住吉神社

月刊 「すみよし」

『瓢庵余滴(ひょうあんよてき)』
照沼好文

元宰相吉田茂の言葉

「とくに明治の指導者たちはすぐれた『勘』(かん)をもっていた。だから私は事あるごとに『勘』の必要を説いてきたのである。しかし、『勘』というものは幸運と同じように、つくり出そうとしてつくり出せるものではない。それらはともに、すぐれた歴史の感覚をもち、勤勉に仂く国民に与えられる一種の贈物のようなものである。自分たちの成功に酔ったり、実力を過信する人びとには、幸運も『勘』も与えられはしないのである。日本の歴史もそのことを示している。」―吉田茂著『日本を決定した百年』(三頁)―

偶々、戦後の名宰相吉田茂の主著『日本を決定した百年』を再読して、いろいろと感じ

るところがあった。本書は、百科事典で有名なエンサイクロベディア・ブリタニカが、その付録として毎年出している補追年鑑の一九六七年版の巻頭論文に、多少手を加えたものである。評論家の故江藤淳氏は、「かつて『ワンマン』といわれたこの老政治家の眼は、こだわりのない眼である。自他の姿を一瞬にして正確にとらえ、それを表現できる眼であることはいうまでもない」と、吉田茂の歴史眼の正しさを称え、本書を高く評価している。

明治の政治家木戸(きど)孝(たか)允(よし)の言葉

「[木戸]孝允聖駕に扈従(こじゅう)して各地を巡察するに、到る所小学教育の盛なるを認む、然れども徳育の智育に伴はざるあり、欧州各国の如く宗教を重んぜる本邦に在りては、特に力を修身の学科に致さざるべからずと為(な)す。」―『明治天皇紀』第三(六三三頁)―

明治九年(一八七六)六月、明治天皇は東北御巡幸あそばされ、東北各地の僻地(へきち)における小学校に至るまでご巡察なされた。その折、聖上に扈従して、参議・内閣顧問木戸孝允も、学校教育の実態を視察された。その後に、聖上は木戸参議に小学教育についての感想を、お求めになられた。

参議は率直に、

東北各地を視察してみると、各地方における小学教育の現場は、非常に熱心で盛んであります。しかし、知識を教える教育は盛んであるけれども、道徳や情操を育てる教育が、知識の教育に伴なっておりません。欧州各国においては、たとえば各家庭においても、キリスト教のような宗教、情操の教育や躾けが重視されていますので、とくに言挙げる必要はないと思われますが、わが国では、とくに修身の学科に力を入れるべきであると考えます。

と、聖上に奏上しているのが、冒頭の言葉である。現代の教育にも通ずる至言である。

『大河ドラマ「平清盛」』
風呂鞏

広島県のほぼ中央、瀬戸内海に面した呉市警固屋と倉橋島にある音戸町との間に、「音戸の瀬戸」がある。呉湾と安芸灘を結ぶ水道である。確実な裏付け資料には欠けるが、この瀬戸一帯が安芸国衙や厳島神社の交通の要衝にあたることから、もともと地続きであったのを、平安末期、平清盛(一一一八〜一一八一)が、沈む夕日を金の扇で招き返し、切り開かせたとする伝説がある。清盛は安芸守から太政大臣に昇り、厳島神社への信仰が篤かった。

最狭部は七〇メートルほど。潮の干満につれて急流となり、海中に突き出た岩に当たって渦巻きとなる。ここを艪を漕いで乗り切るのは大変難しく、船頭泣かせの難所であった。

その音戸の瀬戸を通り抜けて行く舟を見て、「船頭 かわいや 音戸の瀬戸で 一丈五尺の 艪がしわる」の名文句が生まれた。この「音戸の舟唄」が、広島県を代表する民謡にまでなったのは、故高山訓昌名人(音戸町出身)の功績である。名人の唄は、まるで舟の上で艪を漕ぎながら唄っているのではと錯覚するほど、臨場感に満ちている。 六番の歌詞には“清盛塚”が登場する。瀬戸の西側には、「清盛塚」と称する室町時代の宝篋印塔が海中の岩礁上に建っているからである。(音戸の舟唄保存会『民謡 音戸の舟唄』参照)

