住吉神社

月刊 「すみよし」

『師恩―「五浦釣人像」と平櫛田中―』
照沼好文

最近、雑誌や新聞の文化欄などで、典型的な日本人論或いは、人物論などの記事をよく見ることがある。そんな時、私は明治人の気質といったものを考えてみる。明治人には、こんにち私たちが忘れている直節即ち、誠という心情が生きているからである。

 例えば、近代日本の木彫界の巨匠平櫛(ひらくし)田中(でんちゅう)(一八七三年生―一九七九年没)翁は、天心岡倉覚三に師事して、百八歳の高齢で逝去されるまで、恩師天心を尊敬し、報恩の至情を尽している。とくに、田中翁の作品中でも、「五浦釣人」と題した天心像が、傑作中の傑作のように思えてならない。

田中翁には、こんな逸話がある。

田中翁の三十代頃、田中翁はいくら作品を作っても、買い手がないので、買い手の斡旋を天心に依頼したところ、天心は即座に、「諸君は売れるような作品を作るから、売れない。売れないものを作れば、必ず売れる」と言った。その時、言下に田中翁は、「売れないものを作るのは造作もない。自分の好きなものを作ればいいのだ」と感じたという。後年、この時の天心の言葉を思い起して、田中翁は、「省みて、先生に背くことの多いのを恥じます。まことに恐ろしいお言葉であると、しみじみ感じます」と述懐されている。

これまで、高村光雲のもとで西洋的写実彫刻を身につけようと努めてきた田中翁は、天心の一言によって写生彫りの限界を知り、その奥にある真の世界を追求した。その結果、翁は近代日本の木彫界における最高峰を極めるに至ったという。

恩師天心歿して二十七年を経た昭和五年に、

田中翁は第一作の「五浦釣人」と題した天心像を作製したが、昭和三十七年十一月、田中翁(九十一歳)は、文化勲章を授与され、同年十二月には再び「五浦釣人」を完成して、その完成記念展を東京・日本橋三越で開催している。その時、田中翁自筆の喝句が台座に添えてあった。

奇骨侠骨 先師天心

左手擁網 右手捧竿

釣得甚(ナン)■(ゾ) 鯨兮鯤(コン)兮(鯤は想像上の大魚)

春草両観 紫紅靭彦

 こんな気持ちで作りました。

壬寅十二月

             倬太郎

―奇骨侠骨で広く世に知られた天心先生、左手に網、右手に竿を持ち、そして釣りあげたものは、果して何であったろう。鯨か想像上の大魚鯤だったのか。然らず、それは菱田春草や横山大観、下村観山、今村紫紅、安田靭彦などの日本美術院における天心門下の大巨匠たちであった。(大意)―

と、翁は恩師天心の偉業を絶賛している。

また、文化勲章の受章、「五浦釣人」の天心像の完成の背景には、田中翁の恩師天心に対する敬慕と感謝の念が、深く秘められていた。田中翁は度々、五浦の天心のお墓に参っている。丁度、天心像完成と文化勲章受章の昭和三十七年の「五浦美術文化研究所」来賓者名簿に、田中翁は「平櫛田中、弘子(孫)  先生孫をつれておはかにお花上げに参りました、ことしは五浦釣人の大作をお目にかけます」(十一月十四日)と記され、同年十二月七日の名簿に、お孫さんと来られて「先生ことしはどうした風のふきまわしか、文化勲章を貰いました、それもこれも先生のおかげでございます。今日は孫を連れて伺いました、倬太郎拝記」と記帳された。そして、墓前では跪き手を地について参拝された。また、同年十一月五日の「天心記念館」開館と、「五浦釣人」の天心像除幕式に参列した田中翁は、天心の墓所で遂に泣き出されたという。この上もなく尊い、うるわしい師弟の姿が窺われる。(伊豆山善太郎氏「五浦随想」)

先の田中翁の「五浦釣人」を評して、栗田勇氏は「平櫛田中論」の中に、こう述べた。

田中の釣人の像は、その身丈(みたけ)がどこまでもそびえ、動かざること冨山のごとくでありながら、苦渋に耐え内に暗い熱情のこもった深い人間表現に成功した希有の傑作であって、私たちは、そこに天心と田中たる人と、そして、明治いらいの日本の芸術家の心の苦悶と理想をみる想いをすてることはできない。(『平櫛田中の全貌展』所収。)

明治の浪漫的心情の漂う味合い深い言葉である。

(註)「五浦釣人」

(木彫、昭和三十七年作、236.0×76.0×55.0茨城大学五浦美術文化研究所蔵)

参考資料

○『茨城大学五浦美術文化研究所報』第八号。

○『平櫛田中の全貌展』井原市立田中美術館刊。

○『天心記念館開館記念』茨大五浦美術文化研究所刊。

『小泉八雲来日一二〇年記念』
風呂鞏

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)はハーパー社との契約で、明治二十三(一八九〇)年三月八日、挿絵画家のC・D・ウェルドンと共に日本を目指してニューヨークを出発した。モントリオールからカナダ太平洋横断鉄道「横浜号」でヴァンクーヴァーに着いたハーンは、翌十八日ヴァンクーヴァーの港から日本に向かってアビシニア号に乗船。およそ二週間の船旅を経て、四月四日横浜港に到着したのである。(注一)

一八九〇年に四〇才で我が国の土を踏んだハーンは、帝国大学教授B・H・チェンバレンやニューオーリンズ万博で知り合った服部一三(ハーン来日時は文部省の普通学務局長)らの尽力により英語教師の職を斡旋してもらい、その年八月末に松江へやって来た。

