住吉神社

月刊 「すみよし」

『NHK連続テレビ小説「マッサン」』
風呂鞏

「わがスコットランドに四十年前、頭の良い日本青年がやって来て、一本の万年筆とノートで、英国のドル箱であるウィスキー造りの秘密を盗んでいった…」 昭和三十七年来日したヒューム英国副首相が政府主催の歓迎パーティ席上で、 池田勇人首相を前にしてユーモアたっぷりに述べた言葉だと謂われている。

ヒューム副首相からこのような賞讃を受けた日本青年こそ、広島県竹原市に生まれ、ウィスキー造りに一生を捧げた竹鶴政孝(一八九四―一九七九)である。ご存じの方もあろうが、昭和五十七年十一月に出版された川又一英著『ヒゲのウヰスキー誕生す』(新潮社)の中で紹介されている興味深いエピソードだ。

二〇〇一年には、日本のウィスキー史上に残るビッグニュースが飛び込んで来た。世界で唯一のウィスキー専門誌・イギリスの「ウィスキーマガジン」が主宰する「ベスト・オブ・ザ・ベスト」というテイスティングコンテストにおいて、ニッカウヰスキーの「シングルカスク余市一〇年」が最高得点を獲得したのである。この「シングルカスク余市一〇年」こそ、 “日本のウィスキーの父”と呼ばれる竹鶴政孝が北海道余市に作った蒸留所、そこで生れた樽出しモルト(原酒)だったのである。

広島県竹原市は瀬戸内海に面し、“安芸の京都”と呼ばれる風光明媚なる小都市であり、『日本外史』の著者、頼山陽の生誕地でもある。日本のウィスキーの歴史は、ニッカウヰスキーの創始者、竹原市出身の竹鶴政孝によって開かれた。政孝の家は祖母の代に分家して、製塩業を営んでいたが、本家「小笹屋・竹鶴酒造」の主人夫妻が長男誕生直後に相次いで亡くなったため、政孝の父親啓次郎が後見として本家に入って酒造業を継いでいた。そのため政孝は一八九四年、竹鶴家の本家の産室で三男として生まれ、酒造業という環境の中で少年時代を過ごした。「酒は、つくる人の心が移るもんじゃ」が、父の口癖であったという。

政孝は地元の忠海中学校(注)を卒業すると、大阪高等工業学校(現大阪大学)醸造学科に進学する。そして学校で醸造を学ぶうちに、次第に洋酒の世界に惹かれてゆくのである。

政孝の人生の転換点は、大阪の摂津酒造への入社である。当時、日本のウィスキーはイミテーションであった。「日本初の本格ウィスキーを造りたい」との阿部喜兵衛社長の夢を背負って、政孝はスコットランドに単身留学、グラスゴー大学で応用化学を学ぶこととなる。 蒸留所で実習を重ねるうち、一九一九年グラスゴーの開業医の娘、ジェシー・ロべールタ・カウン(通称リタ、当時二十三歳)と出会い、結婚。翌年リタと共に帰国した。

二人の結婚には双方の家族や親戚からの強い反対があった。 政孝も一時は故郷を捨てる覚悟をした。 しかし「日本で本格的ウィスキーを造るんだ」と夢を熱く語る政孝の一途さに圧倒され、政孝の愚直さにスコットランド氏族社会の勇士の姿を見たリタは、日本に渡り内助の功に徹する覚悟を決めた。 漬物も塩辛も名人と言われる程日本食を勉強し、日本人以上に夫を支えたリタ夫人こそ、ニッカウヰスキー誕生の“母”であろう。

昨今の日本では、自国の男性には見向きもせず、ひたすら外国人との結婚願望に生きる女性が増えた、と嘆く人もいる。身長の高さ、イケメン、金髪、そして当然のことながら英語が自由にしゃべれるということへの憧れのみで、無分別に国際結婚に踏み切ってしまう。

ところがリタ夫人の場合には、小泉セツが八雲に嫁いだ背景と同じく、国籍云々以前に、凛とした男性としての品格、覚悟に魅力を感じた点が昨今の軽薄な日本女性とは大きく異なるのである。政孝が日本を代表するほどの逸材であり、自己の一生を賭ける遠大な目標を有している、と賢明にも見抜いていたリタは「わたしも共に生き、マッサン(政孝さん)の夢のお手伝いをしたい」と、夫の成功のために全力を傾注する覚悟を決めたのであった。

帰国後の政孝は、壽屋(現サントリー)の鳥居信治郎社長に請われて入社した。大阪府の山崎に竣工した日本初の本格ウィスキー蒸留所は政孝の設計によるものである。

一九三四年、壽屋を退職した政孝は、出資者を得て北海道余市にニッカウヰスキーの前身となる「大日本果汁株式会社」を創立した。一九四〇年、やっと念願の第一号ウィスキーが出荷される。そのウィスキーは「大日本果汁」を略し「日果」(ニッカ)、「ニッカウィスキー」と命名されたのである。

