住吉神社

月刊 「すみよし」

『広島〜松江間ローカル線ひとり旅』
風呂鞏

周知の如く、十九世紀後半の欧米では、万博やジュール・ベルヌ著『八十日間世界一周』などの影響もあり、グローブ・トロッター(世界漫遊家)なる新語が登場した。明治二十三年(一八九〇)、アメリカの雑誌レポーターとして来日した小泉八雲こと、ラフカディオ・ハーン(一八五〇‐一九〇四)をその一人に加える研究家もいる。最近はハーンをバック・パッカー(旅に暮らす人)の元祖として捉え、鉄道をキーワードに、ハーンの軌跡を追憶形式で追ってゆこうとする試み、例えば『へるん先生の汽車旅行』という本も出ている。

ただし、ハーンの漂泊の旅は、「社会の安定条件」にそぐわない人間の駆り立てられた旅だった。アメリカ時代のハーンは放浪への憧憬を「漂泊の旅といっても利益を得るかも知れないと望みをいだいて駆り立てられるのではなく、楽しみたいために旅に出るのでもなく、単に彼の存在上の差し迫った必要に駆られる文明人の漂泊の人のことを、私は言っているのであり、そうゆう人は密かに内に秘める本性が、偶然とはいえ彼が所属している社会の安定条件と全く矛盾しているのである」と語っていた(注)。

殊更ハーンに肖ろうとした訳でもないが、四月上旬俄に片雲の風に誘われ、JRローカル線に乗って松江までの一人旅をしたくなった。これには、理由が二つある。

ハーンが熊本第五高等中学校へ赴任の際、国道五四号線を通ったことは既に調べがついている。然し陰陽を結ぶJRローカル沿線の風景の中に、ハーンが残した僅かな記録とダブル何かがありはしないかと、以前から気懸りであった。 永らく放置していたこの確認作業を“今でしょ!”と急かす天声を聞いた。老体にやや限界を感じ始めた所為かも知れない。

島根県立美術館では三月二十日〜六月十六日まで「水辺のアルカディア ピュヴィス・ド・シャヴァンヌの神話世界」が開催中だ。NHK日曜美術館でも「世紀末祈りの理想郷」と題してアンコール放映(三月三十日)があったが、十九世紀のフランスを代表する壁画家シャヴァンヌ(一八二四−一八九八)は、その作品をまとめて紹介する展示会が今までになく、今回が彼の全体像を提示する、わが国初めての企画なのである。

シャヴァンヌとハーンとの接点は不明だが、自然と人間の調和するアルカディア(理想郷)を描くシャヴァンヌは、ゴーチェも共鳴する画家であり、ハーンも必ずや注目していた画家の一人に違いあるまい。鑑賞の要あり、と灰色の脳細胞が号令を下したのである。

四月九日、芸備線下深川駅を昼前に出発。三次(ここで昼食弁当を購入)を経て備後落合二時半到着。木次線に乗換えて宍道へ。宍道からは山陰本線、松江には夕刻六時に着いた。約二〇〇キロを六時間半(駅は五〇か所)で踏破した。途中は無人駅が多い。備後落合駅も昭和四〇年代には人気のそば屋がテレビで紹介されたが、今は廃墟の雰囲気を感じさせる。しかし、中国地方きっての山岳路線である木次線に乗ると、車窓の景色は格別、国道三一四号線の雄大な「奥出雲おろちループ」も眺められる。三井野原駅(JR西日本で最も高く、標高七二七m)と次の出雲坂根駅間は標高差が一六七mもあり、三段式スイッチバックで列車を運転する。車内では、運転手が列車を止めて、反対方向の運転室に忙しく移動を繰り返す姿が見られる。三段式スイッチバックの体験できる場所は、もう今では、豊肥線立野駅(熊本県)、篠ノ井線姨捨駅(長野県)と出雲坂根駅の三か所しかない。

奥出雲を走る木次線は乗客を神話の国に案内してくれる。どの駅のプラットホームにも神話に因む看板が目立つ。“そろばん”で有名な出雲横田駅のプラットホームには「奇稲田姫(くしいなだひめ)」を描いた大きな絵と説明文を載せた看板が並置されている。 藤岡大拙氏による説明板には次のような案内が読めた。

駅の東南に稲田神社があります。この辺(あた)りで奇稲田姫が生まれたと伝えられています。父神は脚摩乳(あしなづち)、母神は手摩乳(てなづち)。八岐大蛇(やまたのおろち)の難を救い、姫を娶(めと)られた素戔嗚尊(すさのおのみこと)が天降(あも)られた鳥上(とりがみ)の峰(船通山(せんつうざん))は、ここより東方、斐伊川(ひいかわ)の上流にそびえています。

