住吉神社

月刊 「すみよし」

『チェンバレンの「英訳古事記」について』
照沼好文

わが国最古の古典『古事記』の完成した年、―和銅五(七一二)年から算えて、今年は丁度千三百年に当る。この『古事記』編さん千三百年を記念した行事の開催が、日本各地で企画されている。日本文化の源流が再認識される有難い年である。

『古事記』は和銅四(七一一)年に、元明天皇の勅命を受けて、稗田阿礼(ひえだのあれ)の暗唱していたわが建国の由来、古伝説、人代の出来事や物語などを、太安万侶(おおのやすまろ)が上・中・下の三巻に編さんして和銅五(七一二)年に、朝廷に献上した古典である。最近の新聞報道に拠れば、平成十四(二〇〇二)年刊行の三浦佑之(みうらすけゆき)氏の『口語訳古事記 完全版』は版を重ねて、十二万五千部に達し、『古事記』ブームの兆しが覗えるという。(『読売新聞』、平・二四・一・三号)

ところで、江戸中期の国学者本居宣長(一七三〇―一八〇一)が、三十余年を費やして完成した『古事記伝』は、近世における古事記研究の最頂点に位置する。他方、英国人B・H・チェンバレン(一八五〇―一九三五)の『英訳古事記』は、海外人による古事記全巻の英訳刊行というので、大きな反響を呼んだ。(本書は、明治十六年『アジア協会紀要』一〇巻付録として公開された。)

とくに、『英訳古事記』の「総論」―Translator’s Introduction―は明治二十一(一八八八)年四月二十五日、『日本上古評論』(全一三一頁)として、飯田永夫によって邦訳刊行されている。この『邦訳本』には、当代一流の国学・歴史学界の碩学六名―田中頼庸、小中村清矩、栗田寛、木村正辞、黒川眞頼、飯田武郷らの、チェ教授の論文に対する寸評を、頭註に掲げている。

さて、『日本上古評論』を見れば、チェンバレンの日本史に対する見解として、つぎの三点が覗える。

一、古代日本には出雲、大和、九州の三王朝があった。

二、日本とアジア大陸との交流は、西暦二百年ごろからはじまる。

三、とくに、西暦四百年以前(履仲天皇の御代以前)の日本の歴史には、信憑性がない。

このように、チェンバレンは日本上代史に対する見解を、端的に述べた。そして、上代の風俗、習慣などについて、随所に否定的な見解が覗える。それに関して、二、三例を挙げてみよう。

例えば、チェンバレンは、@「(上代日本皇帝の宮殿は)其建築も宏大美観なるものと思考すべかず」と述べ、またA「天照大御神、石窟隠(天の岩屋)の伝説をきかば、人或は日本人の祖先は上代、斯の如き岩窟に住居せしと想ふべし」などの見解を述べた。しかし、チェ教授のこの見解に対して、栗田寛博士は飯田永夫氏の『邦訳本』頭註で、つぎの異見を述べた。

1.寛云、古へに所謂八尋殿(やひろでん)あり、斎服殿(さいふくでん)あり、殿甍(でんぼう)も見え、出雲大神の為に建る天日隅宮の高大なる柱は高く太く、板は広く厚くと云ひ、後世迄其制を違へず、数十丈の高きに及べり、…神武帝の橿原宮を宮柱太しりたて、榑風(ふふう)高知りと云ふ。豈矮陋(わいろう)の屋ならんや、…此書中、往々皇帝の事も賎民の事も混して、一つに云へる見ゆ、校正すべき事なり

2.寛云、畏くも我天祖天照大神のます高御座(たかみくら)をも、野蛮な穴居ならんと想像せる、殊にをかし、彼時は平常のまし処にあらざるなり、故に古語拾遺に大峡小峡の木をきりて、瑞殿(みづのみあらか)を造りたる事も見ゆるなり、殿門を守衛せしめたる事もあり、然るを此書に岩窟に住居せしと想ふべし、さる事ありしにもあれなど、其詞を迂遠にしたるは、蝦夷と同一の春をなしたること著し、にくむべき口つきなり

このように、栗田博士はチェ教授の見解を激しく批判した。

結局、チェ教授の見解と軌と一にして、明治二十年代のわが国史学界では、重野安繹博士の「世上流布の史伝、多く事実を誤るの説」、久米邦武博士の「神道は祭天の古俗」などの論文が、横行した時代であった。その後に与えた影響も、大きいと言わざるを得ない。。

 

『人柱を禁じた清盛の経石』
風呂鞏

筆者は六年前の『すみよし』で、「小学校の英語必修化」について書いた。当時は「小学校の英語必修化は日本を滅ぼす!」と声を荒げ、早期英語教育の危険を指摘した識者もいた。文部科学省の英断にわが子の未来を託し、拍手した親たちもいた。果していま、小学校の英語教育は当初の想定通り機能しているのであろうか。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が、国の発展にとっては、ビジネスより自国の文化を大切にする教育の方が遥かに重要であると述べていることも付記しておいた。

