住吉神社

月刊 「すみよし」

『節分行事』
照沼好文

「讀賣新聞ひろしま県民情報」(平成二五・一・一六付)に、「水都の象徴憩いの川辺」の見出しで、住吉神社かいわいを紹介した記事を見て大変興味を覚えた。

まず、住吉神社の記事を見れば、

住吉神社は、一七三三年に創建。広島藩の船の守護神として信仰された。境内には二本の被爆松も健在。一九九六年新社殿を竣工(しゅんこう)。節分行事として平安時代の焼嗅(やいか)がし神事を現代風に復活させた。「鰯(いわし)千匹の頭を焼き、大うちわで悪神にあおぎかけて退治します」と森脇宮司さん。神事は二月三日午後二時から。焼いた鰯の頭はヒイラギの枝に刺して参拝者に配られる。

と記されているが、節分祭当日の「焼嗅がしの行事は、しばしばTVなどで放映されているので、現代の世相を反映してユニークな、そしてユーモラスな鬼たちが登場している。

戦前茨城の県北で育った私は、当時の節分を思い起こしてなつかしい。

節分の豆撒用の豆は、秋に収穫した大豆の茎を家の軒先に束ねてつるし、乾燥させたものを使って豆を炒(い)った。家の入口には、二糎ほどに切った白ネギを刺したヒイラギの小枝を挿し、門口に目籠をかけておく。毎年節分の当日は、しんしんと雪が降って、戸外が暗くなる頃、家の中を開放して「福ハ内(うち)、鬼ハ外(そと)」の大声が隣り近所からも、桝の中の豆撒く声が聞えてくる。豆撒きの済んだあとで、年齢の数ほど豆をいただいた。

話題は変わるが、京都には銘菓「福ハ内」という節分菓があるのを最近知った。その節分菓に「福ハ内 小さな物語」と栞があったので、それを紹介してみよう。

この銘菓「福ハ内」の創案は、明治三十七年日露戦開戦の年であったという。節分菓創案は、鶴屋吉信四代主人寉堂がまだ若かりし頃の節分の日、五条の通りを過ぎると、官女姿のとある商家の幼い京娘が、お多福のお面をつけて、

「福は内/鬼は外…」

と声はりあげながら通りに向って節分の豆まきをしている光景を目にとめました。片手に大きな桝(ます)を抱えて豆をまく姿のいかにもほほえましく、晴れやかな印象は、なぜか寉堂の心を強くとらえました。

というのが、そのきっかけであったという。さらに、

大正時代には、竹内価風とともに京都画壇に新風を吹きこんだ山元春挙画伯が、「福ハ内」のためにお多福豆の絵を描き、それに文人画家富岡鉄斎先生は、

このうまき/大多福豆を/めしたまへ/よはひをますは/受合申す

と賛を付しました。「福ハ内」の菓銘の指毫も寉堂と親交のあった鉄斎先生の筆になるものです。

と、京都における日本画壇の重鎮春挙、或いは鉄斎らの創案をあつめ、芸術の粋をつくした意匠であった。単に節分菓であったとしてこの力の入れ方に、私は日本人の美意識の高さを見る思いである。

ともあれ、寒い冬から春を迎える自然を喜び、希望を托した節分の行事が、古くから各地方によって特色をもって行われてきたことはなつかしい。その上「節分」の風習に世の識者や文人画たちも関心をよせ、庶民の心を汲んで祝ったことも、日本の国柄と思う。

 

『映画「オーケストラの少女」』
風呂鞏

少子化と高齢化社会、円高に消費税の値上げ等といった、先行き不透明な暗い世相では、茶の間でも、とかく面白くないことや気に入らぬことを取り上げては眉間に皺を寄せ、不平を託つのが関の山だ。しかしよく考えてみれば、有難い世の中になったものである。

ご存じの如く、元旦にはNHKのEテレが「ウィーン・フィル・ニューイヤーコンサート二〇一三」を三時間にわたり放映した。今年は、あのドイツ歌劇とイタリア歌劇の代表的作曲家、ワーグナーやベルディの生誕二〇〇年に当たる。クラシック・ファンはテレビの前に坐ったままで、ウィーン・フィルの演奏を存分に堪能できたのである。

戦中世代の者には、小学校での身近な楽器といえば、オルガンとハーモニカくらいしかなかった。太鼓はあったが、あれは青年になった者が村祭りに叩くもの、くらいに思っていた。音楽の時間は、もっぱら校歌か唱歌の練習であった。他に何もすることなく、音楽の授業は先生のお話を聞く時間だと思っていた時期もある。中学に入学して、学校にピアノがあることを知る。西洋音楽の片鱗に接したのはこれが初めてであっただろう。よく放課後などに、上級生の女の子がピアノの練習をしているのが音楽室から聞えて来た。木造の校舎が夕日に染まり、まさに暮れ泥まんとする下校時など、「乙女の祈り」(後でテクラ・バダジェフスカのピアノ曲だと知った)が校庭を横切って耳朶を揺することもあった。毬栗坊主達は何だか自分でもよくわからぬまま、ロマンチックな思いに憑りつかれたのであった。

