住吉神社

月刊 「すみよし」

『初詣で健康と家内安全を祈願する
日本の習慣を考える』
広島大学大学院医歯薬学総合研究科
臨床薬物治療学
教授
 森川則文

WHO(世界保健機関)の定義する健康とは、「肉体的な健康」、「精神的な健康」、「社会的な健康」の三方面の健康に加えて、「スピリチュアル・ケア:直訳すると霊的な健康」が維持される状態とされている。肉体的な苦痛は、医師や薬剤師により解放することが可能であり、医療技術の進歩と優れた痛み止めの開発により、適切な医薬品を適切な量で適切な間隔で投与することで肉体的な苦痛から解放することができる。また、精神的な苦痛は、看護師や臨床心理士が適切な機会に患者に寄り添うことで、悩める患者を癒すことができる。また、社会的な苦痛は、医療社会福祉士(メディカル・ソーシャル・ワーカー)が相談にのり、的確なアドバイスをすることで、その負担が軽くなることもある。しかし、日本の医療業界では、スピリチュアル・ペインに対応する人たちが少ないことが問題視されている。その結果、スピリチュアル・ペインに医療関係者が対応しなければならない現実も、医療関係者にとって非常に荷の重い事象である。

では、「スピリチュアル・ペイン」とはなにか。それは、答えのない痛みと定義される。例えば、死という現実を直前に迎えた患者が感じる苦悩、すなわち「私は誰か?」「なぜ、私は、今、死ななければならないのか?」「私は、ここで何をしているのか?」「人生の意味とはなにか?」「人生とは、なぜ、そんなに不公平なのか?」「私は、なぜ生き続けなければならないのか?」「私の居場所は、この世界のどこにあるのか?」「なぜ、神はこれを許すのか?」「苦痛には何か意味があるのか?」「なぜ私は、苦悩しなければならないのか?」「今、私の命にどんな意味があるのか?」「私の人生で重要だったのは何か?」「死後の世界はあるのか?」「愛する人に再び逢えるのだろうか?」「私は間違っていたのか?」という問いかけである。これは、何も死を迎えた患者だけでなく、多くの人が何かの障害に突き当たったときに必ず感じる苦悩でもある。そして、この答えのないこの質問に苦しみ、痛みを感じる。このような苦悩を感じた際に人は、時に神にすがり、神社に参り神頼みをする。

何故、人は、神にすがり、神に祈るのだろうか。我が国には「言挙げ(ことあげ)」という言葉がある。「言挙げ」とは「言葉に出して言い立てること」と説明されていて、「言葉に呪力があると信じられた上代以前には、むやみな「言挙げ」は慎まれた」と説明されている。しかし、万葉集に柿本人麻呂が「葦原の瑞穂の国は神ながら言挙げせぬ国 然れども言挙げぞ 我がする言辛く(ことさきく) ま辛く(まさきく)ませと つつみなく 辛く(さきく) いまさば荒磯波(ありそなみ)ありても見むと 百重波(ももえなみ)千重波(ちへなみ)にしき 言挙げす我は 言挙げす我は」と読んだ歌がある。「言挙げ」をしないことが「神ながら」の道でありながら、人麻呂は、あえて「言挙げす我は」と繰り返す。むやみな「言挙げ」が慎まれた故に、ここぞという時にこそ「言挙げ」し、「人ながら」の道を突き詰めることで、逆説的に「神ながら」の道に至るとも言いたげな歌である。すなわち、神社に詣で、言葉に出し何かを訴えることで、自分を見出し、救いを得ることが習慣となった日本人の神頼みのルーツともいえる。「初詣」や「百度参り」に代表されるこの神頼みの日本の風習も、この答えのない痛みや不安に対する癒しの風習のひとつかもしれない。すなわち、肉体的、精神的、社会的健康に加え「スピリチュアル・ペイン」=答えのない痛みや不安が癒されることを求め、真の健康を求め、人は真の癒しを求めて集うのかもしれない。

