住吉神社

月刊 「すみよし」

『丑年に思う』
 照沼 好文 

ことしは、十二支の第二、丑(うし)歳にあたる。今日とは違って、わが国では牛は食用や乳牛として飼育していたのではなく、主に役畜として飼育していたという。とくに、農家で牝牛(ひんぎう=めうし)を役牛に用い、東日本の馬に対して西日本では牛が多く用いられ、田畑の牛耕、薪等の運搬に使われていたといわれるが、牛を飼う家では家族の一員のように大切にして、「牛の正月」を祝い、或いは六月ごろの花田植の行事に、牛も一役を担って大活躍している。

たとえば、本田安次博士の『日本の伝統芸能』(錦正社刊)をみると、広島県北広島町大朝の花田植行事が紹介されている。それには「大朝町新庄のものなどによりますと、はじめ御神田、もしくは特定の田を、盛装した飾牛を沢山入れて耕さしめ、田の神への農作祈願の後、早乙女たちが出て一列に並び植えます。このとき『さんばい』と呼ばれる音頭取が、ささらを摺りながら音頭を出すと、早乙女たちが後を受け、掛合いに田植歌をうたいます。云云」と記され、「盛装した飾牛」の活躍を伝えている。

また、牛と天神様との関係は深いものがある。九州、大宰府天満宮の楼門には青銅の臥牛が座っている。天満宮のご祭神、菅公は承和十二(八四五)年六月二十五日のご誕生で、当年この日は丑で、榎寺での薨の日も丑であったという。牛乗天神という郷土頑具もある。毎年、当天満宮の御神幸祭には、神牛がご本殿を出立して、配所榎社まで供奉する。丑歳のとしには、天満宮で「牛まつり」が盛大に行われ、「牛馬安全」の信仰は、天満宮の特殊な信仰形態ともなっているといわれる。(西高辻信貞氏著『大宰府天満宮』に拠る。)

ところで、私が生まれ育った北関東の山村に、古い童謡が伝わっていたが、いまはどうだろうか。

ベコ、ベコ、カンベコ、――

カナサーベコニ、マケルト、

ボタモチハンブンヤンネェーゾ

(「ベコ」は仔牛のこと、「カンベコ」は神牛の意味か、「カナサノベコ」は金砂郷の牛)

大意はおそらく、「神牛と、金砂郷の牛との牛角力(うしずもう)で、もし神牛が負ければ、おいしいぼた餅の半分だけしか、分けてやらんぞ。」―――という意味か。金砂郷には、西金砂神社(旧県社)、東金砂神社(旧郷社)の古い神社二社が鎭座しているが、この西神社には、有名な七三年毎の大祭礼、七年毎の小祭礼が行われているが、さきの牛角力は現在でも、愛媛の宇和島、新潟の各地、八丈島、隠岐島などで、牛角力、牛つき、牛の角つき、牛合せなどの様々な呼び方で行われている闘牛ではなかったか、と想像している。なお、日本の古典の中に、牛に関する記事が見えるのは、『日本書紀』神代紀に、保食(うけもち)の神の頂(いただき)に「牛馬化為(な)るあり」とある記録が初見である。

さて、さきの第二次世界大戦後に、徳川斉昭(水戸九代藩主、烈公)の後裔、徳川宗敬翁は水戸の城南丹下原に帰農、酪農を経営された。その丹下原は、天保六(一八三五)年に完成した所謂「桜野牧」という牛の放牧場である。宗敬翁の歌集『鶏鳴』には「丹下原」と題して十五首の短歌が収録されている。そして、その「詞書」に、

一ノ牧、ニノ牧、三ノ牧ありて烈公斉昭が黒牛二百頭を飼育して、その乳を子女に飲ませたと古老は云ふ

と記している。そのあとに続く丹下原の短歌十五首の中から、五首をつぎに掲げてみよう。

祖父(おほちち)の名付けし曠野桜の牧(まき)牛飼ひて九年サイロも建ちぬ

自然の力土(つち)に浸かれば汚(けが)れさへ清く変わりて人を恵まむ

麦(むぎ)畑(ばた)のかなたに残る古き土堤(どて)烈公が牧牛に拓(ひら)きたる跡

烈公の遺志継ぎ享けて酪農の業成し遂げむ丹下原に

菜の花のあかるく萌ゆる畑道を牛車(うしくるま)行く影絵の如く

「祖父(おほちち)」の烈公が拓いた地に、百余年後に而も戦後の荒廃した時代に、「祖父」の遺志を継述して帰農した宗敬翁の感慨が、深く籠められている。

丑歳の年頭に、先人達の事業と、牛への思いを偲びながら「牛歩の如く」、力強くこの一年を乗り切って行きたい。

 

『広島に生きるハーンの心』
風呂鞏

昨年十二月七日(日)の中国新聞紙上でお読み頂いたかも知れないが、小泉八雲こと、ラフカディオ・ハーンを顕彰する広島の市民グループ「ラフカディオ・ハーンの会」が、その前日の六日に一〇〇回目を記念する大会を開催した。幸いなことに、八雲の曾孫で、小泉凡島根県立大学短期大学部准教授に記念講演をお願い出来た(注一)。

今年アテネと松江で「ハーンにささげるギリシャ現代アート展」を計画されているニューヨーク在住のアーティスト野田正明氏(福山出身)が小泉凡准教授とのご縁で急遽ご参加下さり、ご挨拶を頂くなど、会場は超満員、大盛会となった。

