住吉神社

月刊 「すみよし」

『水戸烈公と農人形』
照沼 好文 

屡々、私たちは飽食の時代、食糧の生産過剰、水田耕作減反等々の言葉を、流行語のように耳にすることが多い。その一方で、農山村地帯では働き手の都会への流出、或いは嘗ての働き手の老齢化による山林田畑の荒廃、過疎化という現象を目の当りに見ている。そしたこれらの現象にともなってさらに深刻な問題は、国土の崩壊を思わせる風土の変貌、即ち古来の産土神に対する崇敬や、伝承文化、習俗等の存続さえ危ぶまれる現状である。

こうした深刻な問題の多い時、私は水戸の九代藩主烈公斉昭の「農人形」について紹介してみようと思っている。烈公の「農人形」にはいま、私たちが忘れている日本人のこころが息づいているからである。烈公は文政十二年(一八二九)十月に三十歳で九代藩主に就任している。天保四年(一八三三)に初めて水戸に入った時、公自身の考えていることを包み隠すことなく『告志編』という書物に述べて、これを近侍の者、家臣に見せたという。この書物に烈公は、

朝夕食する所の米穀は、粒々民の辛苦して、人々先祖の勤労等を以って、先君より賜りた

る所なれば、食する毎に此所を忘れず、一拝して箸を取り候ても、然るべき程の事なり。然るに其の元を忘れ、佳肴なければ食はれぬなどいふ様の浅ましき事なり。…

と述べているが、烈公はつねに農民を「御百姓」と呼び、感謝のこころを忘れなかった。そして、こうした謝農のこころの具現化として、青銅製の「農人像」を自ら鋳造し、諸公子や家臣たちに配った。このことは、万里小路睦子(ちか子、烈公側室)の「農人形の記」にその由来が述べられているが、栗田勤(栗田寛の嗣子)の由来記を見ると、

公少壮の御時より、親ら青銅もておほみたから(農民)のすがたを鋳て、

朝な夕な飯くふことに忘れじな

恵まぬ民にめぐまるる身は

とよませ玉ひて、常に食膳の上におき御箸を下すや、必ず先づこれに(飯を)賜ひて後に御自ら食し玉へり。…

即ち、烈公自製の「農人の像」(「農人形」という)の姿は、農人が蓑(みの)を着て趺坐(ふざ=足を組んですわること)し、左手にした鍬を肩にかけ、右手の菅笠を仰向けに膝の上におき、その脇に藁束一つを立てた形である。烈公は、この像を食膳の隅にすえ、食事毎にまず初穂として一箸の飯を笠の上に供え、その後に食事をとったと伝えている。

 ともあれ、烈公は私どもが朝夕食する米穀を、粒々辛苦して生産する農民に対する尊敬と、謝恩のこころを、「農人形」の姿で具現化して、尊農の精神を今日まで伝えてくれた。かの『武士道』の著者、新渡戸稲造博士は、盛岡藩主南部利剛に嫁した烈公の息女、松姫が持参した「農人形」を模造し、これに英文の説明を付けて頒布したが、この資料はいまも大切に水戸の地に保存されている。これらの先人の遺品をとおして、国の大本である農に思いをはせるとき、自然との「共存共栄」の豊かな瑞穂の国の復興を、心から願わずにはおれない。

 

『洞爺湖サミットに想う』
風呂鞏

既にご承知の通り、去る六月八日、東京秋葉原で無差別殺傷(七人死亡、十人負傷)という凄惨な事件が発生した。犯行を惹き起こしたのは二十五歳の男性である。彼に象徴される如く、最近の日本社会では狭量な自己中心主義が横行している。そして、「隣は何をする人ぞ」状態に拍車がかかり、個人個人の孤立化が顕著となって来ている。

こうした“孤立化”現象を英語の頭文字から3F(スリーエフ)と謂う人がいるらしい。他人のアクションに対し反応出来なくて「フリーズする」(freeze)、或いは逆ギレして「攻撃する」(fight)、さもなくば自分一人ひき篭り「逃避する」(flee)のである。

自己中心主義・孤立化現象を3Fで纏めるとは、巧いものだな、と感心していると、Food(食糧)、Fuel(原油)、Finance(財政)という別の3Fもあると聞く。こちらは他ならぬ、現在の世界各国が抱える深刻な問題である。特に初めの二つは、まさに愁眉の課題、地球温暖化と切っても切れない関係にあることは言うまでもない。