そろそろ新しき年を迎える時期がやってきた。知ってや、知らずに、正月に家族総出で初詣を行う人々は、もしかすると、この一時の癒しを求めて参拝しているのではないかと思うと慮深いものがある。現代の結果至上主義の科学万能の社会においてさえも、医療に携わる者、科学や医学を信じて医療を行う者にとって、今こそ「スピリチュアル・ケア」を念頭に置いた医療を行いたいものであり、日本人としての誇りを持つ際の戒めとしたい。

「すみよし」今年の和歌

一月―大伴家持・『万葉集』

正月(むつき)立つ 春の初めに かくしつつ 相(あい)し笑(ゑ)みてば 時じけめやも

二月―今上陛下御製・お題「葉」平成二十三年歌会始の儀

五十年(いそとせ)の 祝ひの年に 共に蒔きし 白樺の葉に 暑き日の射す

三月―『万葉集』

冬過ぎて 春の来(きた)れば 年月(としつき)は 新(あら)たなれども 人は旧(ふ)りゆく

四月―今上陛下・中越地震被災地・平成十六年

地震(なゐ)により 谷間の棚田 荒れにしを 痛みつつ見る 山古志の里

五月―明治天皇御製

いかならむ ことにあひても たゆまぬはわがしきしまの 大和魂

六月―皇后陛下御歌 平成八年歌会始・お題「苗」

日本列島 田ごとの早苗 そよぐらむ 今日わが君も 御田(みた)にいでます

七月―昭和天皇御製

みちのくの むかしの力 しのびつつ まばゆきまでの 金色堂(こんじきどう)に佇(た)つ

八月―昭和天皇御製 昭和二十二年広島

ああ広島 平和の鐘も 鳴りはじめ たちなほる見えて うれしかりけり

九月―山上憶良・『万葉集』

秋の野に 咲きたる花を 指折(およびお)り かき數ふれば 七種(ななくさ)の花

十月―後醍醐天皇御製

照し見よ みもすそ川に すむ月も 濁らぬ浪の 底のこゝろを

十一月―明治天皇御製

いつはりの 世をまだ知らぬ 幼な子が こころや清き かぎりなるらむ

『遠来の貴賓を迎う』
照沼好文

先般、ブータンのジグメ・ケサル・ナゲル・ワンチュク国王ご夫妻が、国賓として来日された。ブータン国は、南北をインドと中国に挟まれ、九州とほぼ同じ面積に、約七十万人の国民が住んでいるという。国内では経済成長が続き、欧米文化に憧れる若者も増えてきているが、「互恵互助の伝統や、高いボランティア意識が若い人たちにも受け継がれている」と聞いている。(『読売新聞』平・二三・一一・一九(土))

国賓として来日中のブータン国王、王妃を歓迎する天皇、皇后両陛下主催の宮中晩餐会が先月十六日、皇居・宮殿で開かれ、十八日には、国王ご夫妻は福島県相馬市をご訪問、津波の被災地で鎮魂の祈りを捧げられた。とくに、津波で百六十名が亡くなった原釜、尾浜地区の海浜で、相馬市長から被災状況の説明を受けた。国王は「日本とブータンはこれまでも協力してやってきた。これからも日本と相馬の復興に協力していきたい」と述べ、津波で流された家を前に、手を合わせられた。また、国王ご夫妻は同市立桜丘小学校を訪れ、児童たちの歓迎を受けた。児童の代表のものが「お二人に会えたことが励みや希望になった」と挨拶し、国王ご夫妻は児童たちに「私には強い絆ができた。次に日本に来るときもここに来ます」と約束されたという。(同上)

こうした報道を窺っただけでも、ブータン国王の真摯な、そして円満なお人柄が想像されると共に、ブータンが仏教王国として「幸福立国」を国是に繁栄し、国民の充足した生活が浮彫りにされる。

