住吉神社

月刊 「すみよし」

『ハーンの生誕地ギリシャ』
風呂鞏

筆者の手元に『新宿ゆかりの明治の文豪三人展「漱石・八雲・逍遥」』という新宿歴史博物館開館記念特別展図録がある。一九八九年一月に新宿区教育委員会が発行したものである。何故この三人が“新宿ゆかり”なのかは、冒頭の「ごあいさつ」に次のように出ている。

漱石は牛込馬場下横町で生れ、早稲田南町でその生涯を終えました。八雲は上京して市ヶ谷富久町に居を構え、西大久保で亡くなりました。逍遥は生涯の大半を大久保余丁町で過ごしました。このように三文豪は新宿に地縁があります。

一九九二年五月二十七日の朝日新聞(東京版)に「ハーンの像、新宿区へ」という記事が載っている。当時新宿区はハーン終焉の地に近い大久保一丁目の土地を“ハーン記念公園”にする計画があり、それに合わせてハーンの胸像が生誕地ギリシャから新宿区へ寄贈されることが正式に決定したとのニュースである。コンスタンティノス・バシス駐日ギリシャ大使による表明だが、ハーンの生まれたレフカダ町の詩人公園にハーンの胸像を作ったことのあるカタポジス氏が今回も制作する、と書かれている。

周知の如く、ラフカディオ・ハーンこと、小泉八雲は一八五〇年六月二七日、ギリシャのイオニア諸島の一つレフカダ島で次男として生まれた。父チャールズはアイルランド人(当時は英国籍)で、ギリシャ駐在の英国陸軍軍医補、母ローザはギリシャ人で、キシラ島の旧家の娘であった。

一八九〇年(明治二三)四月四日の早暁、汽船アビシニア号で日本に到着したハーンは、「自分はここで死にたい」と言ったそうだが、その言葉通り、十四年後の一九〇四年に東京都新宿区西大久保で生涯を閉じたのである。これで、ハーン生誕地ギリシャ・レフカダ町がなぜ新宿区と友好提携を結ぶ都市であるのか、その由縁も納得がゆくことになる。

「広島ラフカディオ・ハーンの会」は、ハーン生誕一五〇周年を記念して、二〇〇〇年(平成十二)七月に顕彰活動を開始した。奇しくも、松江の八雲会が同じ年の六月中旬(十三日〜二十二日)に、ギリシャ・レフカダ町へ親善訪問団を派遣する計画を立てていた。

一九九〇年に松江で「小泉八雲来日百年記念フェスティバル」が華々しく開催され、以後熊本、神戸、東京と、国内におけるハーン縁かりの地で百年記念式典が相次いだことは記憶に新しい。次第に高まりを見せるハーンブーム(“ハーン現象”)から、八雲会は一九九七年八月、十日間のアイルランド・ツアー(参加者は三十四名)を実施した。アイルランドにハーンの足跡を辿る親善訪問が成功したお蔭で、ギリシャ・レフカダへの親善旅行にも勢いが加わり、銭本健二八雲会会長(団長)以下四十五名もの参加者が集まったのである。

レフカダ町詩人公園に建つハーン記念碑(胸像)が表紙を飾る、八雲会機関誌『へるん』三十八号(ギリシア親善訪問記念号、二〇〇一)には、 “ラフカディオ・ハーン生誕一五〇年記念レフカダ島への旅―晩鐘も西日もハーン生誕地―”と題して、特集記事のほかに、旅行参加者全員の感想が載っている。オリーブ畑の緑、橙色の屋根と白壁が映える家並み、それらを取り巻くエメラルド色の海、眩しいばかりの景色の中を、一行はアテネからレフカダへと向かった。バスの中ではブズキアの曲が流れており、筆者も「思い出のレフカダ行」と題して拙文を寄稿した。その一部を紹介する。

『日曜日はダメよ』と題するメリナ・メルクーリ主演の映画がある。あの中で見るコップ割り、カリメーラ、ウーゾ、そして港の情景はまさにギリシャである。―“どこを探してもこんな港はない/ 魔法にあふれたピレウスの港町/ 黄昏が迫ると港が歌いかける/ 若者たちの歌声がわたしのピレウスを包む”―指を鳴らし、激しいリズムの「ブズキア」で踊りながら唄う娘イリアの歌詞にある“ピレウス”を“レフカダ”と替えれば、たちまちイオニア海へと繋がる詩人公園前の港の風景となる。

今年七月、ハーン没後一一〇年を記念して、再び「ギリシャツアー」が計画されている。参加者募集の“趣旨”には、次の内容が読める。

「ハーンは、ギリシャに生まれアイルランドで育ち、移民としてアメリカに渡り、最後に日本を安住の地としました。幼いころ両親と生き別れたハーンは、五十四年の生涯を通じて常に旅人であり、その土地で出会った異文化や人種などに偏見をもたず、開かれた心で対象を見つめ、共感的理解をしました。この企画はラフカディオ・ハーンが持つ「オープン・マインド(開かれた精神)」を、彼の著書や手紙・講義録などを通して、多角的な視野で分析・解釈を試みるシンポジウムで、ハーンの生誕地レフカダで開催するものです。」

ギリシャはバルカン半島最南端部に位置する共和制国家、面積は日本のほぼ半分である。地理的にも日本から遠く隔たるギリシャに関しては、「ヨーロッパ文化の揺籃」、紀元前から西欧の哲学、文化、芸術に様々な影響を与えてきた古い国であるという漠然たる情報の他に、古代の神々、オリンピック競技(の発祥地)、二大叙事詩「イリアス」、「オデュッセイア」の作者ホメロスなど、クイズ的な知識で満足する人が多いのではなかろうか。

