住吉神社

月刊 「すみよし」

『明治人われは―宗敬翁の志揮』
照沼好文

「緑化の父」として称えられた徳川宗敬(一八九七―一九八九)翁は、旧水戸藩主徳川家の十二代当主篤敬(あつよし)の次男として、明治三十年東京・向島に生まれ、のちに一橋徳川家当主達道の養子に迎えられた。とくに、宗敬翁の業績のうち、最も私達に印象深いのは、終戦後の荒廃した国土の緑化に深い思召をもって、全国各地に行幸遊ばされた昭和天皇のお側近くで、植樹に奉仕された姿であるが、昭和二十九年九月の桑港講和条約の全権委員、第六十回神宮式年遷宮には、神宮大宮司として奉仕、尓来晩年まで神社本庁統理として神社神道界に奉仕され、数々の足跡を残されたことである。今回は、とりわけ明治人宗敬翁の信念、志操に注目し、その一端に接してみよう。

 即ち、昭和天皇が戦後の荒廃した国土に植樹される御姿は、わが国の復興の象徴であった。宗敬翁は戦後間もない時期から、昭和天皇、皇后両陛下が毎年、各県の植樹行事にご臨になって、植樹造林に範を示された御姿は感慨無量である、と陛下に随行した年々を述懐し、次いで、昭和二十三年四月には、天皇、皇后両陛下が東京都青梅で開かれた森林愛護連盟第一回の植樹行事にご臨席になって杉苗二本ずつご植樹になり、また翌年には箱根で植樹造林の範をお示し下さった。林業人にとって、これは忘れることの出来ない歴史的事柄であった。そして昭和二十五年、…現在の国土緑化推進委員会の結成をみ、尓来毎年各県において、両陛下共に鍬をとられ、その地域に適する樹種の苗木をお植えになった。…

天皇陛下が自然をお好みになり、植物を愛されることは周知のことだが、学者としてのご理解だけでなく、日本の将来における、わが国土の姿を御心にかけせられ、植樹造林国土緑化をご奨励下されるのであろうと推察するものである。…

と、翁は昭和天皇のご深慮を推察申しあげている。従って、晩年の宗敬翁はつねに次のような言葉を口癖に申されていたと聞く。

俺も齢を重ねて既に八十歳を過ぎてしまい、大分耳も遠くなったので、現在種々の役職に就いてはいるが、これも一日も早く退きたいと思っている。しかしながら、あれだけ陛下が国土緑化運動に御熱心なお姿を拝するだけに、陛下の御存命中は国土緑化推進委員会だけは退められない。

そして、昭和六十三年の国土緑化推進機構総会における閉会の辞には、とくに申上げたいことは、こうした緑化運動が現在まで年々拡大発展してきたのは、天皇陛下が毎年の全国植樹祭に三十九年間欠かさず、ご臨席いただくなど、緑化に大変ご関心をよせられた結果であり、誠にありがたいことである。天皇陛下が今後ともお元気であらせられることを心から願うものである。皆様とともに一そうの努力をしたいと思っている。これは私の遺言ではないが、どうかよろしくお願いする。

この宗敬翁の言葉を聞いた大矢寿氏(当時、同機構副委員長)は、「私は改めて感動したが、全国から出席した会員の皆様も等しく感銘をうけた。…まさに公式の場での先生の遺言であった」と、当時を回顧して、述懐された。まさに、これこそ明治人の志操にほかならぬ。

シャガル展 日仏国歌に 開かれつつ

君が代身にしむ 明治人我は

―家集『鶏鳴』より―

[追記] 宗敬翁は平成元年五月一日に帰幽されたが、私は丁度その三カ月まえに、常陸太田市内の病院で約三時間ほど、直接お目にかかり、種々お話を伺ったことを、今なつかしく回想している。

『小泉八雲と栗原基を繋ぐもの』
風呂鞏

小泉八雲こと、ラフカディオ・ハーンは明治二十三(一八九〇)年来日した。その初めて訪れた横浜の県立神奈川近代文学館で、二〇一〇年十月二日から約四〇日間「小泉八雲展」が開催された。ハーン生誕一六〇年、来日一二〇年を記念するものであった。

多くの貴重な展示品があったが、中でも目玉は初公開される二点の直筆資料。『日本瞥見記』に収録されている「江の島行脚」の草稿と「雪女」の草稿(いずれも染村絢子氏蔵)であった。また滅多にお目にかかることの出来ない栗原基(くりはらもとい・一八七六−一九六七)筆の「東大八雲講義受講ノート」八冊も出品展示されていた。

一九六七年八月満九十一歳で世を去った栗原基は、明治三四年に小日向定次郎らと共に東京帝国大学を卒業したが、在学中にはハーンの講義を聞いた。引き続き大学院で研究を重ね、広島高師・京都三高の教授をつとめた。栗原は自分の生徒達に「すべての蔵書を失っても、このハーン先生のノートだけあればよい」とよく話していたという。

