住吉神社

月刊 「すみよし」

『尊敬される日本人の品格』
照沼好文

東日本大震災から、はや半年余の月日が過ぎた。この間に、震災による東北地方の被災、或いはそれにともなって起こった原発の核問題などが、改めて大きくのし掛かっている。そして、今尚その問題解決の方途も立たないままに、地域住民はその苦難に耐えつづけている。しかし、この大震災によって、私たち日本人の意識から、久しい間消えていた日本人本来の特性、―日本人の本質的な性格が、はっきりと表面に形・姿として現われて、いろいろと話題を呼んでいる。

最近、とくに米コロンビア大学名誉教授の日本文学研究の第一人者、ドナルド・キーン博士は、東日本大震災を機に日本国籍を取得して、日本永住を決意したことが大きな話題になった。博士は九月初めに日本に移住して、東京の自宅でインタビューした折に、日本移住を決意した理由を述べている。(『読売新聞』九月三日号)

三月十一日直後は、ニューヨークでテレビ画面を通じて「黒い津波」の脅威に打ちのめされた。しかし、「家が流されても取り乱さず、人を思いやる日本人の姿を見て誇りがわき上がった。私から日本をとったら何も残らない。日本人として残らない。日本人として残りの人生を生きたい、と強く思いました。

 即ち、どんな困難に遭遇しても、心を取り乱すことのない日本人、人を思いやる日本人の姿に感動し、「日本人として残りの人生を生きたい」と決意したという。博士の日本への信頼と愛情にほかならぬのではなかろうか。

また、先般タレントのダニエル・カールさんは、「僕の大好きな東北に来て」と題して、インタビューの記事を、新聞紙上に載せていた。(『読売新聞』七月二三日号)カールさんは、「とにかく[東北は]好きでたまらない。全国各地での講演でも、東北の自慢話をしている。その縁で三陸海岸を中心に…野菜や卵など物資を東京から被災地にトラックを運転して運び配って…支援活動している」という。そして、「今回各地を巡りながら、発見というよりはさすがだと感心したことがある」と前置して、東北人の温い人情の機微(きび)にふれた話を語っている。カールさんの話を二、三紹介してみよう。

ラーメン店の主人が「おなかがすいているだろう」と、カップ麺を作ってくれた。前の晩大きな余震があり、その地域は停電と断水だったのに、ストーブでお湯をわかして作ってくれた。

内陸部の人に「沿岸部に支援に行く」と話をすると、「ありがとう」とお礼を言われる。避難所も回ったが、あちこちで帰りにおにぎりをもらった。「今持っているのはおにぎりぐらいしかないから」と申し訳なさそうに言いながら、人に分ける。そこにもてなしの心に通じるものがあった。

と、東北人の温い人情、―「もてなしの心」について語っている。

カールさんは、こんな話を語ってインタビューを結んでいる。

先日被災地を訪ねた時、「芸能人がここまできてくれて、ありがたい」と言われた。僕は「芸能人だから来たんじゃない。東北人だから来たんだ。お前と俺は仲間なんだよ」と答えたら感動された。

日頃、私たちが忘れていた日本人本来の特性、―日本人の本質的性格の一端をここで思い起こすことができた。こうした温い心情を土台に、私たちはより一層尊敬される日本人としての品格を磨きたいものだ。

『映画「運命の背中」』
風呂鞏

国際平和文化都市広島は、中国山地から流れ出る太田川が六つに分かれ瀬戸内海に注ぐ、そのデルタの上に跨っている。もと浅野氏四十二万石の城下町である。昭和二〇年八月六日、世界で最初に投下された原子爆弾によって一瞬の間に焦土と化し、全人口四十万のうち実にその過半数の二十四万七千人の尊い生命が奪われた。

長田新編『原爆の子 廣島の少年少女のうったえ』(岩波書店)には、旧制大学学生の次の言葉が採録されている。

その頃の廣島は日本の第七番目の都市として人口四十万を数え、緊張した空気の中にも活況を呈していた。他の小都市が次々とやられるのに、何故廣島だけが取残されているのだろうか? 市民の誰もが感じたこうした疑問は、同じやるなら早くしろ、といったような一種捨鉢的な焦燥感ともなって現われ、或いはまた、廣島は神仏の特別な加護によって絶対に戦災は受けないだろうという頗る虫のよい流言まで生んだのであった。

