住吉神社

月刊 「すみよし」

『幼児教育の発達 豊田芙雄子について』
照沼 好文 

ふと、こんな唱歌が、子供の頃の思い出として私の頭を横切った。

蝶々(ちょうちょ) 蝶々(ちょうちょ)

菜の葉にとまれ

菜の葉にあいだら

桜にとまれ

大抵、年配の方はこの唱歌をご存知かと思うが、この歌の作詞・作曲者を問われると案外知ってる方はすくないのではなかろうか。かく云う私も、実のところ全く知らなかったが、この作者がわが国の幼稚園保母(教諭)の第一号であり、女子教育の先駆者であった水戸出身の豊田芙雄子(ふゆこ)であることを、最近知った。

芙雄(ふゆ)は弘化二年(一八四五)、水戸藩士桑原幾太郎の次女として生まれた。母雪子は碩学藤田幽谷の次女、即ち藤田東湖の妹である。文久二年(一八六二)、英雄十八歳の時彰考館(国史編さん所)総裁豊田天功の長男小太郎と結婚したが、その数年後の慶応二年(一八六六)、夫小太郎国事に奔走中、京都において刺客によって非業の死を遂げた。いずれにせよ、国事多難な幕末・維新の夜明け前に、その渦中の人として芙雄は生きた。

しかし、明治の開明時代に至って、芙雄は女子教育、幼児教育の先駆者として、その第一歩を踏み出す。とくに、明治八年(一八七五)には東京女子師範学校(現、お茶の水女子大学)開設に当たり、校長中村正直の推薦によって読書教員に採用され、漢文、歴史地理を教えた。翌年には同校付属幼稚園が開設され、保母に任命され「日本の保母第一号」の誕生となる。さらに、明治十二年鹿児島県令の懇請により鹿児島に赴任し、幼稚園の創設に参画している。同時に、幼児の実際保育、保母養成に尽力している。さらに、明治二十年(一八八七)には、徳川篤敬(あつよし)侯がイタリー全権公使に赴任する時、芙雄は文部省から「欧州女子教育事情調べ」を委嘱され、広く西欧諸国の教育文化を摂取して、日本の女子教育、幼児教育の発展に寄与している。ともあれ、帰朝後は東京府立第一高等学校をはじめ、茨城県立高女、私立高女、栃木県立高女を歴任して、昭和十六年十二月一日、九十六歳の天寿を全うした。

ところで芙雄刀自は所謂幼稚園教育の道しるべとして『保育の栞(しおり)』という一冊の書物を残している。とくに、この中には幼児教育の目標、そしてその展開としてドイツの教育家、フレーベルの保育法を詳細に紹介している。とりわけ、幼児教育上、心掛けるべき事項二十五項目を「保母の心得」として上げている。これは芙雄自身の主張であるが、今日子どもの「しつけ」問題が話題になっている時、家庭のしつけにも参考になる事項があると思うので、任意に選んで紹介してみよう。

○ 小児は其年令と発育とにより開誘(かいいう・指導すること)すべし。苟も成人と見誤ること勿(なか)れ。

○保母はなるだけ児童に適当する言語を以て説話するは最もよき事なれども、世に所謂片言をば言い語るべからず。通常簡易に正しく言うべし。

○保母誘導の際、規則時間中は児童の随意(ずいい・気まま)を許すべからず。若し屡々(しばしば)これを許す時は傲慢放縦(ほうしょう)の性を増さしむ。

○物に害あり、人に妨げある悪き事は如何いかに細の事なりとも許すべからず。保母の権を以て能(よ)く制すべし。

○児童に粗暴(そぼう)なる言語あらしむべからず

○児童は決して人長者(目上のもの)の言に背く可らざる事を知らしむべし。

○小虫、子馬及び小さき植物なりとも、残酷ざんこくなる取扱いをなすばからざる事をしらしむべし。

○諺に曰く、今日の小児は明日の大人なり。又曰、小児は大人の師(先生)なり。」

以上は近代日本の幼児、女子教育の発展に、その生涯を捧げた芙雄刀自の珠玉の言葉である。これには、子供達の将来を見つめ、謙虚に傾聴に価するものがあると思う。

 

『宮島の豊かな国際性』
風呂鞏

日本三景の一つ、世界文化遺産に指定されている宮島には、老舗旅館「岩惣」がある。岩惣の歴史は古い。初代岩田屋惣兵衛が安政元年(一八五四)、もみじ谷の川に橋を架け、渓流に茶屋を設けて道行く人々の憩いの場としたのが創まりだと聞く。大正天皇を初め、各皇族方が広島訪問の際には、ここをお宿としておられる。

もう十年以上も前になるが、その岩惣に宿泊させて頂いたことがある。夕食時に出された箸紙に「行く春や 経納めにと 厳島」(漱石)と書かれていた。この句は岩波書店刊行の『夏目漱石全集』第十二巻に拠ると、大正三年の句として載っている。夏目漱石は明治二十九年四月十日、ここ岩惣に宿泊していたのである。“経納め”と言えば、厳島神社には国宝中の国宝といわれる平家納経があり、四月十五日には桃花祭(夜は舞楽)がある。