松江温泉で旅の疲れを癒した翌日は、シャヴァンヌの神話世界に酔い、知人との再会も果たすことが出来た。久しぶりの出雲そばを堪能し、午後一時半少し前に松江を離れた。帰路は別ルートを辿り、山陰本線で江津へ、江津から三次まで三江線、三次からは芸備線。下深川駅に帰着したのは八時二十分。全二六五キロ、七時間(駅の数は七十五)の旅であった。

江の川沿いを走る全線一〇八キロのローカル線三江線は、一日三百人しか利用しない日本屈指の赤字過疎路線という。キハ一二〇形ディゼルカーが一両でのんびりと走る。昨年八月末島根県西部で発生した集中豪雨の影響で、江津〜浜原間は七十二ヶ所で災害、現在は列車の運転を見合わせている。 余り遭遇したことのない、バスによる代行輸送を初体験できた(運転手さんの説明だと、全線の運転再開は今年七月中になるそうだ)。

バック・パッカー気取りのローカル線一人旅は、年寄でも意外と楽しい。ワンマン運転の気動車は、桃源郷(アルカディア)と見紛うばかりの田園や山間の清流を跨ぐ鉄橋、満開の桜並木の間を、まるで自らがガイドを演じるかのように、ゆったりと走ってくれた。

昭和四十年大晦日NHK「紅白音楽試合」で川田正子が「汽車ポッポ」(作詞:富原薫、作曲:草川信。原題は「兵隊さんの汽車」)を歌った。 “スピード スピード 窓のそと/ 畑もとぶとぶ 家もとぶ/ 走れ 走れ 走れ/ 鉄橋だ 鉄橋だ 楽しいな”という歌詞が脳中を駆け巡り、年甲斐もなくそれを独り口遊みながらの陰陽往復旅であった。

ハーンが熊本へ赴任した際の記録に関しては、新しい知見は得られなかったが、一つ一つの駅名を確認し、窓外の景色に見とれながら、ローカル鈍行列車に揺られる旅は、都会では到底味わえない、夢のような至福の時間であった。これは癖になるかも知れない。

(注)『カルマそのほか』(一九二一)所収の「幽霊」より。(内藤史朗訳)


宮司 森脇宗彦

五月から六月にかけて、全国の川で鮎釣りが解禁される。

清流に生息する鮎は、食卓に清らかさ、清流の涼しさをもとどけてくれる。日本人になくてはならない夏の味覚であり、風物詩となっている。

「鮎」という字は、「魚」偏に「占」(うらなう)となっている。これは国字(日本でできた文字)でもある。もともと中国では、「鮎」という字は「なまず」をあらわしている。

アユは一年で生を終えるので古くは「年魚」と記し、「あゆ」といった。匂いからから「香魚」ともいわれている。

鮎釣りはしたことがないが、子供の頃、川を遡上し、川の堰を飛び上がる若鮎を、網ですくいとったことがある。若鮎は川を春に遡上する。急流をものともせず、セキは飛びはねて登っていく。若々しい躍動する姿は実にたくましくうつる。堰には時には鷺などの野鳥が来て遡上の若鮎を啄ばんでいく。自然の生存競争のきびしさを思い知らされる。

鮎と人とのかかわりは古い。アユ料理もその一つで、和食にかかせない。

日本の風土からうまれたのが和食である。日本人の伝統的な食文化でもある。昨年十二月「和食」が、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産に登録された。

この登録にあたってリーダーとしてたずさわってこられた静岡文化芸術大学学長の熊倉功夫さんは、和食は季節を食べるといわれ、同じものでも時期によって異なる食べ方ができるといわれる。

鮎はそのひとつで、初夏・盛夏・晩夏と三度たべられる。若鮎・成長した鮎・落鮎である。

鮎を獲る話は、古くは『古事記』『日本書紀』にでてくる。

『古事記』には、第十四代仲哀天皇の皇后である神功皇后は、三韓征伐から九州に帰られ、のちの応神天皇をご出産される。その後に、四月の上旬に皇后は、筑紫の末羅県(松浦縣)の玉嶋里に行幸になる。

「その河中の磯に坐して、御裳の糸を抜き取り、飯粒(いいぼ)もちて餌にして、その河の年魚(あゆ)を釣りたまひき。」

御裳の糸を抜きとり飯粒を餌にして年魚を釣られ食事をとられた。川の名は小河(をかわ)といい、磯(いそ)の名は勝門比売(かちとひめ)といった(『古事記』)。玉島川は佐賀県北部を流れ、唐津湾に注ぐ。松浦川ともいう。

『日本書紀』では魚を釣ることで勝負を占ったとある。ストリーは古事記とは異なり、三韓征伐の前の出来事として伝えられている。行幸されたところは同じでもその鮎釣りの目的が大きく異なる。国家の運命を占う重要な釣りであった。神意を占いで決めるのが古代の政治であった。