世界各地での紛争、生死を左右する利害の対立・憎しみ合いが渦巻く地球環境の中で、ハーンの人間性に見られるギリシャ発信の「開かれた心」が、今や地球全体の人類の存亡に関わるキーワードになりつつある。 多神教に基づくギリシャの歴史によって育まれた民族性には異文化や人種への偏見がないからである。 今年七月、ハーンの生誕地レフカダで開催されるシンポジウム、その成功に期待するところは大きい。

光に映えて新宮は立つ
―伊勢神宮旧社殿拝観記―
宮司 森脇宗彦

今上陛下御製

白石を踏み進みゆく我が前に 光に映えて新宮は立つ(平成五年)

今上陛下が、第六十一回式年遷宮(平成五年遷御)に、神宮ご参拝の時の御製である。

昨年の十月に伊勢の神宮では「遷御」の儀が斎行され、大神様が新宮に遷られた。

二十年に一度、御社殿、御神宝、御装束などを新しくするという式年遷宮は、「常若(とこわか)」という信仰にもとづいたものといわれる。「常若」とは、常に若々しい、清浄な姿である。神々の御稜威の更新であり、日本人の「永遠のいのち」への祈りの結晶が式年遷宮である。約一三〇〇年の伝統ある祭儀である。

先月神宮に参拝した。

私にとってこの参拝は、昨年の遷御後初めての参拝になる。お白石持行事に奉仕したのは昨年の八月であった。新しい正殿の御敷地に白石を奉納した。この時には、新しい正殿には大神様はまだお遷りになっていなかった。檜の香りがただよう素木の素朴な正殿の若々しく、瑞々しさに感動を覚えた。今回の参拝は、大神様がお遷りになっている御正殿である。

春の訪れを感じる日であった。天気もよく晴れわたり、あたたかい光が社殿に注がれていた。新しい御殿は、その光に映えて一段と美しく輝いていた。神々の新しい命がふきこまれた感じがあふれている。

外宮に特別参拝をする。外宮は豊受大神宮という。外玉垣の前で、塩でのお祓いを受けて、中重に先導され、鳥居の手前で拝礼した。

その後、旧外宮の御敷地内を拝覧した。旧社殿は昨年十月の遷御の後、内宮も外宮も三月の末まで新社殿と旧社殿が並び建ち、新旧の社殿を見比べることができるまたとない機会であった。

外宮の北御門から御垣内に入る。まず内院に建てられた唯一神明造のそれぞれの社殿の黒ずんだ色の変化や、萱葺きの屋根の傷みが目につく。二十年という年月が、ここまで朽ちて、所によれば萱葺の屋根の下地の竹があらわになっている。また苔もはえているなど、隣地の新しい社殿のそれと見比べるとその差異は一目瞭然である。生命力を失った姿を感じる。二十年の式年造替が丁度いいというのを、旧社殿の姿から教えられる。

外宮の旧社殿を拝観しながら、中世の式年遷宮が中絶し、式年の二十年以上を経過した御社殿を想像する。記録では、式年延引された御社殿はいまにも倒壊寸前であったという。何度も仮の遷宮を繰り返し、修復でしのいでいる。

内宮では百二十三年、外宮では百二十九年の間中絶する。時の天皇の復興への祈りを、御製にみることができる。

第一〇二代・後花園天皇  伊勢((享徳元年・一四五二)

さらに今つくる内外(うちと)の宮ばしらすぐなる代々にたちや帰らむ

第一〇五代・後奈良天皇  神祇(享禄三年・一五三〇)

いそのかみふるき茅萱(ちがや)の宮柱たてかふる世に遭はざらめやは

神宮の荒廃、式微も国民の御奉賛によって乗りきり、現在があることを肝に銘じなくてはならない。式年遷宮のおこなわれない時も、日本人の信仰、伝統文化の遺伝子は生きていたのである。

外宮の御敷地にある建物で重要なのは御饌殿(みけでん)である。外宮の南正面の外玉垣御門からは見えないが、北御門から入ったすぐの左手にある。ここで天照大御神をはじめとする神宮の神々が、毎日の食事をなされる。日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうのおおみけさい)という。そば近くでかつて奉仕を拝観したことがある。

外宮御鎮座以降、千五百年もの間一日も欠かすことなく、一日に二回の食事が大神たちにささげられる。悠久の命の連続にあらためて心が動かされる。祭の繰り返しこそが「永遠」を祈ることではないかと思う。

御饌殿の特徴は、他の社殿とは異なり、四隅の柱がなく井楼造(せいろうつくり)である。御社殿の高床に昇降する階段は、一本の木を伐り刻んだものである。この階の形は、古く弥生時代の遺構からも発見されており、米倉を原型とする古代そのままであることに驚かされる。

それぞれの社殿をよく見ると、梁と屋根を支える柱の上部に少しの間隔がある。この間隔は、社殿の柱にはめ込んである板が縮んでくるのを計算してのことであるという。新しい社殿を見るとその間隔は旧社殿と比べても長いことがわかる。二十年の経過を物語っている。ここにも日本伝統の建築の知恵が生かされている。

伊勢の神宮のこと、特に内院の御社殿は、ものの本で知ることはできるが、直接目で見る機会はない。内院の旧社殿の拝観は、午後三時過ぎという時間的なものもあろうが、拝観者は少なく、ゆっくり、じっくりと拝観でき、貴重な体験となった。

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