今年は、あの焦熱地獄の夏から六六年目である。十年ひと昔という勘定からしても、相当な時間を経た大昔の悲劇であり、当時のことを記憶する人や、生き残った被爆者は、どんどん少なくなっている。広島市内の小・中学生に尋ねても、原爆の落された日にち、時刻を正確に答えられる者は、僅か三〇%に満たない。事情は長崎市においても同じであろう。

では、原爆の記憶に対する風化はどのようにして食い止めることが出来るのであろうか。

秋葉忠利氏の後を引き継いだ松井一実新市長は、初の被爆二世市長である。今年八月六日の平和祈念式典で、福島県で発生した東電原発事故に対し政府にエネルギー政策の見直しを求めた。平和宣言の中で初めて被爆者の体験記を入れたのも、こうした風化への危機意識から出たものに違いない。

ところで、NHKアナウンサー出山智樹さん(四一)をご存じの方も多かろう。彼は幼い頃から映画製作に大変興味を懐いていたらしい。通算一〇年広島に在籍したが、その広島局勤務時代に多くの被爆者との出会いがあった。その経験を基にして、短編映画『運命の背中』を自主制作したのである。

二〇〇九年九月に五日間で撮影した後三ヶ月で編集、広島市など各地で上映し、微修正を加えた完成版が今年二月に出来た。何度か上映会を重ねて、愈々七月三〇日に広島市留学生会館、三十一日には八丁座で上映されると、中国新聞(七月二十一日号)に紹介されていた。映画自体の評判に加えて入場無料。物すごい希望者が殺到し、筆者は無念の涙を呑んだ。

また何時か機会があるだろうと諦めかけていた矢先、原爆記念日当日になって、市内中区のホテルにて「特別上映会&トークショー」がある、との情報が入った。友人と駆けつけ、幸運にも、映画上映だけでなく、出山アナと作曲家佐村河内守さんのトークを心底満喫することができた。生涯で最も充実した八月六日であったと、年甲斐もなく興奮した。

映画『運命の背中』(上映時間四〇分)は、原爆が投下された広島を生き抜いた吉川清さん(八六年に七四歳で死去)、生美さん(九〇)夫妻の姿を描いたものである。二人は実在の人物で、妻の生美さんはまだ広島市内にご健在である。昭和十九年、見合いをした生美さんは、清さんの「背中に一目ぼれ」して結婚した。広島電鉄本社(中区)に勤めていた清さんは八月五日の晩から六日の朝まで防空当番で会社にいた。白島西中町(現中区西白島町)の自宅に帰り着いた直後、玄関先で背中から熱線を浴びたのである。その大やけどした背中がやがて原爆を伝えていくことになる。「原爆一号」と呼ばれた清さん亡き後、生美さんは夫の背中の写真を見せながら原爆体験を語り伝えていく・・・。

出山アナはこの夫婦の物語に何か運命的なものを感じ、また、孤高の作曲家・佐村河内守さんとの出会いが映画制作に啓示を与えた。映画の中で使用している音楽は、広島市出身の被爆二世、佐村河内さんが原爆をイメージして作曲した「交響曲第一番HIROSHIMA”」なのである。

佐村河内さんは三十五歳で全く音が聞こえなくなり、絶対音感で作曲活動をしている。二〇〇〇年、それまでに書き上げた十二番までの交響曲を全て破棄、全聾以降あえて一から新たに交響曲の作曲を開始。二〇〇三年秋、「交響曲第一番(HIROSHIMA)」を完成した。原爆という絶対悪に象徴される「闇」、その深い闇の彼方に、祈りの灯火が強く輝き、希望の曙光が降り注ぐ。魂を救う真実の音楽、一大シンフォニー(八〇分)である。作曲家自身のコメントでは第一楽章は「運命」、第二楽章は「絶望」、第三楽章は「希望」とされている。

記憶を後世へ伝え続けていくには、ささやかな個人の生き方こそがより力強い展望を与えてくれる。『運命の背中』は、第三楽章「希望」の調べと絶妙にマッチした、原爆ドームと陽の光の映像で終わる。過去の過ちから何とか未来への希望を見出したい制作者の切なる願いが直に伝わってくる。脚本と監督を手掛けた出山アナは次のように語っている。

お話を聞いたときに、原爆の恐ろしい惨状ではなく、力強く生き抜いた二人の、人間としての姿を感じました。広島、長崎への原爆のことを知ろうとするとき、いきなり、恐ろしい惨状を聞かされたり、写真を見せられたりしても、もう見たくない、出来れば楽しいことをしたり、考えたりしたいと思うのが人間だと思います。だから、この映画が何かの「きっかけ」になってくれれば嬉しいと思っています。

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