ブータンには、国民がどの程度幸福であるか、を示す「国民総幸福」(GNH)という指標があると聞いている。世界で広く使われているGDP(国内総生産)や、GNP(国民総生産)は生活の質を、経済的な豊かさで測っているのに対し、GNHは家族と一緒に過ごす時間など、精神的な幸福感が指標となっているという。こうしたことを基にして、政府は何をなすべきかを知り、政策に反映させる。このため、九項目の指標を設け、これを国民に尋ねている。例えば、「心理的幸福」の項目では、日常的にストレスを感じるか、「環境多様性」では川や土壌が汚染されていないか、「コミュニティの活性」では家族はお互いに助け合っているか、「時間利用」では睡眠や働く時間はどのくらいか、「教育」には民話の知識と理解力を測る指標等々が盛り込まれていると聞く。(同上)これらのGNPは、この度来日中の国王の尊父ワンチュク四世が一九七六年に提唱し、二〇〇八年に制定した憲法にも採り入れているといわれる。

ところで、十六日の国王ご夫妻を歓迎する天皇・皇后両陛下主催の宮中晩餐会には、天皇陛下が病院ご入院中のため、皇太子が陛下のお言葉を代読された。天皇陛下は十月の国王ご夫妻のご結婚を祝福され、前国王が提唱した経済的な豊かさにとらわれない幸せを目指す「国民総幸福量」という考え方について、陛下は「わが国においても、学ぶところは大きいと受けとめられています」と仰せられた。また、国王は両国の絆を強調され、結婚間もなくの訪日を「特別な名譽及び幸福」とし、これからも両陛下から常に啓示とお導きをいただきたい」と仰せられたと報ぜられている。(『読売新聞』平・二三・一一・一七)

しかし、その翌日の新聞には、現内閣の一閣僚がこの大事な歓迎晩餐会を欠席し、政治資金パーティーに出席していたことを報じていた。そして、当人は「こちらのほうが大事だと思って参りました」と。まさに、国民の「精神的幸福」を尊重すべき、政治家の言動とは思われない。願わくば、わが歴史に現われた先人たちの言行に学び、国家国民のための安寧(あんねい)に貢献いただきたいと思う。

『樋口一葉の日記』
風呂 鞏

去る十一月六日のニュースである。長崎県・五島列島にある鳥島の北北西約四キロの領海内で、長崎海上保安部の巡視船が二隻の中国漁船を発見。停船命令に従わず逃走したため、そのうちの一隻を漁業法違反(立ち入り検査忌避)の疑いで四時間半追跡し、体当たりして停止させた。浙岱(せつたい)漁(りょう)〇四一八八(一三五トン)の船長張天雄容疑者(四七)=中国福建省=を現行犯逮捕。残り一〇人の乗組員にも任意で事情を聴いた。テレビも報道、翌日七日の中国新聞紙上には「中国船逃走 船長を逮捕」の見出しで載っていた。日本政府は国内法に基づいて適正に処理すると発表した(のち、罰金三十万円で釈放)。

この逮捕劇を聞くと、誰しも昨年九月七日のニュースを思い出す。日本固有の領土である尖閣諸島最北端海域において、領海侵犯と違法操業の中国漁船が巡視船二隻に体当たりを繰り返し、中国人船長と乗組員が逮捕された事件である。しかし那覇地検は処分保留、船長はチャーター機で凱旋帰国した。この国恥とも言える政府の弱腰外交に対して、海洋覇権主義を翳す中国の脅威とわが国家の主権の有り様を憂えた元海上保安官がYou Tube で映像を流し、その実像が国民の前に明らかにされたのであった。

歴史に詳しい人にはお馴染みであろうが、明治二六年に外国船との衝突で領海権をめぐり国辱とされた事件があった。 帝国軍艦千島が瀬戸内海でイギリスの飛脚船ラヴェンナ号と衝突して沈没、乗組員七〇人余りが溺死した。所謂「千島艦事件」である。日本政府は損害賠償の訴えをイギリスの裁判所に起こしたが敗訴した。当時は治外法権のため、日本で罪を犯した外国人を日本の裁判所で裁くことができなかったのである。国民新聞(明治二六・十一・八)には“瀬戸内海にも領海権はないのか!”と悲憤慷慨する言辞が読める。

