住吉神社

月刊 「すみよし」

『近代日本の幼児・女子教育と豊田芙雄刀自について』
 照沼 好文 

さきに『すみよし』(平成二〇年四月一日刊)に拙稿『幼児教育の先達豊田芙雄子について』を掲載して頂いた。その折水戸出身の豊田芙雄(とよたふゆ)は、わが国の幼稚園教諭の第一号であり、女子教育の先駆者であることを紹介した。

芙雄は弘化二(一八四五)年、水戸藩士桑原幾太郎の次女に生まれた。母雪子は碩学藤田幽谷の次女で、藤田東湖の妹にあたる。芙雄十八歳の時、彰考館(国史編さん所)総裁豊田天功の長男小太郎と結婚したが、その数年後の慶応二(一八六六)年、夫小太郎は国事に奔走中、刺客によって京都で非業の死を遂げている。国事多難な幕末、維新の夜明け前に、その渦中の人として芙雄は生きた。

やがて、明治開明の時代に至って、同三(一八七〇)年に女子教育、幼児教育の先駆者として、その第一歩を踏み出す。とくに、明治八(一八七五)年には東京女子師範学校(現、お茶の水女子大学)開設に当たり、校長中村正直(敬宇)の推せんによって読書教員に採用され、漢文、歴史地理を教えている。翌年には同校付属幼稚園が開設され、保母に任命されて、国第一号の誕生となる。この時、主任保母はドイツ人松野クララで、松野女史は幼稚園の始祖フレーベルに親しく幼児保育学を学んだという。明治の初めに訪独した農商務省の役人松野はざまと結婚して来日している。

松野女史は、「幼児には歌を教えなくては」と、洋風の唱歌を芙雄自身も教わった。芙雄は最初ピアノが弾けず、和琴で音譜を取った。当時保育の実際では、すべてが新しい試みであり、唱歌などは保母が一つ一つ新しく作詞・作曲しなければならなかった。

蝶々(ちょうちょ)蝶々(ちょうちょ)

菜の葉にとまれ

菜の葉にあいだら

桜にとまれ  云々

という唱歌は芙雄の作であると、芙雄自身が語っている(『サンデー毎日』昭和十五年六月九日発行)。この他にも、芙雄には「風車」「家鳩」などの唱歌がある。

殊に、芙雄は国史に通じ、和・漢の学問を修めているが、明治二年(一八八七)年徳川篤敬(しげよし、水戸十二代当主)がイタリー全権公使となった時、芙雄はその随行者としてローマに三年余留学している。そして、文部省より「欧州女子教育事情取調べ」の委嘱を受けて、この間に仏語を学び、パリーに遊学し、スイス、デンマーク、ドイツにも出張し、西欧の女子教育を始め、その新文明を視察して見聞を広めている。また、薙刀等の武道も修練して達人の域に達していたという所謂文武両道をきわめ典型的な教育者であった。

ともあれ、明治十二(一八七九)年鹿児島県令岩村通俊の要請によって、一年余の間公立幼稚園開設のため、芙雄は遠く鹿児島に出張した。芙雄の評判はすばらしく、道行く人は皆立ち止まって敬意を表したというが、芙雄の帰京に際して、「いまよりはおさなき子らの泣く声に/いくたび君をおもひ出ら舞(む)」と、保護者より彼女に、この一首の歌が贈られている。

前述のように、明治二十年に芙雄は西欧に出張し、帰朝後の明治二十四年から二十七年まで東京府立第一高等女学校に勤務し、当校を辞職後に私立翠芳学舎を東京丸の内数寄屋橋に創設したが、時の文部大臣西園寺公望の切なる希望に応じて、明治二十八年に栃木県高等女学校(現宇都宮女子高校)教頭に赴任、同県師範学校教諭を兼ね、両校の舎監にもなって校風刷新にも努めている。だが、当時郷里の水戸に県立高等女学校の設立をみないので、県議会や有志の者に女子教育の必要性を力説した結果、明治三十三年水戸に茨城県高等女学校の創立をみた。翌三十四年二月芙雄は教諭としてとしてとして同校に赴任し、爾来大正十一年四月まで二十一年余の長期間勤続した。その後、同十二年水戸大成女学校校長に就任し、昭和二年辞任している。このため、当時の女教師としては破格の待遇で、従七位勳六等に叙せら宝冠章を賜わっている。

昭和十六年十二月一日、九七歳をもってわが国の幼児教育、女子教育の先駆者豊田芙雄刀自は天寿を全うされた。昭和十五年六月九

日発行『サンデー毎日』所収「生きてゐる歴史」末尾に、この年元旦に生れた豊田健彦氏の長女清賀子さんが眼を覚してむずかると、いつも九六歳の芙雄刀自は、フランス語で赤ん坊をあやしていたという。こうした刀自の姿を連想するとき、国事多難な幕末・維新の時期を通りすぎ、さらに維新から約一世紀を新しい女子教育、幼児教育に生涯を捧げたその先駆者の姿に、改めて敬虔(けいけん)な感慨を覚える。      