ハーン自身は長男の一雄を小学校に行かせず家庭で教育した。今で謂う教育パパであり、将来は長男をアメリカへ連れて行きたいと考えていた。 彼の家庭教育は、一見我が国の早期英語教育にとって無縁と映るかも知れぬが、参考にすべき部分もある。自国の伝統文化を大切にすることは、他国の文化を尊重することにも繋がるからである。

ハーンは先ず英語の音の感覚を身につけさせようとしていた。そのため、マザー・グース(イギリスの伝承童謡集)を一緒に読むことから始めたのである。

筆者の如き昭和の初期に誕生した者にとっては、幼い頃アップルパイやミートパイを食した経験はない。“パイ”より“あんぱん”の方が遥かに身近で、“パイ”と聞いても、オーブンで焼き、中に果物や肉が包み込んである菓子のイメージは湧いてこない。ましてや、その“パイ”が、英語国の子ども達にとっては、先ず「二十四羽の黒ツグミ」や、「ジャック・ホーナー君」の姿を連想させるとは想像しにくい。マザー・グースに馴染んだ者でないと、彼らの潜在意識にまでは到底入り込めないのである。ここに異文化という環境で育った者の外国語学習の難しさが存在する。

平野敬一氏がその著書『マザー・グースの唄』(中公新書)で述べているが、「どんぶらこっこ、どんぶらこ」という擬声語を耳にすると、私達は大概「桃太郎」の話で、桃の実が川上から流れてくる場面を連想する。ところが日本語を学習している外国人が「桃太郎」の話を知らないまま、かりに詳しい国語辞典や引用句辞典でこの表現を調べようとしても徒労に終わるのが普通であろう。コミュニケーションの壁は斯くも大きく高いのである。

小学校の英語教育にマザー・グースも取り入れてはどうか、というのが筆者の提案だが、話はそう簡単に終わりそうにない。マザー・グースの中でも飛び抜けて人口に膾炙している有名な「ロンドン・ブリッジ」の唄がある。ご承知の如く、一番は「ロンドン橋が落ちる、落ちる、落ちる。ロンドン橋が落ちる。マイ・フェア・レディー。」となっている。かなり長い唄で、十二歌節が採録されている童謡辞典もあるほどだ。

何故頑丈に造られた大橋梁が崩壊するのか。フェア・レディー(fair lady)とは誰を指すのか。この橋とどうゆう関係にあるのか。まことに不思議な唄である。この神秘的な橋と子どもの遊びに関しては専門家の解説を待たねばなるまい。ところが、この唄の底にはどうやら橋梁建設に“人柱”を必要とした遠い昔の暗い記憶があるらしいのである。

架橋や築城の難工事に人柱の助けを借りた例は、古来人類普遍の経験であろう。かの著名なフレーザー著『金枝篇』にも数多くの例が紹介されている。

近い所では、松江城築城に関して、松江の一少女が、なにがしの神への人身御供となり、城壁の下に生き埋めにされたといわれる伝説がある。また、松江市白潟本町大橋南詰のたもとには「源助供養碑」が建っている。慶長十二年(一六〇七)、堀尾吉晴が富田から松江へ移城するとき、松江大橋の架橋工事が難航して完成しないため、人柱として足軽源助を川底深く生き埋めにしたと伝えられる哀話に基づくものである。ハーンの『日本瞥見記』(上)第七章「神々の国の首都」には、次のような記述がある。

そこで、水神の怒りを鎮めるために、人柱を立てることになった。そして、一人の男が、橋の真ん中の水あたりの一番激しい橋杭の下の川底に、生きたまま埋められたのである。ところで、このことがあってから後は、橋は、三百年の間、そのままびくともしなかったのである。(平井呈一訳)

人柱伝説に関連して、放映中のNHK大河ドラマ「平清盛」にまで話を拡げてみたい。

音戸大橋を警固屋側から倉橋島へ渡り、特徴的なループ道の終点を右折する。海上にポツンと浮かぶ「清盛塚」(注一)が現れる。ここには清盛にまつわる心温まる話が残っている。清盛が活躍した時代には、難工事の際には人柱を立てる慣わしがあった。しかし音戸の瀬戸開削にあたっては、人命を尊重する清盛はこれを禁じ、仏教の一切経を小石に一文字ずつ書かせた。すなわち、その経石を人柱に代えて海底一ヵ所に埋めて、工事の無事を祈願したというのである。土地の人々はこれを「清盛の一字一石の経石」と呼び、一一八四年に供養碑「清盛塚」を建立したのである。清盛の情け深い人柄がよく表れているエピソードではあるまいか。

更によく似た話が、『平家物語』にも読める。それによれば、福原に人工の島を造る際、清盛は人柱の代わりに経文を記した石を沈め、経ヶ島と名付けたとある。 清盛は治承五年(一一八一)高熱によって倒れ、六十四歳でこの世を去るが、遺骨が埋葬されたのが経ヶ島(規模や位置は今も不明)であった。清盛は温かい人間であったようだ。

(注一)昭和二六年(一九五一)に県の文化財に指定される。周囲四九メートルの石垣に囲まれた境内の老松の葉を噛むと歯痛が治るなどの民話が残っている。

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