閑話休題。今年三月十一日の東日本大震災以来、一八九六(明治二九)年に注目が集まっているように思える。そう云えば、この年三陸地方で大津波が発生、死者数万人に及んだ。神戸在住のラフカディオ・ハーン(小泉八雲)はこの津波を基に「稲むらの火」の原話「生き神様」を著した。ハーンの恩人服部一三は岩手県知事として、津波後の復旧事業に苦心惨憺した。宮沢賢治が生まれたのもこの年である。そして、地震・津波とは関係ないが、明治文学史に明星と匂い出た天才樋口一葉女子が没した年が明治二九年なのである。

樋口一葉の本名は奈津といい、一八七二(明治五)年東京で生まれた。十六歳のとき兄が、そして十八歳のとき父が他界。一葉は一家の中心となって母や妹を支え、針仕事などをして働いた。借金を繰り返し、貧困生活の中で、雑貨や駄菓子を売って何とか生計を立てながら、小説家を志し幾つかの作品を発表。明治二九年『たけくらべ』が絶賛を博するが、その年の十一月、肺結核でこの世を去った。享年僅か二四歳であった。その短い生涯のあいだに、二十二編の短編と数十冊に及ぶ日記を残しており、ほかに四千首を越える和歌の詠草がある。「一葉忌」は十一月廿三日である。今年は没後百十五年に相当するが、明治二九年十一月二六日の朝日新聞には、次のような記事が読める。

女流の小説家として遒勁(いうけい)の筆重厚の想を以て名声を文壇に嘖々(さくさく)たりし一葉女史樋口夏子は予(かね)て肺患にかかりをりしが二十三日午前十一時を以て簀(さく)を易(か)へたり享年僅か二十五有五

五千円紙幣と昭和二六年発行の記念切手(八円)でお馴染み、樋口一葉の名を知らぬ者はいないであろう。ただし近頃の学生にとって、『たけくらべ』『にごりえ』『十三夜』など、一葉の小説は、英語で書かれた文学書を読むより難しいらしい。作品を読む人は少ないが、彼女の日記となると、繙く人の数は更に激減するであろう。しかし我々は今こそ一葉の日記に注目しなければなるまい。明治二六年十二月二日の日記には、驚くなかれ、千島艦事件の裁判について憤っている文章が読めるからである。一葉がこの日記を書いたのは二十一歳。まだ無名の頃であった。

二日 晴れ。議会紛々擾々。私行のあばき合ひ、隠事の摘発、さも大人げなきことよ。半夜眼をとぢて静かに当世の有さまをおもへば、あはれいかさまに成りていかさまに成らんとすらん。…外は対韓事件の処理むづかしく、千島艦の沈没も、我れに理ありて彼れに勝ちがたきなど、あなどらるゝ処あればぞかし。猶、条約の改正せざるべからざるなど、かく外にはさまざまに憂ひ多かると、内は兄弟かきにせめぎて、党派のあらそひに議場の神聖をそこなひ、自利をはかりて公益をわするゝのともがら、かぞふれば猶指もたるまじくなん。にごれる水は一朝にして清め難し。かくて流れゆく我が国の末いかなるべきぞ。外にはするどきわしの爪あり、獅子の牙あり。印度、埃及の前例をきゝても、身うちふるひ、たましひわなゝかるゝを。

尖閣諸島海域、北方領土、竹島など、日本固有の領土問題についての政府の軟弱外交は云うに及ばず、喫緊の課題である東日本復興対策、東電を初めとする原発問題、TPP参加の是非等々で、まさに“党派のあらそひに議場の神聖をそこなひ、自利をはかりて公益をわするゝ”国会での不毛な論議に慣れている我々には、一葉の言葉が明治のものとは思えない。相馬御風は「旧い日本の最後の女」という言葉で、一葉論を締めくくっているが、明治社会の底辺に生きた若い女性の心の中にも、国を憂える熱い思いが溢れていたのである。一葉の憤慨は、五千円札や文化切手の肖像からは到底想像もできないが、その正鵠を誤らぬ鋭い社会批判に今更ながら驚くの他ない。一葉の日記から学ぶべきことは多いのである。

バックナンバー
平成27年 1月 2月 3月 4月 5月
平成26年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
平成25年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
平成24年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
平成23年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
平成22年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
平成21年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
平成20年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月