栗原基は生粋の仙台人である。生家は旧藩時代、伊達公のもとで代々、種田流の槍術指南番を務めた家柄である。栗原長敬の次男として明治九年に生まれた。彼の周りには後年名を成す人物が数多くいる。中学時代は、少年時代からの学友真山青果と共に同志社の姉妹校である東華学校に学んだ。また山梨勝之進とも終生変わることなき友情を結んでいる。やがて尚絅女学校の創立者ミス・ブゼルと接して入信受洗する。第二高等中学校時代の学友、内ケ崎作三郎、吉野作造の受洗は栗原の感化によるらしい。

二高卒業後、栗原は東京帝国大学文科大学英文学科に進んだが、法科大学でないとの理由で父の長敬は学資を出してくれず、中学校で教えたり翻訳をして学資と生活費を稼いだ。

東大を卒えるとすぐ、内ケ崎作三郎の後を継ぎ、文部省の留学生として英国のオックスフォード大学に行くことになっていた。ところが、日清事変による長兄の戦病死でそれが実現せず、禄を離れた貧乏士族の家長となり、その責任は並大抵のものではなかった。在学中に、アルバイトで自分の学費を稼ぎ、その上、両親の許に仕送りし、弟妹たちが新しい教育を受けられるよう、その分まで助けた。英語教師のアルバイトをするために毎晩、神田から築地まで通ったが、電車もバスもなかった当時のこと、夕食は歩きながら握り飯を食べるのが習慣となっていた。

栗原が後に最大の痛恨事の一つとして述懐しているのは、ハーンの自宅を訪ね、個人的に直接接する機会を持つことができなかったことである。 内気な栗原ではあったが、学資と生活費を稼ぐ為、訪問に時間を割くことができなかったからである。或る時ハーンが課した英語作文で栗原の英文がハーンの目に留まり、栗原の書いた作文をハーンが非常に褒めてくれた。栗原に関心をもったハーンが、友人にいろいろ聞いていた事を知って、栗原はハーンに対してひとしおの親愛の念を抱いていたのである。一九五九年一月発行の雑誌Today’s Japan(「今日の日本」小泉八雲特集号)にも栗原は寄稿している。わずか六頁の短文だが、孤独を愛するハーンが一〇分の休み時間、三四郎池の畔を静かに歩いている時、ハーンの瞑想を妨げてはならないと、学生は礼儀正しく遠くから静かにハーンを見守っていた、など大学生栗原の心眼に映じたハーンの面影をよく伝えた名文となっている。

一九〇一年に東大を出る時、男爵の栄誉を受けた神田乃武が、まだ一介の書生に過ぎなかった栗原の下宿を三度も訪れ、学習院教授にと懇望した。栗原は「門閥の子弟はご免こうむる」という理由で押し切り、辞退した。若くしてキリストの教えに導かれた栗原は、特権階級の子弟の教育よりも、広く野に在って、無名の庶民の中に自分の理想の夢を託したかった。そして赴任して行ったのが、東京から遠く離れた、創設されたばかりの廣島高等師範学校であった。比較的初任給がよかったというのも一因かも知れない。

 広島高等師範学校創立八十周年記念『追憶』(昭和五七年)には、「文科第二部関係」の小史の欄に、小日向定次郎、金子健二、丸山学、桝井廸夫などの教授陣への言及があり、勿論栗原基教授の名前もある。ハーンの教え子が三名も揃うとは、誠に豪華な顔ぶれだ。

広島高師時代の教え子の一人に小原国芳氏(一八八七−一九七七)がいる。ご存じの如く玉川学園の創立者である。栗原基の四女・菊沢喜美子さんが書かれた『思い出の父』(一九六九、非売品)の中で、小原氏は広島、高松、京都、東京での日々を振り返りながら、恩師栗原基の思い出を綴っている。

博文館発行『百科全書』の「英文学史」の著書があった栗原は、音楽的な感じのバス声で、原稿も余り見ず、名文を諳んじて学生に筆記させた。引用文など次々黒板に書く文字は実に達筆で、学生たちはほれぼれする程であった。東京では、クラス会に出席して、健康法の話や体操をして見せたり、クリスマスなどには、力づけの詩や歌などを贈り、弟子をえらくみせてやろうという栗原の温かい親心のあったことを、小原氏は感謝と共に語っている。

十年ほど前、広島県庄原市口和町の旧家で、広島高等師範学校英語部出身である世良壽男(一八八八−一九七三)自筆のノートが発見された(注一)。中に「英文学史・栗原教授」と書かれたノートがある。「英文学史」の講義ノートは全部で四冊(一冊目は表紙に四三・二・二八の日付、四冊目には四三・一〇・一〇の日付がある)である。栗原基・藤澤周次共編『英国文学史』(東京博文館蔵版、明治四十年)の目次に示されているものとほぼ同じ内容だが、栗原が『英語発達史』(博文館、明治四三年)に発表した“チュートン語”の発音についての研究が加わっていて興味深い。“ハーンから栗原へ”、そして“栗原から世良へ”という羨ましい師弟愛・絆と共に、ハーンの魂が広島の地に脈々と生き続けている。

(注一)詳しくは、日本英学史学会中国・四国支部研究紀要『英学史論叢』第八号(二〇〇五)所収の論文、馬本勉「明治期の英語授業過程に関する一考察」を参照されたい。

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