神功皇后九年には次のようにある。

「朕(われ)、西(にしのかた)、財(たから)の国を求めむと欲(おもほ)す。若し事を成すこと有らば、河の魚(いを)鉤(ち)飲(く)へ」とのたまふ。因りて竿(さお)を挙げて、乃ち細鱗魚(あゆ)を獲(え)つ。時に皇后(きさき)の曰はく、「希見(めづら)しき物なり」とのたまふ。故、時人、其の処を号(なづ)けて、梅豆羅国(めづらのくに)と曰ふ。今、松浦(まつら)と謂ふは訛(よこなば)れるなり。是を以て、其の国の女人(をみな)、四月の上旬(かみのとをか)に当(いた)る毎に、鉤(ち)を以て河中に投げて、年魚(あゆ)を捕ること、今に絶えず。唯(ただ)し男夫(をのこ)のみは釣ると雖も魚を獲(う)ること能(あた)はず。」(原漢文)

「財(たから)の国」とは新羅国である。この財の国を手に入れることができるというならば川の魚が鉤をくえといった。竿をあげてみると細鱗魚(あゆ)であった。この時に皇后は、「めずらしき物なり」といわれた。その処をメヅラノ国といい、今の松浦「まつら」となったという。

松浦という地名は、メツラノ国が転じたものという。いわゆる三韓征韓の勝負を宇気比(うけひ)し、魚がつれたという。誓約(うけい)という占いの結果通りに新羅国を得ることができた。

『古事記』では新羅国を征伐をのべたあとに、松浦県玉嶋に行幸されている。『日本書紀』では魚を釣ることが占いであった。魚に占とかいて鮎というのは、おそらくこの故事に由来する。 

両書の鮎の話は、『日本書紀』の鮎釣りが重要な、占いであったといえよう。女子でないと魚は釣れないといっている。神功皇后の故事から出たことであろう。

古代においては「縣」は朝廷の御料地の称である。松浦川(玉島川)の河畔には神功皇后宮(玉島神社ともいう)があり、境内には鮎を釣った時に使用した竹、釣りをする時に乗った石や、川沿いには「鮎返」という地名も残っている。新羅国を征伐に立った場所は九州のどかかは記されていないが、神功皇后の鮎釣りの伝承から松浦縣のあたりと推測される。

『古事記』『日本書紀』以外にも鮎のことはみられる。『万葉集巻五』には「松浦川に遊ぶ序」があり鮎を釣る歌がある。松浦川と鮎とのつながりは『古事記』『日本書紀』の神功皇后の故事に由来しているとみられる。

松浦川 川の瀬光り 鮎釣ると 立たせる妹か裳の裾濡れぬ(855)

松浦なる 玉島川に 鮎釣ると 立たせる子らが 家路知らずも(856)

遠つ人 松浦の川に 若鮎釣る 妹が手本を 我こそまかめ(857)

若鮎釣る 松浦の川の川なみの なみにし思はば 我恋ひめやも(858)

春されば 我家の里の川門には鮎子さ走る 君待ちがてに(859)

松浦川 七瀬の淀は 淀むとも 我は淀まず 君をし待たむ(860)

松浦川 川の瀬速み 紅の 裳の裾濡れて 鮎が釣るらむ(861)

人皆の 見らむ松浦 玉島を 見ずてや我は 恋ひつつ居らむ(862)

松浦川 玉島の浦に 若鮎釣る 妹らを見らむ 人のともしさ(863)

『万葉集』巻五の松浦川での鮎釣りは『古事記』『日本書紀』の四月上旬を踏まえて若鮎釣りを詠んでいる。『万葉集』で魚の中で、最も多く詠まれているのが鮎である。一連の作として先の七首があり、万葉集中ではすべてで十五首載せられている。年魚は、常陸、出雲、肥前、豊後、豊前の各『風土記』にもでており、日本中の川でアユが生息していたことがわかる。古代の人々の生活に深くかかわっていたことがうかがわれる。

鮎の漁法はいろいろある。記紀には、餌(飯粒)で釣るとあるが、鮎はコケを食しあまり餌や虫を食べない。だから鮎釣りは難しい。鮎の漁法で一番多いのは友釣りである。鮎は自分の縄張りをつくる。縄張りに入る鮎を攻撃する習性がある。それを利用した漁法が友釣りである。

鵜飼い漁法もある。現在では観光として、岐阜の長良川、広島の三次、山口の錦帯橋などの鵜飼いが知られている。芭蕉の句がある。

面白うてやがて悲しき鵜舟かな  芭蕉

これからの季節、全国の清流では、釣り人が鮎を釣る光景がみられることであろう。古代の占いの一つに鮎釣りが行われたことを再認識して、糸を垂れるのもいいかもしれない。では何を占うか。国家の命運でもうらなったらいかがであろう。

参考文献

ものと人間との文化史『鮎』松井魁著(法政大学出版局)

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