住吉神社

月刊 「すみよし」

『天心の祈り』
照沼好文

この夏は異常な猛暑が続いたが、私はそれに耐えて、明治の先覚者天心岡倉覚三の著書を読んだ。

明治三十七年ボストン美術館の東洋部の顧問となった天心が公務の余暇に執筆し、同三十九年五月に公刊した『茶の本』では、つぎのような言葉が注目された。

西洋人は、日本がおだやかな技芸に耽っていたとき、野蛮国とみなしていたものである。だが、日本が満州の戦場で大殺戮を犯しはじめて以来、文明国と呼んでいる。...もしもわが国が文明国となるために、身の毛のよだつ戦争の光栄に拠らなければならないとしたら、われわれは喜んで野蛮人でいよう。われわれの技芸と理想にふさわしい尊敬がはらわれる時まで喜んで待とう。(平凡社版『岡倉天心全集』第一巻所収桶谷秀明訳『茶の本』)

明治三十七、八年の日露戦争に勝利を得て、始めて日本の名声は突如として大きく欧米の天地に広まった。そのときまた日本は、好戦国民と誤解される危惧(きぐ)も孕(はら)み、武士道や「はらきり」の語も?宣伝されて、唯日本を恐るべき刀剱の国であるように信ぜられる風潮も、一世を覆うに至ったという。(斉藤隆三氏著『岡倉天心』吉川弘文館人物叢書)

ところで、これを機に、私は西欧列強が歩んできた歴史、その文明について、改めて天心の言葉に傾聴してみようと思った。

とくに、私たちが注目するのは、西欧(一四世紀―一六世紀)に起こったルネッサンスに淵源する「近代精神」あるいは「近代化」という言葉である。これらの言葉が西洋文明の本質を性格づけているとおもわれるからである。

天心は近代精神の本質的性格について、こう述べている。

近代精神は、神から黄金へと飛び廻ってゐる。内なる人間との争ひに敗北した彼等は、征服の他の形態に取りかかる。手工業を近代工業に、交易を商業に変形させた。過度の組織的エネルギーは、さらにギルトを共和国に、都市を国家に、王国を帝国に築き上げ、そして一揆を、フランス革命にまで動かすのである。科学は、戦争を機械学に、医療を工学に、宗教を病院と衛生との問題に転ぜしめたと同じ精神の下に、実利へ接近する。(聖文閣版『岡倉天心全集』第一巻、浅野晃氏訳『東洋の覚醒』)

以上のように、近代精神、近代化がもたらした西洋文明、所謂西欧の機械文明について述べたが、さらに天心は西欧の成立ちを述べた上で、東洋と西洋との間における文明の相違を指摘した。

ヨーロッパの光栄は、アジアの屈辱である。歴史の歩みは、西洋とわれわれ自身との、避くべからざる対立へと導き入れた歩々の記録である。狩猟と戦闘とから、海賊と掠奪とから生まれて来た、地中海とバルト海との民族の安息を知らぬ海の本能は、農のアジアの大陸的自足とは、そもそもの初めから鋭い対照をなしてゐた。...(同上)

このように、東洋と西洋との文明の成立ちを説き、また両者における社会組織の単位「家」の観念について、こう述べている。

家族を現はす支那の象形文字は、一つの屋根の下なる三人の人物から出来てをり、...夫と妻との西洋的二重奏に対して、父と母と子との三幅対という東洋的観念を含んでゐる。それは相互の愛と責務との説き難き絆に結ばれた、父の保護と、母の助力と、子の従順との三つの関係を同時に包含してゐる。...(同上)

 さらに、東洋ではこの観念が社会理想に発展した時、「アジア的生活の美と芳香とを形づくる仁愛、義理、忠義、礼節となって開花する」と、天心は主張している。

そして、東洋の真の平和復興、東洋のルネッサンスを祈念する天心は、『東洋の理想』の末尾を、つぎのように結んでいる。

今日、大量に流入する西洋の思想が我々を戸惑わせている。大和の鏡は曇らされた、といおうか。...

闇を切り裂く刃のような稲妻の一閃を、我々は待っている。なぜなら、新しい花々が咲き出でて、大地を花でおおうためには、まず恐ろしい静けさが破られねばならず、新しい活力の雨粒が大地を清めてくれねばならない。しかし、この大いなる声の聞こえてくるのは、必ずやアジア自身から、民族古来の大道からであるに違いないのだ。/内からの勝利か、しからずんば、外からの強大な力による死あるのみ。

とくに、東洋のルネッサンスを祈念し、一貫して芸術の理想と平和を願った偉大な天心の言葉が、いま清新な香りとなって漂ってくる。

『芥川龍之介と松江』
風呂鞏

五月二十三日広島でテレビ放映された「開運なんでも鑑定団」に、荒川亀斉(注一)の木像が出品された。荒川亀斉については、『小泉八雲事典』(恒文社)にも説明があるが、八雲が松江市内を散歩中、竜昌寺で見つけた地蔵像(小泉八雲記念館蔵)が縁で、二人の親交が始まったのである。出品されたお宝には、次のような興味深いエピソードがあった。

依頼人石谷堅二さんは、江戸時代から十三代続いた石工の家系で、松江市内には先祖が造った石像や石碑が現在も多く残されている。お宝は曾祖父が手に入れた木彫りの仏像。八雲が松江に居た時、荒川亀斉の木彫りに惚れ込み、仏像を直接依頼するが、制作途中で素材の桜の木を黒柿に変えて欲しいと言い出し、完成した黒柿の仏像は八雲に贈られた。未完成だった桜の木の仏像は亀斉の弟子であった依頼人の曾祖父が譲り受けた。

