住吉神社

月刊 「すみよし」

『照沼先生を偲んで』
森脇宗彦

照沼好文先生が帰幽された。先生は昭和三年に茨城県にお生まれになり、国学院大学を卒業後、水戸の学風をしたい、水戸史学を中心に研究をされた。著書には『招魂社成立史の研究』『水戸の学風』『常磐神社史』など多数ある。

先生との出会いは、私が広島県青年神職会会長当時、招魂社にかんする講演依頼のために東広島の自宅に電話をしたときにはじまる。電話には先生の奥さまが対応され、現在水戸の彰考館に行っていて、帰ってこないとのことで、都合が合わず断念した。その後、ご夫妻で当社にご参拝になりお会いすることができた。しばらくして先生に当社の発行の月刊「すみよし」に寄稿をお願いすると、それ以来毎月ご寄稿いただいた。調べてみると最初の寄稿は平成十年七月号で「慶喜公と庭訓」である。

毎月の原稿は封書で届いた。時にはファックスの時もあった。原稿用紙のひと升ひと升に、一字一字実に丁寧に書かれてあり、実直な人格がにじみでていた。原稿用紙ものりで継ぎたされた時もあり、一枚の原稿用紙も無駄にされない姿は、見習わなくてはならないと思ったことである。

今年の四月号まで寄稿頂いたが、四月号の原稿は奥様が清書されたものだった。体調を崩されていることが分かった。五月にはしばらく休ませてもらうとの奥様からの手紙(五月十五日付)を受け取って心配していた。最後まで「すみよし」のことは気に掛けていただいた。五月十八日に帰幽された。八十六歳(数え年)であった。

最後の寄稿「活字文化」が遺稿となった。実に十五年の長きにわたってご寄稿いただいたことになる。

「すみよし」以外にも先生には大変お世話になった。講演もお願いしたこともある。また酒を酌み交わし、会食しながら日本の往く末を、憂いを込めて語られたことが思い出される。先生には研究の書籍や史料・資料なども提供していただき感謝している。先生の期待には応えられていないのが心残りである。

先生にはまだ多くのことを教えてほしかった。残念でならない。今後は先生の残された数々の業績を継ぎ、日本の歴史伝統を後世に伝えることが残されたものの責務だと思う。一歩でも先生に近づくように日々精進することをお誓いする次第である。

照沼先生には長い間本当にお世話になり、厚く感謝する次第である。

衷心よりご冥福をお祈りする。

『小泉八雲と語学教育(二)』
風呂鞏

海外留学を希望する大学生や院生が激減している我が国教育界の現状を憂いてか、文科省は高等学校英語科の授業を本年度から「英語で行うことを基本に」という乱暴な指針を打ち出した。国際人という言葉に弱い“教育ママ”にはこの上ない朗報かも知れぬが、落ち着いて考えれば、これこそ明治以来我が国が目指してきた語学教育の理念をぶち壊す、亡国的なやり方であることは余りにも明白である。先ず、今の中高英語教師の英語運用能力では到底不可能であるし、学習者の側の理解が追いつかない問題もあろう。それに“語学教育”は、ただ外国語が“しゃべれる”以上のもっと大切なものを含んでいるのである。

筆者が、尊い日本人の心、そして文化継承の大切さに拘った英語教師ハーン(小泉八雲)という人物を敢えて持ち出す根拠も此処に由来する。

一八九〇年(明治二十三)四月に来日したハーンは、八月三十日から翌年十一月十五日までの約一年三カ月松江に滞在した。早速九月三日から授業を開始、翌年十月二十六日(翌二十七日退任)まで島根県尋常中学校および師範学校で英語を教えた。生涯で初めて教壇に立ったのである。ハーンはその間の記録を「英語教師の日記から」に作品化した。全二十四節から成り、ハーンの来日第一作『日本瞥見記』第十九章に収録されている。

イタリア人ジャーナリストのエドモンド・デ・アミーチス(一八四六−一九〇八)著作の『クオレ』(愛の学校、クオレ=心)英訳本を来日前に読み、その価値を見抜いたハーンは、この日記スタイルを念頭に置いて「英語教師の日記から」を執筆した。その内容は、明治時代の地方都市・島根県の松江に赴任した外国人教師ハーンの眼に映じた日本の学生生活を叙したもので、殆どすべて彼の直接の見聞に基づいている。

