住吉神社

月刊 「すみよし」

『至誠一貫の人 慶喜公』
照沼 好文 

さきに、本紙『すみよし』(六号)に「幕末―一つの外交論」と題した拙稿を掲載して頂いたが、とくに今回は徳川幕府の最後の将軍一橋慶喜(ひとつばし・よしのぶ)公の人の為りに接近してみようと思っている。

周知のように、慶喜公は慶応二(一八六五)年八月、十四代将軍家茂薨去によって宗家を継ぎ、十二月征夷大将軍に任じられたが、公は九代水戸藩主徳川斉昭公(烈公)の第七男として生れ、幼名七郎麿と称した。烈公が、諸公子を評した言葉の中で、「七郎は天晴(あっぱれ)名将とならん、されどよくせずば手に余るべし」(東洋文庫『徳川慶喜公伝』Ⅰ、十三頁)と語っているが、弘化四(一八四七)九月三卿の一、一橋家を相続して「慶喜」と改めた。その後、十三代将軍家定の後嗣に推せんされたが、安政六(一八五八)年井伊直弼(なおすけ)の「安政の大獄」により、隠居謹慎の処分を受けている。しかし、直弼の死後将軍家茂の後見職に補され、これより幕政に参画するに至っている。

かくして、慶応二年八月徳川宗家を相続して、征夷大将軍に任ぜられ、幕府機構の改革や軍制の整備などに力を尽したが、第二次長州征伐の失敗、兵庫開港をめぐって諸外国の圧力の高まり、薩長同盟の成立(慶応元年一月)を機として、倒幕運動が組織的に具体的な展開を見せ、遂に慶応三(一八六七)年十月十四日、山内容堂の建白を機に大政奉還を上奏。そして、十二月九日王政復古の大号令が発せられるや大坂城に移り、また鳥羽、伏見の戦いに敗れて翌明治元(一八六七)年正月、海路江戸に帰り、次いで追討の勅命が降り、江戸城を出て上野寛永寺の大慈院に移る。さらに水戸の弘道館に移って謹慎したが、静岡に移居して同二年九月謹慎が解かれた。その後、東京に住み、大正二年二月二十二日七十七歳で薨去した。伝記には澁沢栄一著『徳川慶喜公伝』(全八巻、大正七年一月発行)などがある。

さて、大政奉還後の慶喜公はひたすら恭順の姿勢を貫き通したが、今日学界には、公の評価をめぐって種々の議論がある。しかし、公の薨去の翌二十三日各新聞紙上には皆公平で讃美の言葉に満ちていた。例えば、東京朝日新聞は、つぎのように報じている。

公の決然として政権を返上したるは、大国主命が我国土を捧げたるよりも優れり。公は群疑の間に立ち、因習の中に纏(まと)はれつつ、毅然として三百年、否七百年踏襲の政権を返上したるもの、…公の誠忠と果断とに由らずんばあらず。其群議を斥け、誘惑を排し、断乎として所信を遂行して、寸毫未練の猜疑も無きは、公の潔白なる真精神に由らずんばあらず。王政復古、維新の大業を成就したる所以のもの、公の力に由るもの多しと言ふに憚(はばか)らざる所なり。

また、公の人と為りを評して、

東京市民として之を見れば、公は三百年東京市民を保護した徳川幕府の最後の主人なりき。日本国民として之を見れば公は明治維新の新天地を開くに最大の功績ありし一元勲なりき。皇室よりして之を見れば、義・烈両公の理想を実現した勤王の忠臣・義臣なりき。個人として之を見れば人格高尚にして俗人に超越し、識見雄大にして大局を達観するの明あり、君国の大事に対して、一身の栄華を犠牲にする精神の輝ける偉人なりき。吾人は近代の日本歴史に於て、赫々たる功業、恰も日の如き明治大帝を有するを誇ると同時に、さながら月にも比すべき徳川慶喜公を有するを誇る者なり。云云

最後に、次の一文を掲げて結としたい。

専ら尊王の大義に拠りて悲願を表し、其の地位、権力、名誉、富貴、一切を犠牲として国家の為めに奉じ、…私を棄て公に奉じ、終始至誠を一貫し、…以て王政維新の業をして容易に成就せしめたるは実に古今万国の歴史に類例なき所なり。

嗚呼是れ徳川十五代将軍慶喜公の大節なり。水戸義公大日本史を著はして大義名分を天下に明(あきらか)にし、水戸歴代継述伝承せし尊王の誠、茲に於てか顕なりと謂つべし。

―『いはらき新聞』所収、名越時孝氏の一文に拠る(大正二年十一月二十八日、二十九日)―

 

『出雲大社「平成の大遷宮」』
風呂鞏

出雲は、わけても神々の国であり、いまでもイザナギ、イザナミの子孫が、深くその宗祖を尊敬している、この民族の揺籃の地であるわけだが、同時に、その出雲のなかでも、杵築はとくに神の都であって、そこにある古い神社こそは、この国の古代信仰である、神道という偉大な宗教が発祥した、本家本元なのである。(注一)

