まで、共にシラミのたかるまで。三千世界の松の木が枯れても、お前さんと添わなきゃ娑婆に出た甲斐がない。七つ長野の善光寺、八つ谷中の奥寺で、竹の柱に萱の屋根、手鍋下げてもわしゃいとやせぬ。信州信濃の新そばよりも、あたしゃあなたのそばがよい。あなた百までわしゃ九十九まで、ともに白髪の生えるまで、というのが本当。もしこれで買い手がなかったら、本日、貧乏人の行列と思って諦めます。

こうした行商人達や彼等の陽気な売り口上が聞こえてくる情景は、祝祭日になると神社の境内や下町の街角でも、最近まではごく普通に目にした風物であった。特に歳の初めの祝いとなると、村の青年や半ば職業的な物もらいが門付けにきて、家の中に「福俵」などを投げ込んで、その返礼として米や餅や銭を貰い歩く地方もあったらしい。

昨年末逝去した小沢昭一氏に著書『放浪芸雑録』(白水社)がある。昭和四十年頃の福井市内では、「福俵」の習慣が残っていたと述べているが、静岡県土肥町水口では、幕末の頃旅芸人によって伝えられた福俵を、珍しい郷土の芸能として婦人会が伝承しているという。「長野県飯田市の福俵」では、次のような祝福歌(一番のみ)も聞かれた。

舞い込んだ 舞い込んだ

重たいな めでたいな  福だわらー

この家の上から

鶴さん舞いさがり 下では亀さん舞おどり

お家繁昌と お酒盛り

鶴は千年 亀は万年

俵は恵比寿 大黒 福の神の福俵

ころがして千俵

一つ祝って一千万両

二つ祝えば二千万両

三つ祝えば三千万両

ラフカディオ・ハーンこと、小泉八雲は「耳の人」と異名をとるほど聴覚に秀でていたが、アメリカ時代には行商人の売り声に大変興味を持っていた。ニューオーリンズでは、『アイテム』紙の「夜明けの声」という記事に、早朝のトマト売り、オクラ売りなどの声を書き留めている。安物の日本の扇子売りには極東行きを夢見たかも知れない。日本にやって来てからは、横浜の闇の中に笛とともに響く“あんま―かみしも―五百文”という、鈴を振るような女の声に哀感を誘われた。「神々の国の首都」松江では、第一日目の朝には枕の下から伝わって来る米搗きの音に眼を覚まし、洞光寺の鐘、宿屋の庭先から聞こえて来る柏手の音、そして宍道湖に面した大橋を“カラコロ”と渡る下駄の音に耳を澄ました。中でも“大根やーい、蕪や蕪”、“もややもや”という物売りの声には新鮮な喜びを感じた。さらに神戸でも、正月に因んだ祝福芸ではなかったが、一盲女の三味線による俗謡が、個人的なものを超えた深い感情を蘇らせてくれたことを友人のチェンバレンに書簡で報告している。

『落語鑑賞』で有名な安藤鶴夫が、昭和四十二年八月、ニッポン放送の夜番組〈ラジオ・エッセイ〉で、渡辺晏孝の売り声と共に「昔・東京の町の売り声」を紹介している。

柳橋に住んでいた四代目の古今亭今輔という落語家は、よく売り声の真似をしたらしい。町の中を売って歩く、そうゆう売り声をやる前に必ず、「町町の時計になれや小商人(こあきうど)」という川柳を引き合いに出した、という。そして町町を売り歩く小商人は、だいたいの時間を、おのずと知らせてくれたけれど、売り声で、あ、春が来たな、とか、夏も今が真っ盛りだな、とか、ふと、そんな季節の移り変わりをも感じさせてくれたのである。

朝、あさりやの声が聞こえてくると、ああ、そろそろ春がくるな、と思う。金魚売りの声が聞こえてくるのは、いつも眠そうな昼下がりで、ああ夏が来たな、と思わせる。炎天下の町中には、定斎屋も来た。いわしを売りにくると、もう秋である。十二月に入ってから正月の末まで、暦売りが来たのも忘れられない、などと往時の風俗談義に魅了される。

昨今は、携帯式のマイクで叫ぶ「さおだけ屋」の代わりに、テープ録音された“石焼き芋”の売り声くらいしか聞こえて来ない。筆者には昭和三十年代、毎朝下宿の窓から納豆売りの声が聞こえてきた東京での学生生活が懐かしい。東京タワーからスカイツリーの時代となり、昭和は遠くなりにけりの感は拭えないが、早朝に雄鶏の鳴き声や、風情あふるる物売りの声が日常であった長閑な世の中に今一度住みたいものである。

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