 

『唱歌「故郷」』
風呂鞏

先月末のことである。帰宅の途上、近所の本屋に立寄った。足を踏み入れるやいなや、東京放送児童合唱団が歌う妙なる調べが耳に飛び込んできた。日本人なら誰一人知らぬ者はない、あの文部省唱歌「故郷(ふるさと)」である。しばしこの懐かしい曲に聞き惚れた後で、ふと我に返ると、店頭には、『日本のうた~明日へ残したい名曲選~こころの歌』(改訂版・CDつきマガジン)が並んでいる。そして、傍らに置かれたCDプレーヤーに「故郷」(作詞:高野辰之、作曲:岡野貞一。大正三年六月、尋常小学唱歌・第六学年用)がかかっていたのである。

 

兎追いし かの山

小鮒釣りし かの川

夢は今も めぐりて

忘れがたき 故郷

 

如何に居ます 父母

恙なしや 友がき

雨に風に つけても

思い出ずる 故郷

 

志を はたして

いつの日にか 帰らん

山は青き 故郷

水は清き 故郷

 

表紙を飾るのは、「郷愁の叙情画家」谷内六郎が描く懐かしい田舎の風景である。右隅のサインから、昭和三十九年四月の絵であることが判る。遠方の小高い山々とあくまで清らかに澄み切った空を背景に一本の大きな木が立っている。着物を着た坊主頭の男の子が弓矢を持った両手を広げて、高い枝の上に裸足で立っている。別の低い方の枝には、赤い頬っぺの女の子が、やはり着物姿で左手に風車を持ち腰掛けている。オカッパ頭の黒髪に結ばれた赤いリボンが、笑顔とマッチして一段と可愛い。

近年急速に姿を消しつつある「故郷」の情景だが、戦前に生まれ育った者にとっては、日常的なものであっただけに、懐かしさがこみ上げ思い出す度に涙が止まらない。そこには藁葺き屋根の家、庭の大きな柿の木、魚釣りをした小川、稲田の上を舞うトンボ、夏の蛍や蝉、凧揚げをした空、それらに加えて、泥んこ遊びをした友だち、炉辺で夜遅くまで藁草履を作っていた父母の姿、そういったものが確実に存在していたのだ。

『日本のうた~明日へ残したい名曲選~こころの歌』シリーズの第一号は、発売されたばかり。隔週刊で全一〇〇号(七〇三曲)を予定しているが、最初の一曲に「故郷」を置いているのは、如何にも象徴的である。外国で日本人が集まり、何か歌おうとなった時必ず選ばれる曲の一つがこの「故郷」であるそうだが、まさに日本人の“こころの歌”、DNAそのものと言っていい。

 

松本健一著『日本文化のゆくえ』(第三文明社)に、山手線車内の中吊り広告「新ふるさとづくり」に触れた部分がある、その中の「ようこそ のんびりの丘」というコピー(文案)には、オックスフォードだかケンブリッジだかのスタイルのセーターを着て、ヨーロッパのミステリー小説か何かを一人で読書している、三十代半ば位のメガネをかけた男性が描かれている。如何にもメルヘン調である。芝生の上に置かれたテーブルの上にはワインが一瓶置かれ、テーブルの脇にはイングリシュ・セッターとおぼしき犬が控えている。コッテージ(山小屋)ふうの洋館の庭。背後には、芝生以外ほとんど何も生えていない丘が、緩やかに広がっており、わずか四本の樹が、緑の色を強めている。二,三軒ほど見える家は、青い屋根と白い壁だけの極めてシンプルな装いである。

嗚呼、日本人の求める「ふるさと」は、今や死語と化してしまったのだろうか。

 

小泉八雲は東大で、一九〇〇(明治三十三)年九月の新学期に「赤裸々の詩」という文学講義を行った。八雲は、詩を完璧な詩、二流の詩、劣等の詩の三種類に分類した。完璧な詩とは、民衆の単純な言葉で身を打ち震わせるような何かを残すものなのである。その好例として、アイルランドの詩人ウィリアム・アリンガム(一八二四-八九)の詩「思い出」を紹介、幼年期の回想を甦らす最後の一行に注目させている。

 

池の面(も)の四羽の鴨、

かなたなる草の堤

春の日の青い空

ひょうひょうと浮ぶ白雲。

いかにささやかなることよ

幾年も思い出ずるは

涙して思い出するは。

 

ギリシャから日本まで地球を半周以上旅した八雲は、常に“涙と共に”望郷の想いを胸に秘めていた。唱歌「故郷」を聞けば、「なんぼ、よき歌」と言って、文筆の手を休め、妻のセツに歌ってくれるよう、懇望したことは間違いあるまい。

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