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲、一八五〇-一九〇四)は、記録に明らかなだけで、出雲大社には三度参詣している。第一回は、松江に到着して僅か二週間後の明治二十三(一八九〇)年九月十四日で、西洋人としては初めて正式の昇殿参拝を許されている。この体験が、ハーンの神道観を知る上で最も重要なカギとなる作品「杵築―日本最古の神社―」として結実した。冒頭に掲げた文章は、その「杵築―日本最古の神社―」の最初の部分である。二度目は翌二十四年七月二十八日、この時の見聞は「杵築雑記」に詳しく書かれている。最後の参拝は、東大へ赴任する直前の二十九年八月十二日である。実は、この年二月には帰化手続きも完了し、「小泉八雲」と改名している。こうしたことからも、前の二回が取材であったのに対し、三度目は儀礼的な訪問だったらしく、特に作品化されることはなかった。また二月には、伊勢神宮も訪ねているが、これもやはり作品にはならなかった。

ところで、出雲大社は今年四月二十一日、国宝御本殿改修に伴う「平成の大遷宮」で、五十九年ぶりに本殿の一般公開を決めた。期間を区切っての公開であるが、四月二十二日から八月十七日まで計三十七日間拝観できることとした。五月十八日までの二十日間で約十二万人が参拝し、早朝から順番待ちをする長蛇の列が、境内では納まりきらないなど(最大で四時間半待ち)、熱中症で倒れるお年寄りも出たりした。当初は七月に公開する予定はなかったが、参拝者からの要望が余りに多いため、七月十九日(土)からの三連休も利用して、さらに公開日数を増やした。

筆者は当初八月の参拝を予定していたが、急遽七月二十日(日)に「特別拝観」をすべく、自家用車で広島を早朝四時半に出発した。正門(勢溜)左手、松の参道西にある出雲大社専用の駐車場(三百七十台収容)に七時十五分頃着いた。自分としてはかなり早く到着した積りであったが、駐車場の車の多さに先ずビックリ、案内係と思われる人の指示で急ぎ足に銅鳥居前に設置されたテントに向かうと、八時半からの拝観を順番待ちする人々が既に約三〇〇メートル以上並んでいるのには、二度ビックリした。

「特別拝観のしおり」と「御本殿特別拝観之証(平成二十年七月二十日の日付あり)」を受け取り、案内係の指示に従って八足門から楼門を経て進んだ。延享元年(一七四四)に造営された日本最古の神社様式「大社造り」、その国宝御本殿正面の木階十五段を登り、高欄のついた縁を右側から時計と逆周りに巡り、正面の御扉前の浜床に正座して説明を聞きながら、御本殿の内部を拝覧した。鏡天井に描かれた“八雲之図”(実際には雲は七つしか描かれていない)を眺め、心御柱と右側の側柱の間にある板仕切の奥、西向きに御鎮座されている御内殿(御神座)を確認した(注二)。

前後に物凄い数の参詣者が続くなかでの拝覧なので、心行くまでじっくりと、まではとても叶わなかったが、ハーンが昇殿を許された時の感激が、身体中の皮膚を通して骨髄にまで伝わってくる気がして、昂揚感に一瞬身が震えた。

周知の如く、〈出雲〉とは大国主神を中心とする神々に象徴される場所であり、天照大神を中心とする神々に象徴される〈伊勢〉の対概念であるが、幕末から明治維新を経て、昭和に至るまでの近代史の中で、〈伊勢〉による〈出雲〉の抹殺もあった。ハーンは上代の祭の中心はむしろ出雲の神社であったことを正しく理解しており、その炯眼によって、大国主神が幽冥主宰神であることを見抜いていた。彼の死後出版された、最晩年の作品『日本ー一つの試論』には、次の説明が読める。(注三)

 

天皇家の創始者を支持して、自分の治めていたその領国を譲り渡した大国主神は、「見えない国」―すなわち「霊の国」の支配者となったのである。この神の支配する幽冥の国に万人の霊はその死後に赴くのである。それでこの神は氏神のすべてを支配することになるわけである。それだから、大国主神を「死者の帝王」と呼んでよいことになろう。平田(篤胤)は言う、「われわれは最も望ましい事情の下で、百年以上の寿命を望むわけにはいかない。しかし死後は大国主神の『幽冥の世界』に行って、彼に仕えるのだから、いまのうちにこの神に額ずいて拝むことを習っておくがよい」と。

 

「平成の大遷宮」記念絵葉書(五枚入り)の封筒には、皇后陛下が平成十五年十月三日出雲大社に詣でて詠まれた御歌「国譲り 祀られましし 大神の 奇しき御業を 偲びて止まず」が印刷されている。ハーンは皇后陛下の御心に近づいていたことが解る。

余談である。特別拝覧を終え、同行の友人と旧道沿いの荒木屋で名物の蕎麦に舌鼓を打った。近くには以前、へるんの宿「いなばや」があった。ハーンが出雲大社訪問の際常宿としていた老舗旅館である。残念なことに二年前解体されたとのことで、建物自体すでに無く、何とも言えず一抹の寂しさを禁じ得なかった。

(注一)『日本瞥見記』第八章「杵築―日本最古の神社―」
(注二)天井図は「心の雲」の外、雲の配置、配色、逆向の一雲等、神秘的である。
(注三)『日本ー一つの試論』所収の「神道の発達」

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