住吉神社

月刊 「すみよし」

『御即位二十年を奉祝して』
 照沼 好文

去る十一月十二日には、天皇陛下御即位二十年を奉祝して、全国各地で盛大な記念式典が催された。とくに、政府主催の記念式典では、天皇、皇后両陛下をお迎えして、東京都千代田区の国立劇場において、鳩山首相をはじめ各界の方々約千名が出席、奉祝行事が行われた。陛下は「即位以来の日々を顧み、私どもを支え続けてくれた国民に心から謝意を表します。」とお言葉を述べられた。また、皇居前広場では「国民祭典」が開かれ、午後六時半過ぎに天皇、皇后両陛下が二重橋にお立ちになり、約三万人の人びとのお祝にこたえられた。このご様子はTVの実況放映や翌日の新聞各紙でも報じられていた。

ところで、現代における主要な日本の文化、伝統を考えてみると、それらには連綿と二千余年もの永い間、古式のまま正しく守られてきた宮中祭祀、或いは皇室を中心にした諸行事に渕源するものが多いことに気づく。和歌や雅楽の伝承・保存はいうまでもなく、蹴鞠(けまり)・鵜飼(うがい)などに至るまで、皇室によって保護、伝承されてきた。私たちは今日、それらが実際に演じられているのを、マス・メディアをとおして拝見することもできる。とりわけ、宮中行事として恒例の新年歌会始は、TVやラジオで実況され、新聞等でも詳しく報道されているので、私たちの関心は一層深い。つまり、これは御皇室が連綿と古来の伝統を担い、今日に伝承されている恩恵に他ならぬ。

宮中の新年歌会始は、第六十二代村上天皇の天暦五(九五一)年に、和歌所が宮中に設けられた折「歌会式」が定められ、その作法や式次第が整えられたという。また、この宮中における「歌会式」は、近世には大名家、或いは神社・寺院においても行われているが、近代に至っては明治維新直後、明治二(一八六九)年一月二十四日に、京都御所において華族などに詠進が許され、「御代始の和歌御会始」が催されたが、「歌御会始」に国民一般の和歌詠進が許され、叡覧に供するようになったのは、明治七(一八七四)年からであった。さらに、明治十二(一八七九)年の「歌御会始」より、一般国民の詠進の中から優れた和歌が選ばれ、陛下の御前で披講されるに至った。それと同時に、同十五年から預選歌と作者を新聞紙上に発表している。従来、御前における詠進歌披講は、「皇族及び大臣・参議・宮内官並びに所役等、少数の人」に限られていたので、預選歌の披講と新聞紙上での公表は、皇室と国民との親密さを、一段と深めている。

ともあれ、さきの大戦の終結とともに、国内の世相は大きく変わったにもかかわらず、歌会始の古儀は、宮中の新年行事として、皇室と一般国民との親和を深めるために、大きな役割を演じている。当時宮内庁侍従長であった入江相政氏は、『宮中新年歌会始』(註1)という書物の「あとがき」に、

歌会始という、宮中年頭の儀式、それは全く宮中の行事なのに、これほど国民との結びつきのこまやかなものもない。…明治初年以来の、あるいはもっと古くさかのぼれるこの古儀はまた、終戦を契機として、全く蘇った。

と述べている。そして、入江氏が、

「古き革袋に新しき酒を盛る」中国のこのたとえが、そっくりそのままこの行事の真の姿を描いているように思う。

と述べた言葉は、まさに至言である。

とくに、歌会始では御製や預選歌が、披講という方法で発表される。嘗て、マリー・フィロメース教授は歌会始について、「新年歌会始における美は、披講式そのものの雰囲気にある。即ち、披講式にはそのなかに漲る詩的荘厳さが一斉に醸し出され、そしてあたり一面にその美が漂っている。云々」(註2)と述べたが、この古儀には日本美の極致を覚える。

とまれ、敷島の道を伝える歌会始は、日本古来の息吹きをそのまま現代に伝えている。とくに、明治以来の西欧文明の怒涛にも、戦後の外圧にも耐えて、世界に誇るべき文化的行事として行われている。とりもなおさず、その古儀が皇室によって正しく保護され、かつ伝承されていることに、私たちは改めて感謝し、このことを後代まで誇りとして伝えてゆかねばならない。

(註1)入江相政・木俣修・坊城俊民の各氏の共著『宮中新年歌会始』(実業之日本社、昭五四・九・一〇刊)
 (註2)Marie Philomene,”The New Year’s Poetry Party of the Imperial Court”(北星堂書店、一九八三年刊。)
      なお、「歌会始」の名称は大正十五年以降であり、それまで「歌御会始」(うたごかいはじめ)或いは「御歌会始」(おうたかいはじめ)といわれた。

 

『小泉八雲と温泉津』
風呂鞏

世界遺産石見銀山の銀積出し港「沖泊」および重要伝統的建造物群保存地区を抱える、山陰の温泉街・温泉津(ゆのつ)は、伝統的な湯治文化を今も残す歴史の町である。古くは尼子氏や毛利氏の水軍基地であり、江戸時代には北前船の風待ち港としても栄えた。山田洋次監督『男はつらいよ』シリーズ第十三作目「寅次郎恋やつれ」(注一)の舞台ともなった。