中学三年生になって新しい音楽の先生に変った。楽譜を読み、和音を教えてもらったり、レコードで西洋音楽を聞かせてもらった。特に記憶に残っているのは、電機蓄音機を教室に持ち込んで、モーツアルトの「トルコ行進曲」を聞かせ、曲名を問う試験があったことだ。音楽が新たな世界の存在を見せ始めた。昭和二四年に始まったNHK第一放送「音楽の泉」(クラシック音楽入門番組で、当時の解説者は堀内敬三氏)に新鮮な興味と興奮を覚えたのもその頃である。

東京での学生時代、音楽喫茶で自分の知る数少ないクラシックの名曲を何度もリクエストし、コーヒー一杯で何時間も粘った懐かしい想い出があるが、最も強烈な印象を受けたのは、映画「オーケストラの少女」である。指揮者ストコフスキーの風貌と機械仕掛けの人形の如く腕を振るダイナミックな指揮ぶりには、身震いするほど興奮した。映画の終わり近く、楽士たちの「ハンガリア狂詩曲」の演奏にストコフスキーが思わず手を動かし始めるシーンも感動ものだった。映画館から出てくる全ての観客の顔が感動と興奮に染まっていた。

この“世界最高指揮者と天使の歌声で奏でる珠玉の音楽映画”は一九三七年度のアカデミー賞作曲賞を受賞している。現在ではDVD(八十四分)も販売されており、そのケースの裏面に解説が載っている。「失業中のトロンボーン奏者を父に持つパトリシア(ディアナ・ダービン)は、父を再び一流のオーケストラで演奏させようと懸命に奔走する。世界的指揮者のストコフスキーに近づき、さらに気まぐれな金持ちの婦人の言葉を信じて、失業中の楽士ばかりのオーケストラを結成してしまう。しかも、その指揮をストコフスキーに頼むのだ。天才美少女歌手ディアナ・ダービンの美しい歌声と数々の名曲に彩られた、アメリカ映画史上に残る音楽映画の傑作」なのである。

仙台出身で、のちに広島高等師範学校創設時から教壇に立った栗原基という人物がいる。東大における小泉八雲の教え子の一人であったことは以前紹介した。『思い出の父栗原基』を書いた四女の菊沢喜美子さんがお父上のエピソードを紹介しておられる。それを読むと、栗原基は「オーケストラの少女」に魅了され、その映画を三度も観たらしい。

時勢は上海事変から支那事変になり、太平洋戦争に拡がろうとする暗い時代であった、というから昭和十五・六年頃であろうか、その頃「オーケストラの少女」という映画が来た。栗原基は評判のこの映画を一人で観に行って感心し、続けてまた観に行った。そして、家に帰ってその筋書きを楽しげに話した。何日かして、喜美子さんも一度観ておきたいと思い、お茶の稽古の帰り、道草を食って、映画館に寄った。映画が終わって、夕暮れの明るい町に出ると、同じ映画館からニコニコしながら出てくる父にばったり出遭った。映画館には別々に入ったが、出てから親子対面となったのだ。結局、栗原は三度も「オーケストラの少女」を観たわけである。喜美子さんは、ダービンが歌うこの映画の主題歌のレコードを帰りに父から買ってもらったそうである。

作曲家の芥川也寸志は小学校六年の時、この映画を六回観た。NHK交響楽団終身指揮者岩城宏之も高校二年の時に観た。ストコフスキーの白髪のうしろ姿、クライマックスの時の美しいポーズ、ディアナ・ダービンの椿姫乾杯の歌の、コロコロ転がる声の魅力。映画を観たあと感動のあまり、都電の停留所で夢遊病者のように立ったまま、何台も乗りそこなった。その時、今に音楽家になろうと自分の人生を決めた、という。ストコフスキーの所為で音楽家になったのだと、氏は『楽譜の風景』(岩波新書)で述懐している。

音楽家になった岩城氏に「オーケストラの少女」を再び観る機会が訪れた。今度は「実に、何ともやりきれないくらいの、ひどい映画。目の前が真っ暗になるほど、ぼくは失望した」という。録音技術の進歩や幼かった氏の耳がプロとして成長成熟したが故の、当然といえば当然すぎる印象であろう。しかしあれが感動の原点であったことは間違いないのだ。

冒頭で、有難い世の中になったとは述べたが、昨今は若いホームレスや閉塞感の強い若者が増えていると聞く。経済面の支援は確かに必要だが、彼ら自からが力を得るべく、生きる希望や夢を掻き立ててくれる精神的な糧が身近にある世の中であって欲しい。

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