去る三月一日(土)、広島市中区の広島厚生年金会館で、第十七回ANA歴史シンポジウム「安芸文化の輝き―調べと語りの世界―」があった。平家の厳島信仰などをテーマに、専門家四人による啓蒙的な意見交換が聞かれた。

パネルディスカッションで、西原大輔広島大学准教授から“欧米人の見た宮島”として、国際的観光地である安芸の宮島を訪れた欧米人の紹介があった。

お話を拝聴している間に、或る先輩の話を想い出した。中学一年生になったばかりの頃、広島駅前に赴き、ヘレン・ケラー女史(勿論、サリバン女史も同行)を迎えられたそうである。昭和二十三年の岩惣の宿帳には、ヘレン・ケラー女史の名前が確かに残っている。

あの有名なアインシュタイン博士も夫人同伴で、日本を訪問し、一九二二年十二月宮島を見物している。「私は、小泉八雲の著書によって初めて日本を知り、その国民性には深く共鳴しています。日本を一度訪問してみたいと思っておりました。私は相対性理論の知識を日本人に与えると共に、また日本からも何物かを得て帰りたいと思っています。」(注一)という博士の言葉が残っている。

一九一四年、オーストリアの皇太子フランツ・フェルディナンド(一八六三-一九一四)が、サラエボで暗殺された事件をきっかけに第一次世界大戦が勃発したことは周知の事実である。その悲運の皇太子が、一八九三(明治二十六)年に宮島を訪れ、旅行記(注二)を残している。これは余談であるが、皇太子が岩惣に宿泊したのが、“八月六日”であった、というのも偶然とは言え、何だか薄気味の悪さを覚えざるを得ない。

約十ヶ月に及ぶ世界旅行の途次、ほぼ一ヶ月にわたって日本に滞在したフェルディナンド皇太子は、各地で日本文化との出会いを堪能しつつ、素朴な好奇心以上の情熱をもって、日本の神道についても相当な知見を獲得していた。彼がのちにウィーン民族学博物館日本部門の礎をなす一万八千もの美術品の蒐集を行った事実からも、並々ならぬ知識欲と鋭い観察眼を有していた人物であったことが判る。

神道の目指すところは、この世の人間の仕合せであり、そのためには死者の霊魂の加護が必要だと考える。したがって人びとは、死者の霊魂の助力が必要だと思えば、ポンと柏手を打ち、自分たちの住む場所に呼び戻すのである。神道に特徴的なのは、神威に対する畏敬の念だ。こうした感情は、幾百万もの神々―太陽女神の天照大神のもとで輪舞したとされる―もそうだが、世間で名が知れた人物にも特徴的なものだ。たとえば、天照大神の子孫とされる神武天皇(在位は紀元六六〇-前五八五年)は、日本国の創始者とされ、かつ皇室の祖であるとされている。したがって、累代の天皇は天照大神の子孫ということになり、神として崇敬される。

わずか一度の旅行で、これだけの内容が日記に書ける才能は、まさに驚嘆に価する。

この他、友人のビゲロー(一八五〇-一九二六)と一緒に宮島を訪れた、大森貝塚発見で有名なE・S・モース(一八三八-一九二五)(注三)、英国人の写真家H・G・ポンティング(一八七〇-一九二三)(注四)、極東の新興国日本を支援し、日露戦争に勝利をもたらしたドイツ系ユダヤ人ジェイコブ・シフ(一八四七-一九二〇)など枚挙に暇が無い。シフは一九〇六年四月二十九日、厳島神社に詣でている(注五)。

日本に来て神々の国を発見した小泉八雲は、三度も出雲大社に参詣し、一八九六(明治二十九)年二月下旬には家族で伊勢へ旅行して、伊勢神宮も訪れている。しかし厳島神社参詣は生涯果たせなかった。八雲は一八九二(明治二十五)年七月、妻のセツを伴って、京都および隠岐方面への旅に出た。京都、奈良、神戸を訪れた後、岡山地方が暴風雨のため鉄道が不通となり、宮島見物の旅程計画は断念せざるを得なかった。当時の外国人旅行者のためのガイドブック、マレーの『日本旅行案内』の協力者の一人でもあった八雲は、厳島神社参詣が果たせなかったことは、一生の痛恨事であったに違いない。我々としても、流麗なタッチで描かれた“八雲の宮島”が読めないのは、まことに淋しい。

(注一)矢野健太郎『アインシュタイン伝』(新潮文庫、平成九年)
(注二)フランツ・フェルディナンド[安藤勉訳]『オーストリア皇太子の日本日記』(講談社学術文庫、二〇〇五)
(注三)E・S・モース[石川欣一訳]『日本その日その日3』(平凡社・東洋文庫、一九七一)宮島を訪れたのは一八八二年の八月十六日。
(注四)ハーバート・G・ポンティング[長岡祥三訳]『英国人写真家の見た明治日本』(講談社学術文庫、二〇〇五)。一九〇一年から一九〇二年(明治三十四~三十五年)に何度か来日、宮島については次の記述がある。―“「宮島!」その名前からして耳に優しく快く響く。それは女王にふさわしい名前だ。確かに宮島は、世界中で最も美しい水域の一つ、瀬戸内海に君臨する島の女王と言ってよいだろう。”
(注五)田畑則重『日露戦争に投資した男』(新潮新書、二〇〇五)

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