市民グループ「ラフカディオ・ハーンの会」は、ハーンの生誕一五〇周年を記念する二〇〇〇(平成十二)年、ここ広島の地で産声を上げた。一九九〇年の松江に於ける「小泉八雲来日百年記念大会」以来、全国的なハーンブームの渦の中で、広島でもハーンを顕彰しようとする胎動が徐々に大きくなっていたのである。爾来八年半、月一回の例会を重ね、昨年の十二月を以って、一〇〇回目の例会となったのである。

一〇〇回目の大会を開催するに際しては、有り難いことに、地元の中国新聞も応援してくれた。十一月十八日(火)から八回に亘って「緑地帯」欄に書くことを提案してくれたのである。先月号の『すみよし』の【編集後記】にも紹介があった如く、タイトルは「広島に生きるハーンの心」とした。紙面の都合から副題は添えられていなかったが、それぞれ「ラフカディオ・ハーンの会発足」「熊本への赴任の旅」「稲むらの火」「東大の教え子たち」「ハーンの留任運動」「服部一三翁」「ギリシャとアイルランド」「ハーンの会一〇〇回記念」を中心に、広島との関連を加味しつつ記述した(注二)。

広島は、残念なことに、松江や熊本のように、ハーンの住んだ旧居や記念館はない。しかしながら、広島高等師範学校や旧制広島高等学校、さらに江田島の海軍兵学校には、東大におけるハーンの教え子たちが教鞭を執った輝かしい歴史が残っている。広島の地でハーンを顕彰する土壌と意義は十分に残されていたのである。

「緑地帯」では割愛せざるを得なかったが、他にもまだハーン関係のエピソードは存在する。熊本時代の一八九二年の夏、ハーンは隠岐へ旅行した。帰途米子から尾道へ出て、そこから三光丸(大阪商船、三三四トン)に乗船、門司へ向かった。西田千太郎宛の書簡にあるように、途中で江田島の海軍兵学校の生徒の一団と道連れとなり、兵学校へ転職し、彼等を教えてみたいという気持ちを抱いたこともあった(注三)。

(前略)尾道へ汽車で行き、そこで三光丸という立派な汽船に乗りました。海軍士官学校生に偶然出会いました。素敵な若者達で、呉まで私と一緒に旅をしました。もしもいつか、海軍兵学校に空席ができれば、私はそこに入ろうと努力するつもりです。そこは給料は良くて楽なところです。でもこの前の外国人教師はそこに十年いました。学校は島にあります。私が会った生徒達は皆英語は随分話しました。乗っていたのは十三人でした。(後略)

「ラフカディオ・ハーンの会」は、ハーンと広島についての学習を主軸としながら、国内外における諸種の研究発表や顕彰活動から学ぶ姿勢を堅持した。またハーンの作品を原文(翻訳書も援用)で読む楽しみも経験した。そうした中で、ハーンの日本での作品、『日本瞥見記』と『日本―ひとつの試論』を読み通した喜びは大きかった。時折は、アリス・テイラーの翻訳で知られる高橋豊子氏、『小泉八雲とヨーロッパ』の著者西野影四郎氏、桝井幹生京都府立大学名誉教授など、著名なハーン研究家をお招きして、我々のハーン理解を助けて頂いた。

夙くも二〇〇〇年の十二月には、故銭本健二島根大学教授(元八雲会々長)の「ラフカディオ・ハーンとギリシャ・アイルランド」と題する講演があった。ハーンは母を捨てた父チャールズに対する恨みから、アメリカ時代には、アイルランドの守護聖人パトリックに因む自身のファーストネームを捨てた。一見アイルランドに背を向けたと評されるハーンだが、近年発見されたアイルランドの詩人W・B・イエ―ツ宛の書簡からは、ハーンが依然としてアイルランドへの熱い想いを懐き続けていた事実が明らかになった。そうした経緯などを交えた啓蒙的な講演であった。

小泉凡准教授の講演内容は、二〇〇八年十一月に出版された『〈増補新版〉文学アルバム小泉八雲』(恒文社)の「増補新版への付記」とも一部重なる。ハーンがチェンバレンおよびE・B・タイラーを通じてイギリスのピット・リヴァ―ズ博物館に寄贈した出雲大社の鑽臼や鑽杵を初め、出雲・熊本地方で蒐集した護符類についての解説と、母ローザの生誕地ギリシャのキシラ島への訪問、そこでの新発見についてであった。

ハーンと言えば反射的に“怪談”を想起し勝ちであるが、昨今はむしろ、防災教材としての「稲むらの火」や熊本時代の講演「極東の将来」との関連で親しまれるようになって来ている。小泉凡准教授の講演には、現代視点からの八雲再評価もあった。

さて、今年二〇〇九年の一月からは次ぎの一〇〇回を目指す、「ラフカディオ・ハーンの会」の新たな航海が始まる。丑年に肖って緩々とだが着実な(slow but steady)歩みを守りたい。引き続き皆様方からのご指導とご鞭撻を切に乞い願う次第である。

(注一)会場は広島市袋町の市まちづくり市民交流プラザ。「ハーンとヨーロッパ新考~最近の旅から~」なるタイトルの下に、ハーンが出雲地方で集めた寺社のお札の写真をスライドで説明する興味ある講演であった。
(注二)筆者は既に八年前の二〇〇一年十月四日(木)から、同じ「緑地帯」に“ハーンとの新たな旅”と題して書いたことがある。
(注三)九月十一日付け西田千太郎への書簡(広島大学図書館蔵)常松正雄訳を借用。

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