依頼品は未完成であったが、八雲の美術品に対する好みが判るという、文学史上の価値が加わって、鑑定は本人評価額五十万円を大きく上回る、驚きの九十万円となった。

さて、松江の名工小林如泥や、荒川亀斉の作品に強い感銘と刺激を受けて、彫刻に志した人物に内藤伸(ないとう しん)(一八八二―一九六七)がいる。雲南市吉田町が産んだ彫刻家で、彫刻界の頂点に達する偉大な業績をあげた。松江名誉市民にもなっている。吉田町の「内藤伸記念室」には、代表作「湯あがり」をはじめ愛用品、蔵書、遺品などが展示されている。多くの作品が遺されているが、松江大橋の唐金擬宝珠原型製作もその一つである。

ご承知の如く、松江は宍道湖と中海とに挟まれ、大橋川によって南北に分断された水郷の町である。城下町であった松江のシンボルは通称千鳥城と呼ばれる美しい城である。その町の落ち着いた佇まいに古来多くの文人が魅了され、訪問を重ねてきた。

一九一五(大正四)年、芥川龍之介(一八九二―一九二七)は失恋事件に打ちひしがれていた。恋人吉田弥生との結婚を養父母たちに反対されて極端な人間不信に陥り、心身ともに疲弊し切っていた。彼は一高時代自治寮で起居を共にした親友で、京都帝国大学法学部にいる井川恭(注二)に便りを書き、失意に打ち萎れた自身の苦しい状況を述べた。松江生まれの井川は芥川を郷里松江に誘い、芥川は八月の松江に約二十日間滞在したのである。

井川は手狭な自宅を避け、松江城西内堀畔のお花畑に借りた家に友人を招いた。偶然にもその家は、前の年志賀直哉が泊まっていた「濠端(ほりばた)の住まい」であった。

芥川を迎えるにあたって、井川は「松陽新報」に「翡翠記(ひすいき)」と題するエッセイを連載した。その中に組み込まれて、「日記より」と題して掲載されていたのが、芥川龍之介の「松江印象記」である。

松江へ来て、先(まず)自分の心を惹かれたものは、此市を縦横に貫いている川の水と其川の上に架けられた多くの木造の橋とであった。河流の多い都市は獨(ひとり)松江のみではない。しかし、そう云う都市の水は、自分の知っている限りで大抵は其処に架けられた橋梁によって少なからず、その美しさを殺がれていた。何故といえば、其都市の人々は必ず其の川の流れに第三流の櫛形鉄橋を架けてしかも其の醜い鉄橋を彼等の得意なものと一つに数えていたからである。自分は此の間にあって、愛すべき木造の橋梁を松江のあらゆる川の上に見出し得たことをうれしく思う。殊に其の橋の二三が古日本の版画家によって、屡々其の構図に利用せられた青銅の擬宝珠を以って主要なる装飾としていた一事は自分をして愈々深く是等の橋梁を愛せしめた。松江へ着いた日の薄暮れ雨に濡れて光る大橋の擬宝珠を、灰色を帯びた緑の水の上に望み得た懐かしさは事新しく此処に書き立てるまでもない。是れ等の木橋を有する松江に比して、朱塗りの神橋に隣る可く、醜悪なる鉄の釣橋を架けた日光町民の愚は、誠に嗤うべきものである。

大川(隅田川)の水に育まれて幼少年時代を過ごした芥川は、先ず松江の川に心惹かれた。感動は松江の木造の橋と青銅の擬宝珠の調和、松江城、古刹月照寺・天倫寺へと及んだが、新築の興雲閣には嫌悪の情を漏らすなど、文明批評的な観察も忘れていない。

松江での生活で心身ともに蘇った芥川は、創作意欲を回復させ、間もなく第一作「羅生門」を書き上げた。夏目漱石門下生となり、『帝国文学』に掲載された「羅生門」は、松江滞在中に「受胎」し、東京の自宅で出産した小説ということになる。

小泉八雲と同じ松江の空気に触れ、美しい景観に酔った芥川は、もともと怪奇趣味、異国趣味など、浪漫主義的な心性は八雲と共鳴するところが多い。さらに八雲の翻訳を通して、世紀末芸術の精髄にも触れた芥川は、ゴーチェの「クラリモンド」など、原作のフランス語 から直接でなく、八雲の英訳をもとに和訳した。八雲の東大での講義録も愛読し、大正十一年に発表した『神神の微笑』などは、『見知らぬ日本の面影』の最後の二章「日本人の微笑」と「さようなら」を典拠として構成されているのである。

松江へ着いた日に、薄暮れの雨に濡れて光る大橋の擬宝珠を見て「松江印象記」を書いた芥川だが、その感動こそが、図らずも八雲の心と芥川自身を結びつけ、文筆活動の中で八雲と芥川との距離が次第に狭まって行ったのではなかろうか。

(注一)荒川亀斉(一八二七―一九〇六)は、松江の彫刻家。明治十年の第一回内国博覧会に出品して以来、しばしば受賞している。二十六年シカゴ博覧会に出品した「稲田姫像」は、現在出雲大社に蔵されている。この年、八雲は「天智天皇像」を購入している。

(注二)井川恭(一八八八―一九六七)は、後の恒藤恭。法学者で初代大阪市立大学学長。文化功労賞受賞者。

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