一九五二年、社名を「ニッカウヰスキー株式会社」に変更した政孝は、十年後には渾身の「スーパーニッカ」(特級)を発表し、ウィスキーファンを魅了した。然しその前年、政孝は最愛の妻リタを亡くしていたのである。悲しみを乗り越え、余市の研究室でテイスティングを重ね、誕生させたのが「スーパーニッカ」であり、リタに対する鎮魂でもあったのだ。ウィスキー一筋に生きた政孝は、一九七六年八月二九日、八五歳で生涯を終えた。

中国新聞がPRのページを組み、丸々一頁を使って「広島の気骨が生んだ日本のウィスキーの父・竹鶴政孝物語」を掲載したのは、もう十年近く前の二〇〇五年三月のことであった。目下NHK連続テレビ小説「花子とアン」が人気を集めているが、今秋九月二十九日からは、竹鶴政孝とリタ夫人をモデルにしたドラマ「マッサン」が放送予定となっている。

筆者は去る六月二十七日に偶々竹原市を訪れた。町並み保存地区の近くで、竹鶴政孝にまつわるイベントやゆかりの品を集めた展示会など企画が相次いでいると聞いたからである。

「道の駅たけはら」二階では「市マッサン推進委員会」が政孝関連資料約七〇点を展示していた。また図らずも当日竹原市勤労青少年ホームで「竹鶴政孝を語る」講演会があり、竹原郷土文化研究会の坂上紀之さん他の講演があった。

困難に打ち勝ち、理想の実現に信念を燃やした政孝とリタ夫人の生き方は、竹原のみならず、日本の誇りである。ドラマ「マッサン」の成功を皆で支援しようではないか。

(注)政孝は三年から寮に入る。上下の規律は軍隊に近い厳しいもので、下級生の中にいた池田勇人(のちに首相)は、政孝の蒲団の上げ下ろしまでしたらしい。

日本の美徳
宮司 森脇宗彦

今年6・7月と世界が熱狂したサッカーワールドカップブラジル大会は、ドイツの優勝で幕をとじた。開催国ブラジルは、ドイツに準決勝で7―1で大敗。4位に終わった。サッカー王国ブラジルとしては屈辱的な結果となった。ブラジルのサポーターの一部は暴徒化したものもみられた。サッカーワールドカップは国の威信をかけての戦いともいえる。

日本は、一次リーグで、コートジボワール、コロンビア、ギリシャと対戦したが、一分け2敗で1次リーグを突破できなかった。世界のサッカーのレベルの差を痛感させられる結果となった。次の4年先のワールドカップでは、1次リーグ突破は言うまでもなく、優勝できるたくましい「侍ジャパン」に成長してほしいものである。

試合では好成績をおさめることができなかった日本であるが、サポーターのある行動が世界中から称賛された。1次リーグのコートジボワールとの初戦に敗れた試合終了後スタジアムいた日本人サポーターは、会場のごみ拾いを始めた。周辺のサポーターはその行動を異様に思った。地元ブラジルのメデイアはこぞってその行動を報道した。瞬く間にこの行動は世界中に配信され絶賛されることとなった。日本人ならよく行う普通のことである。日本には「立つ鳥跡を濁ざず」という言葉もある。汚れ、散らかったごみを清掃するという当たり前の行動である。

世界の実情は大きく異なる。サッカーワールドカップブラジル大会の開催前に、ブラジルという国についてあるテレビ番組で紹介していた。それによると国民性は明るくておおらかという。そして、悪い面として治安が良くなく、盗難が多発しているという。日本人のサポーターの注意することとして盗難をあげていた。実際にこの大会中に盗難等の被害が報告されている。

日本は世界で治安のいい国として有名である。2020年のオリンピック開催が東京に決定したのも治安のよさも一つの理由である。たとえば、日本で財布を落とした、亡くした時に財布が手元に帰ってくることがほとんどであるという。こんなことは日本以外では珍しいという。

明治に来日した欧米人は多い。来日した欧米人が滞在の記録を残している。その中で、旅行で財布をある旅館に忘れた。その後何カ月後に再びその旅館を利用した。忘れた財布はそのまま元の場所に置いてあった。日本人の倫理感に驚きをもって記している。明治の日本人の美徳が、ブラジルでのサポーターの行動からは、いまも生きているということである。

日本には「壁に耳あり、障子に目あり」という。どこからでも聞かれ、見られている意識を持って行動せよということわざである。

正直を尊ぶ日本人である。神を無意識にとらえている。ブラジルでの日本人の行動は、広義の宗教心の表れとも見ることができる。

かつて日本の若者が、国際舞台で顰蹙を買ったこともある。国歌斉唱や国旗掲揚の時に起立もせず、私語をしていたという。国際大会では試合の始めに対戦するチームの国歌斉唱、国旗掲揚のセレモニーが行われる。その時の国際ルールを知らないと若者は批判された。若者がそのような行動をとったのは、戦後の教育において国際的マナーを教えてこなかったことが問題である。グローバル化といいながら自国を愛する教育をおろそかにした結果だとおもう。

今回のブラジルでのサポータの行動が称賛されるように、日本人はこの美徳を誇りにしてもらいたい。ささいな行動が日本を甦らせるとおもう。

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