ハーンは島根県尋常中学校および師範学校で生まれて初めて教壇に立った。松江滞在は一年三ヶ月と短かったが、その後神戸での一時期を除いて、熊本の第五高等中学校、東京帝国大学、早稲田大学で教鞭を執り、多くの人材を育てた。これは周知のことである。

早稲田大学で教えることとなったハーンは、わずか半年教壇に立っただけで、狭心症の為五四歳で他界した。日本での生活は十四年間、日清・日露戦争の間を生きた人生であった、と言い換えてよいかもしれない。

ハーン没後、松江では早くも大正四(一九一五)年に「第一次八雲会」が創立され、顕彰活動が始まった。十七回忌、二〇回忌、二十五回忌と法要が続き、三十回忌には市河三喜博士夫妻のご尽力で、小泉八雲記念館(山口蚊象設計)が竣工、開館した。

「第二次八雲会」の発足した前の年、一九六四年には、松江の万寿寺で六〇回忌の法要が執り行われた。この年はまた日本にとっては、東京オリンピックが開催され、東海道新幹線が営業開始した、記念すべき年でもあった。

ところで、ハーンを追慕する行事はそれまでほぼ松江に限られており、一部の学者・研究者、愛好家を除いて、ハーンの名を知る人は少なかった。しかし昭和三九(一九六四)年を境にハーンの名は一躍全国的に知られることとなる。

その魁は、小林正樹監督の映画「怪談」(東宝・文芸にんじんくらぶ、一九六四)である。『怪談』から「黒髪」(原作は「和解」)「雪女」「耳無芳一の話」「茶碗の中」の四篇を選んで映画化したものである。怪談作者ハーンの名は商標登録するほどに広まった。

一九七三年、第二六回日本英文学会中四国支部大会が島根大学を会場に開催された。この学会が過去の研究大会と異なる一大特色は、「小泉八雲再評価への試み」と題して、第二日目の研究発表が全てハーン関係という、画期的な大会となったことである。

一九八四年には、シナリオライター山田太一氏の「日本の面影」がNHKテレビドラマとして放映(八〇分x四本)された。一八八四年のニューオーリンズ万博から百年後に制作されたことも象徴的だ。かくして所謂「ハーン現象」が底辺を拡大していったのである。

一九九〇年には、「八雲の郷」松江に国内外のハーン研究者・愛好家が集い、"ハーン来日百年祭"が開催された。この祭りに先立って、銭本健二八雲会々長は六月二七日(ハーンの誕生日)の中国新聞紙上で、「遊ぼう八雲の世界」と題して読者を松江に誘(いざな)った。

銭本氏は、近年ハーンの作品が広く読まれ、様々な問題を投げかけていることを「ハーン現象」と呼び、ハーンが我々を引き付けて止まないのは、ハーンの"穏やかなまなざし"に起因することを指摘した。 同時にハーンが帝国大学の教壇で十八世末に書かれた英詩を講じながら、産業化によって荒廃する農村の姿を学生の前に描いて見せた、鋭い文明批評家であったことの指摘も忘れなかった。

当時の松江市長石倉孝昭氏も、この稀有な親日家に我々日本人が多大な恩恵を受けており、この期に際し、国際色あるフェスティバルを計画した、と誇らかに述べた。

小泉八雲記念館では「へるんを偲ぶ遺愛の品々」、松江郷土館では特別展、市立図書館では直筆原稿・書簡・八雲の蔵書を中心に資料約一〇〇点の公開展示をした。また県立博物館ではハーンの遺児小泉清の作品・資料・遺品など五〇点の展示があった。
八月三十日から九月三日まで(記念特別展は十六日まで)五日間に亘る小泉八雲来日百年記念フェスティバルは、日本比較文学会の賛同と協力を得て、大成功であった。
このフェスティバルを機に、国内外のハーン縁りの地で、次々とイベントが開催された。日本国内は勿論、生誕地ギリシャ、幼少期を過ごしたアイルランド、新聞記者として活躍したアメリカ、マルティニーク島でも、ハーンという存在が身近なものになった。

今年二〇一〇年は、ハーン来日一二〇年、生誕一六〇年に当たる。この二〇年間、ハーンの記憶を継承しようとの勢いは物凄く、全国一〇地域に約三〇のハーン研究グループが誕生した。松江ではそうしたグループの代表者に一堂に会してもらう、全国サミット「ハーンの神在り月」を十月九・十日の両日開催した。ハーンを生かす四つの場「学校教育」「研究」「文化活動」「観光」のテーマの下に、お互いの情報交換と連携を模索した。

また十日には、ハーンの精神を表現する造形美術展「オープン・マインド(開かれた精神)・オブ・ラフカディオ・ハーン」が、松江城本丸など二会場で開幕した。宍道湖畔には記念碑「オープン・マインド・オブ・ラフカディオ・ハーン」が設置され、関係者による除幕式があった。夕日を愛したハーンに因んで、福山市出身で米国在住の芸術家野田正明氏が制作、松江市に寄贈したものである。
この他、全国各地で「小泉八雲来日一二〇年」を記念するイベントは続いている。ハーンの曾孫小泉凡氏が「ハーンの今日性」として「防災」「共生」「教育」「五感力」「文化資源」
を挙げているが、こうした面でのハーンの再評価と同時に、ハーンの精神・功績を次世代へ引き継ぐことも重要課題である。ハーンとの旅はまだまだ終わらないのである。

(注一)ハーンはこの道中のことを『ハーパーズ・マガジン』(一八九〇・十一月号)に掲載された「日本への冬の旅」で描写している。

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