十月十七日付け中国新聞を拡げると、次の記事が載っている。

世界遺産、石見銀山遺跡の一角を占める太田市温泉津では、重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)の町並み(33・7ヘクタール)に隣接する港(海面を含む)2・9ヘクタールを追加選定するよう答申した。町並みは世界遺産のコアゾーン(登録範囲)で、歴史・景観的に町並みと一体の港も、今回の重伝建選定で世界遺産登録の前提が整った。

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、熊本へ赴任した翌年の一八九二(明治二五)年夏、かねてより望んでいた隠岐へセツ夫人と出掛けた。その際携帯していたと見られる旅行手帳が、小泉八雲記念館所蔵の資料の中に残っている。この旅行ノートを精査した梶谷泰之氏の著書『へるん先生生活記』(今井書店)に次の記述がある。

石見でハーンの訪れたところは温泉津町だけである。これは作品の中にはないが旅行のメモノートの中に二、三行の記述がある。隠岐旅行のために下関から境に行く時、汽船金龍丸が温泉津港に寄港した際、上陸したらしく、日付は明治二十五年八月八、九日頃と推定できる。

ハーンは温泉津を訪問していたのである。メモノートの中の、温泉津上陸の際の記述を和訳したものが、偶々石村禎久著『温泉津物語』(注二)に載っていることが判った。温泉津では旅館で休憩しようとしたが、清掃中とのことで断られ、西本願寺派の寺院で休んだ。その寺院とは浄土真宗の西楽寺(注三)であるらしい。

温泉津は、美しい緑の茂る丸い山が起伏する入海をもち、狭い曲がりくねった道でつくられた美保関に似た町である。温泉のある旅館が清掃中で、西本願寺派のきれいな寺院で休ませられる。本堂の畳には、煙草の焼けあとの穴が幾つもある。須弥壇やガラスの灯明台、天井からぶら下げた、ふたまたの灯明、真鍮でつくった花環、牡丹や菊、蓮などが沢山並ぶ。境内には裸体の子どもの日焼けした手足、岩山をほった洞穴の岩棚には仏像が安置され、青い色の岩山の坂道が杉木立の林に通じる・・・

旅館は断られたが、西楽寺ではゆっくり休息できたことと推察する。印象もよかったのではあるまいか。ハーンも述べるごとく、規模の大きな堂々としたきれいな寺院で、現在も格調高く威厳を保っている。本堂の畳に、煙草の焼けあとが残っていたにせよ、極彩色豊かな花鳥風月が彫刻された見事な欄間には目を見張ったに違いない。

ハーンは来日後松江、熊本での生活を経験した後、港町神戸で外国人に戻った生活をしてみたが、それが極めて不愉快であると再認識した。一八九五(明治二八)年一月、神戸からチェンバレン宛に次のような手紙を出し、温泉津に言及している。

しかし温泉津や日御崎、あるいは隠岐の、かろうじて日本式慰安のための手段しか存在しない生活のほうが、あらゆる点で最高の開港場が提供し得る生活よりも、善良にして清潔、かつ高尚なものでした。

温泉津温泉といえば、一千年余り前に、タヌキが傷を温泉に浸しているのを旅の僧が見たのが、温泉の始まりと伝えられている。そのタヌキ伝説に因んで、元湯「泉薬湯」の正面の軒には、タヌキとハスの花(蓮の花は旅の僧を連想させる)が組み合わされた彫刻が飾られている。

幕末の儒学者頼山陽の叔父頼杏坪は脚気で足の調子が悪く、医師の奨めで、文政三年(一八二〇)の四月、温泉津温泉を訪ね十日間滞在している。見聞記『志ほ湯あ美乃記』にも載る、入湯した時の歌“身は親の枝としきけばからさじと かかるいづみをといもこそ来れ”は、タオルを初め、湯煙の立つ浴室の壁面にも大きく書かれている。

温泉津は、温泉以外にも、車で二〇分の世界遺産石見銀山、アメ色の陶器「はんど」で有名な温泉津焼、妙好人・浅原才市の寺として知られる安楽寺(境内入り口に才市の詩碑がある)、日本海での釣りや海水浴など、楽しめるものは実に豊富である。

心地よい海からの風を感じながら、温泉宿から街を行くと、昔の懐かしさが其処此処に漂っているのが温泉津だ。昔の賑わいを今に残す軒先の看板や漆喰の土蔵、凝った造りの屋敷のノスタルジックな風情、下駄の感触が実によく似合う街である。八雲がこの地でゆっくりと薬湯に浸かり、街を散策する時間があったなら、「なんぼう、よきところ」と喜び、必ずや作品の中に残して呉れたに違いないのだが・・・。     

(注一)昭和四九年八月制作。マドンナの吉永小百合・歌子は二年ぶりの出演である。ゲストとして、高田敏江、宮口精二が共演している。松竹公式サイトを参照。
(注二)温泉津町観光協会発行。著者の石村禎久[勝郎]氏は郷土史家、元毎日新聞太田支局の記者である。初版は昭和五六年。昭和六十一年七月改定再版と平成七年五月一日再版(頒価 一、〇〇〇円)がある。
(注三)本堂は江戸時代初期の建立で、同後期に再建。寺にハーン訪問の記録はない。

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