さて、七月七日から九日までの三日間、北海道で「洞爺湖サミット」が開催された。首脳国を初め、世界各国が多種多様な難題を抱える中で、今回の焦点は勿論、地球温暖化対策である。世界のCO2削減を目指す京都議定書に続く、新国際枠組みの交渉の場として、八年ぶりに日本でのサミット開催である。議長国である福田首相のリーダーシップが大いに期待された。

「二〇五〇年までに温室効果ガスを五〇%削減といった長期目標を、世界全体で共有することが望ましい」との首脳国宣言も一応は出たが、G8と新興国との溝は埋らなかった。先の映画「不都合な真実」で示されたような深刻な現実は一体どうなるのであろうか。砂漠化、旱魃、アマゾンでは今もなお、日本の十三倍もの面積が違法伐採されている。北極の氷も解け続け、沿岸部では既に水没が始まった地域もあると聞く。まさに地球温暖化は待ったなしの厳しい状況に追い込まれているのである。

各国の利害が絡む事情もわからぬではないが、いやしくも環境問題・地球温暖化対策を看板に掲げてのサミットである。各国代表は、CO2を撒き散らしながら、飛行機で日本に乗り込み、食糧危機を横目にグルメを楽しみ、何も決めないのが自国にとっての手柄とか、他人事のごとき会話だけで、握手をしながら笑顔で写真に収まって終わり。人類の未来に対する責任をどう果たすのか。失望を禁じ得ぬサミットではあった。

明治二十九(一八九六)年九月初め、小泉八雲は帝国大学文科大学講師としての辞令を受けて上京した。本郷・大学正門前の旅館「三好屋」に泊まっていたが、九月末には牛込区市ヶ谷富久町二十一番地の借家に居を定め、この家から人力車で本郷の大学まで通った。小泉時・小泉凡共編『文学アルバム小泉八雲』(恒文社、二〇〇〇)に拠ると、次の説明が読める。

高台にあって見晴らしのよいこの家の隣には、通称瘤寺と呼ばれる静かな寺があり、杉の大木がたくさん立ち並んで鬱蒼としていた。八雲はここを大いに気に入り、毎日、朝と夕方散策し、老住職とも懇意になった。

小泉セツの『思い出の記』には、次の記述がある。

或る時、いつものように瘤寺に散歩しました。 私も一緒に参りました。へルンが「おお、おお」と申しまして、ビックリしましたから、何かと思って、私も驚きました。大きい杉の樹が三本、切り倒されているのを見つめているのです。「何故、この樹切りました」「今この寺、少し貧乏です。金欲しいのであろうと思います」「ああ、何故私に申しません。少し金やる、難しくないです。私樹切るより如何に喜ぶでした。この樹幾年、この山に生きるでしたろう、小さいあの芽から」と言って大層な失望でした、「今あの坊さん、少し嫌いとなりました。坊さん、金ない、気の毒です、しかしママさん、この樹もうもう可哀相です」とさも一大事のように、すごすごと寺の門を下りて宅に帰りました。書斎の椅子に腰を掛けて、がっかりして居るのです。「私あの有様見ました、心痛いです。今日もう面白くないです。もう切るないとあなた頼みくだされ」と申して居ましたが、これからはお寺に余り参りませんでした。間もなく老僧は他の寺に行かれ、代わりの若い和尚さんになってからどしどし樹を切りました。それから、私共が移りましてから、樹がなくなり、墓がのけられ、貸家などが建ちまして、全く面目が変わりました。へルンの言う静かな世界はたうたうこはれてしまいました。あの三本の杉の樹が倒されたのが、その始まりでした。

八雲が晩年に書いた『怪談』に「青柳ものがたり」がある。友忠の妻青柳が、ある朝突然、自分は人間ではなく、柳の精であることを告白して、「今、誰かが私を伐り倒そうとしているので、死ななければなりません」と叫ぶ。この作品が、例の瘤寺事件の影響の下に生まれたことはよく知られているが、将来を見通す八雲の鋭い感覚、ジャーナリストとしての眼力が、共生の思想を基に創り上げた名篇である。

数年前、月刊『すみよし』にて、この「青柳のはなし」を紹介したことがある(注一)。

司馬遼太郎の「二十一世紀に生きる君たちへ」や、八雲の熊本時代の講演「極東の将来」などと共に、あの青柳の“いまわの悲痛な叫び”が、地球温暖化の今、日本人のみならず全世界の人々の耳底まで隈なく届いて欲しいと思うが、どうであろうか。

(注一)「小泉八雲の『怪談』と“共生”」平成十七年六月一日『すみよし』三二七号

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