住吉神社

月刊 「すみよし」

『国民的古典「百人一首」』
 照沼 好文 

私たちが子供時代の正月の遊びを振返ってみると、凧揚げ(たこあげ)、独楽(こま)、羽子板、毬(まり)などの戸外での遊び、また室内では歌留多(かるた)、双六、トランプなどの遊びがあって、いま思えばなつかしく心の豊かさを覚える。とりわけ、「小倉百人一首」歌がるたは、広く一般家庭のなかにも溶け込み、私たちが物心ついた頃、祖母や母たちからかるたの和歌を口伝えに覚え、そして古典に入る道標を教えて貰ったことが思い出される。このやうな身近かな百人一首は、日本の家庭のなかに溶け込んだ国民的古典の家庭版と云っても差支えない。

抑々、「小倉百人一首」の由来には諸説があるが、藤原定家(一一六三―一二四一)が古今の和歌の中から、一歌人につき一首ずつを選んで色紙に書き、小倉山荘の襖障子に貼って置いたものを、のちにその子為家が整理して二条家の歌学の拠所としたことに渕源する。とくに、明治以来、来日した外国人の間でもこの百人一首には関心が強く、B・H・チェンバレンは、「小さい詩歌集の『百人一首』は定家卿(一三世紀の貴族)が編集したもので、永い間、特に一般大衆に人気があった。教育を少しでも受けたことがある人は誰でもそれを暗記しているほどである」(『日本事物誌』高梨健吉訳、平凡社刊)と述べ、G・B・アストンは百人一首について、「自国の和歌に関する知識は、とくに若い女性たちの教養として欠くことのできないものと考え、この和歌集が彼女らに宛がわれた」(英文『日本文化小史』)と、日本人と百人一首との親密な関係を紹介している。

しかし、一般大衆の間における百人一首の普及は近世に至ってからのことであると云われる。とくに、森暢氏の報告に拠れば、貞享二(一六八五)年頃には京都において百人一首絵のかるたが作られ、その後かるた取りの遊びは今日に及んで流行している。(『歌仙絵・百人一首絵』角川書店、昭五六・一二刊)なお、百人一首絵のかるたには貝覆(かいおおい)の遊びの伝統があり、百人一首の「かるたの絵と貝覆の絵には、その華やかな意匠の上で似通う点を見出し、…かるたは貝覆の伝統に、西洋渡来のカードの遊びを加え、百人一首絵のかるた取りともなって、広く大衆の間に行きわたった」と森氏は指摘している。大津の天智天皇奉斎の近江神宮や、京都・八坂神社では、毎年正月恒例の百人一首かるた取りの大会が催されるが、この頃各地の高校等においても、部活動として実施しているところが多いと聞いている。

ともあれ、この「小倉百人一首」の形式をみれば、冒頭には、天智天皇御製「秋の田の…」、持統天皇御製「はるすぎて…」の和歌を掲げ、末尾を後鳥羽天皇の「ひともをし…」、順徳天皇の「百しきや…」の御製で結び、その間に九十六人の和歌各一首ずつを収めている。これらの歌人は上は飛鳥・奈良の時代、所謂万葉時代から、下は新古今時代(鎌倉時代の初期)に及んでいる。また、保田興重郎氏の『百人一首概説』に據れば、この百人一首には「名歌も多いし、又どの一首と云っても、とつて人生の思ひ出を回想するよすがの口ずさみに適したやうなものである。又この集によって人口に膾炙(かいしゃ)したやうな名歌や史上の人物も少くない」が、この集は「正しいもとの形式で、華麗な王朝の美しさと歴史とを描いている」と、この和歌集の特質が指摘されている。畢竟、このような国民的古典の家庭版を大切にして、ますます国民の文化が高揚してゆくことを、私は念じている。

 

『小泉八雲の富士山』
風呂鞏

ご存知”一富士二鷹三茄子“は、駿河の諺で、一説に駿河の名物を指すとされるが、元日(或いは正月二日とも)の夜に見る初夢の、縁起の良い順に並べた成句でもある。

葛飾北斎の「富嶽三十六景」でもお馴染みの霊峰富士山は、まさに日本の象徴、目出度きことのナンバーワンである。

富士山と言えば、明治を代表する児童文学者、巌谷小波の作詞による文部省唱歌「ふじの山」が先ず思い浮かぶ。この歌は一九一〇(明治四三)年七月に発表された。時代背景からも、ナショナリズム的な色合いが無きにしも非ずだが、その歌詞は日本人なら誰でもがすぐ口を衝いて出るほど人口に膾炙している。