当時の県知事は籠手田安定であった。松江中学の英語教師西田千太郎(校長心得)はハーンが生涯に亘って心から信頼した友人で、ハーンを公私にわたって支えた。師範学校には神戸時代まで交際を続けた中山弥一郎教諭がいた。校舎は中学校、師範学校ともにペンキ塗りで洋風の立派な建物であった。籠手田知事は、温和な容顔のなかにも昔の日本の英雄を彷彿とさせる人物で、ハーンは一目でこの知事に好感をもった。『古事記』を読んで来日したハーンにとって、神社の前で打つ柏手の起源が『古事記』に記述されていると、知事自身の口から聞くなど、ハーンにとって誠に快適な教師生活が始まったのである。

一八八四年十二月から翌年三月まで、ニューオーリンズで開催された万国綿花博覧会(日本の教育関係の展示は七〇〇点以上)でハーンは日本の教育に初めて接した。ハーンの異国情緒をくすぐり、日本熱を煽ったことは無論だが、特筆すべきは、日本の教科書や教具・教材の中に、科学教育の確実な歩みも感じとっていたことである。

実際に教壇に立ってみると、中学では、ハーンを“Sir”ではなく“Teacher”と呼んで(ハーンは「相手に屈従を強いる」との意味を持つ“Master”は嫌い)、兄貴のように扱ってくれることを喜ぶ。生徒は親切で礼儀正しく、教員室も静かで居心地がよい。ニューオーリンズ万博で予測はしていたが、古い日本のこんな片田舎に優秀な顕微鏡もある。植物学、地理学など最新最良の科学技術を取り入れた授業が行われていることに、驚きと喜びを抑えきれなかった。

師範学校には附属の女子部、小学校、幼稚園がある。女子部では最も進歩した教授法で、諸種の西洋科学を学んでいる。さらに、小学校からはスコットランド民謡の「蛍の光」を歌う声が聞こえて来て、「過ぎし昔」を呼び起こしてくれるのだ。

籠手田知事を迎えて開催する全校の行事として、秋季運動会(十月十五日)、教育勅語奉読式(十月三十日)、天皇誕生日(十一月三日)がある。地方都市においても国民すべてが新しい国造りに懸命になっている。明治二十二年の大日本帝国憲法の発布など、弱小国日本にはナショナリズムの高まりが見え始めるが、日本の伝統を堅守しつつ、西洋の列強に対抗できる子女を、知育、徳育、体育といった公教育の場で如何に養育して行くか、それに全エネルギーを注いでいる近代日本の雄々しい姿を、ハーンはしっかり捉えている。

ハーンの愛する幾人かの学生が午後訪問して来る。物を教わりに来るのではなく、教師と意気投合の喜びを味わうのが目的だ。好物の茶菓を出すと、うっかり美味しい物が好きになると後で苦労すると言って、どんな菓子も口にしない末っ子の学生もいる。その大人びた禁欲ぶりにハーンは心打たれる。

ハーンの授業で最も特徴的なのが英作文教育だ。日本の学生は、あらゆるものに寓意・教訓を見出すことを教え込まれていて、想像力と言う点では独創性を示さない。「カエル」という課題に対して彼らは、柳の枝に飛びつくカエルの撓まぬ忍耐を見て大学者たらんとした小野道風の故事を一様に書くのである。H・スペンサーの進化論を信奉しており、ニューオーリンズ時代『アイテム』紙に「教育における想像力」を載せたハーンが、島根県教育会で「想像力の価値」と題して講演したのも首肯できる。

H・スペンサーが指摘しているごとく、人間の活力の多寡は、精神的にも肉体的にも、食べ物の栄養にかかっている。西洋文明を十分に消化するためには、学生は強度の栄養を必要とするが、日本の粗食は残酷な問題を提起している。生活費や授業料が安上がりに見えても、「自然」は人間の生命の中にもっと高い授業料を取り立てるのである。

クラス一番の横木という名の生徒が、勉強が過ぎたため病に仆れる。死の間際にあって、ある寒い夜、綿入れのドテラ姿で爺やに背負われ、灰青色の校舎を見に出かける。学業が死よりも貴かったのだ。「英語教師の日記から」は、洞光寺の追悼会で漢文教師の片山尚絅翁が祭文を朗読するところで終っている。この不幸なる秀才に対する著者の同情は読者の涙をそそるが、ハーンにとって真の学校とは、まさに「心」の教育であったと言える。

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