ヤーレーここは音戸の瀬戸 清盛塚のヨー

岩に渦潮ドントヤーレノー ぶち当たるヨー

大衆文学に独自の境地を開いた吉川英治の代表作『新・平家物語』がある。吉川氏は取材のため、平清盛開削伝説のあるこの地を訪れ、瀬戸を見下ろす丘上に立ち「君よ 今昔の感 如何」の感慨を謳った。現在は丘上の三角石に刻みこまれている。昭和三六年、この瀬戸を跨ぐように音戸大橋が架けられたが、今また第二音戸大橋が建設中である。

来年二〇一二年は大河ドラマ五〇周年とか。NHKは、松山ケンイチを主演に「平清盛」を計画している。執筆は藤本有紀さん。以前連続テレビ小説「ちりとてちん」が多くの視聴者を魅了した。その作者である。インターネットなどの番組紹介欄には、“今から九〇〇年前、王家や貴族が対立し、混迷を深めた平安末期、一人の男が現れ、この国の行く先を示した”などの文が読める。藤本有紀さんの力量に期待する所大である。

放映を前に、広島市内では、清盛に関連した歴史講座が人気を集めているらしい。また、呉市では、ゆかりの地を観光客に案内するボランティア・ガイド養成の研修会も始まり、観光客の増加が予想される音戸の瀬戸公園の改修工事も進んでいる。

ところで、平清盛と聞いて誰しも先ず頭に浮かぶのは、『平家物語』一之巻「祇園精舎」の語り出しであろう。次の如きリズミカルな文言となっている。学生時代に暗誦させられたり、今尚ご記憶の方も多いと思うが、冒頭の箇所、ほんの少しだけ引用する。

祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり。沙羅雙樹の花の色、盛者必衰のことはりをあらわす。おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。

『平家物語』における悪虐、非道、非情の描写から、平清盛は古来北面の武士から太政大臣にまで登りつめた成り上がり者の暴君というイメージが定着していた。一方で、実際の清盛の人物像は温厚で情け深いものだったとも言われている。 海に浮かぶ荘厳華麗な厳島神社を造営したことは余りにも有名だが、他にも、福原(現・神戸)に都を遷して、日宋貿易による財政基盤の開拓、経ガ島築造に見られる公共事業の推進など、貴族政治に新生面を切り拓いた、先見性のある理性的な政治家だったのではあるまいか。

昭和四五年四月よりNHK総合テレビで毎週放送された「日本史探訪」がある。その番組をもとに出来上がった『日本史探訪』第一集(角川書店)の中で、扇谷正造氏は平清盛に対して誠に興味深い観察を披露している。氏によると、清盛はソフィスティケイテッド・ステイツマン、即ち“粋な政治家”という感じをもつというのである。因みに、粋な政治家には次の五つの条件があるらしい。清盛への興味が一段と高まってくるではないか。

第一は、国際的知識が非常に豊富なこと。

第二は、人生経験に富んでいること。

第三は、女あしらいが良いということ。

第四は、事に当たって動じないこと。

第五は、何もかもわきまえていて、どこか一本抜けている、人のいいところがあること。

「平家にあらずんば人に非ず」と栄華を極めた平家一門も、「奢れる平家は久しからず」の言葉通り、僅か二〇年で清盛の愛した海に消えた。一ノ谷、屋島、壇ノ浦と相継ぐ合戦で、つぎつぎと敗戦を繰り返し、文治元年(一一八五)には全て滅んでしまった。

盲目の琵琶法師が、悲劇的な平家滅亡のシーン「壇ノ浦の合戦」の下りを弾ずると、鬼神と謂えども涙を禁じ得ない、という物語がある(江戸期の通俗本、一夕散人著『臥遊奇談』)。これに自己の人生の縮図を感じた小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、このストーリーから再話作品「耳なし芳一のはなし」を書いた。人も知るハーン晩年の最高傑作である。            

二〇一二年からのNHK大河ドラマ「平清盛」を機に、『平家物語』、「耳なし芳一のはなし」を再読する時間を持ちたいものだ。

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