あたまを雲の上に出し、
四方の山を見おろして、
かみなりさまを下にきく、
ふじは日本一の山

富士山は高さ、大きさ、そして美しさが他を寄せ付けず、古代から、いや、天地の分かれた時から神聖な存在であったし、時間的なものを超絶して、永遠の象徴なのである。日本人の精神的かつ審美的な崇敬を集めた名山と言い換えてもよい。好い例が『万葉集』にある。山部赤人の歌で、富士山に寄せた古代人の思いを結晶させたものである。

天地の 分れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 布士(ふじ)の高根を 天の原 ふり放け見れば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行き憚り 時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 不盡(ふじ)の高嶺は(巻三−三一七)

誰一人知らぬ者のない富士山であり、今更という気もせぬでもないが、岩波書店発行の『広辞苑』第五版には、次のような解説が載っている。

(不二山、不尽山とも書く)静岡・山梨両県の境に聳える日本第一の高山。富士火山帯にある典型的な円錐状成層火山で、美しい裾野を引き、頂上には深さ二二〇メートルほどの火口があり、火口壁上では剣が峰が最も高く三七七六メートル。史上たびたび噴火し、一七〇七年(宝永四)爆裂して宝永山を南東中腹につくってから静止。箱根・伊豆を含んで国立公園に指定。立山・白山と共に日本三霊山の一.芙蓉峰(ふようほう)。

小泉八雲こと、ラフカディオ・ハーンは一八九〇(明治二三)年四月四日来日するが、次第に横浜港に近づくアビシニア号の甲板から早暁の富士山を仰ぎ見た時、その息を呑むばかりの美しさに恍惚となった。その際の第一印象を「日本への冬の旅」という紀行文の中で次のように記している。

右舷の方角に、黒々とした山脈(やまなみ)が現れ、背景は見事なバラ色の朝焼けである。左舷の側にも今や別の山脈があり…この方が右側の山よりも一層近い。と、快い驚きの衝撃とともに、それとなく目で探していたものが見えてきた―これまでの期待を遥かに上回って―しかし水色の朝空を背に幻の如く夢の如く白い姿であったので最初見た時はそれに気づかなかった。一切の形あるものを越えたところに、雪を頂いたこの上なく優美な山容―富士山だった。裾の方は遠景と同じ色で識別できず―ただ項の全容があえかな横腹のように空に懸かっている―幻影と見まごうほどに。(仙北谷晃一訳)

日本上陸直前に眺めた富士山の偉容はハーンに強烈な印象を残した。来日第三作『心』(一八九六年)には、一人の日本人を主人公とする「ある保守主義者」がある。侍の子でありながら、祖国を棄て外国でexile(異郷生活者)となった青年が、船で横浜へ帰って来る。朝早く船客が甲板に出て、富士山を眺めようと長く続く山脈を見つめている。船員が「もっと上を、もっとずっと上を御覧なさい」と指差す。すると、朝焼けの日光の中に、不可思議な夢幻の蓮の花の如く、紅に染まった力強い富士の山頂が見えてくる。疲れ切った主人公を慰め、精神的に高揚させてくれたのは、母国の象徴富士山であった。富士山が醸し出す象徴性と美意識の融合が見事に描き出されている、と言える。

一八九七(明治三〇)年八月二十四日、四〇歳のハーンは、焼津に訪ねてきた松江中学の教え子、藤崎(旧姓・小豆沢)八三郎と共に御殿場口より富士山へ登った。夏の富士登山の経緯が『異国情趣と回顧』(一八九八年)の「富士山」に描かれている。

西洋人の中でも富士礼賛の代表格ハーンだが、火山の燃え殻、溶岩しかない富士山頂に立った時の感慨は、美しさと恐ろしさ、夢と現実を併せ持つこの山の正体であった。遠景の美しさからは思いも及ばぬ山頂の別世界の様子に、日本の諺「来てみればさほどまでなし富士の山」を引用し、富士山頂を陰鬱な場所と決め付けている。おまけに、厚い雲のため折角の御来迎を見ることが出来ず、この上なく失望したのであった。

神国のうちの最も神々しい山、神信心をする者が一生に一度は登るのが勤めとされる富士山も、今や大量ゴミの不法投棄で、NPOを中心とした富士山清掃活動が最近五年間に集めたゴミは三五〇トンにも達すると報告されている。

富士山を“冠を戴くマリア”に譬えたフランス詩人もいる。新年に当り、富士山が、視覚的にも精神的にも日本人の誇り、「聖と美の山」であり続けて欲しいと祈る。

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