住吉神社

月刊 「すみよし」

「忘れてはならないこと」
宮司 森脇宗彦

紺碧の海・エメラルドグリーンのすみきった海。サンゴ礁。そんな海を眺めていると、かつて激しい戦いがあったことなど思い浮かばない。穏やかな海であった。

南洋のサイパン・パラオを慰霊で訪れたのはもう三十三年も前の昭和五十七年である。その時の記憶もだんだんと薄れてきているが、その記憶を思い起こしてみた。サイパン島の慰霊の旅についてはすでに当時旅のことを書いた(「慰霊の旅」拙著『住吉の松』所収)。

というのも、今年四月八・九日に西太平洋のパラオ・ペリュリー島を天皇皇后両陛下が戦没者慰霊のために行幸啓されるからである。両陛下には、十年前、戦後六十年にサイパン島の御訪問に続いての慰霊の旅である。

サイパンでの行幸啓では、海岸にて戦友会の人から当時の説明を両陛下はお聞きになった。中部太平洋戦没者の碑に御供花。スーサイド・クリフ(ラデラン・バナデロ)バンザイ・クリフ(プンタン・サバネタ)でのお祈り、アメリカ慰霊公園の御訪問、マリアナ記念碑(現地人戦没者の碑)に御供花。第二次世界大戦慰霊碑(米公人戦没者の碑)に御供花されるなどされた。

サイパン島の行幸啓のことを天皇陛下はこの年十二月に天皇誕生日にあたっての記者会見でこう語られている。

先の大戦では非常に多くの日本人が亡くなりました。全体の戦没者三百十万人の中で外地で亡くなった人は二百四十万人に達しています。戦後六十年に当たって、私どもはこのように大勢の人が亡くなった外地での慰霊を考え、多くの人々の協力を得て、米国の自治領である北マリアナ諸島のサイパン島を訪問しました。そこにはこの地域で亡くなった戦没者のために国が建てた中部太平洋戦没者の碑があります。

ドイツ領であったサイパン島は、第一次世界大戦後、国際連盟により日本の委任統治領となり、多くの日本人が移住し、砂糖産業や農業、漁業に携わっていました。

昭和十九年六月十五日、米軍がサイパン島に上陸してきた時には日本軍は既に制海権、制空権を失っており、大勢の在留邦人は引き揚げられない状態になっていました。このような状況下で戦闘が行われたため、七月七日に日本軍が玉砕するまでに、陸海軍の約四万三千人と在留邦人の一万二千人の命が失われました。軍人を始め、当時島に在住していた人々の苦しみや島で家族を亡くした人々の悲しみはいかばかりであったかと計り知れないものがあります。この戦闘では米軍にも三千五百人近い戦死者があり、また九百人を超えるサイパン島民が戦闘の犠牲になりました。またこの戦闘では朝鮮半島の出身の人々も命を落としています。この度の訪問においては、それぞれの慰霊碑にお参りし、多くの人々が身を投じたスーサイド・クリフとバンザイ・クリフを訪れ、先の大戦において命を落とした人々を追悼し、遺族の悲しみに思いを致しました。

六十一年前の激しい戦争のことを思い、心の思い旅でした。ただ、高齢のサイパン島民はかつて日本の移住者が島民のために尽くしたことを今も大切に思っている人がいることはうれしいことでした。私どもが島民から温かく迎えられた陰にはかつての移住者の努力があったことと思われます(『道』宮内庁編NHK出版)。

先の大戦の歴史的事実を振り返られる。三百十万人という非常に多くの日本人が亡くなり、その内の外地で亡くなった人は二百四十万人。戦後六十年に当たって外地での慰霊を考えてサイパン島を訪れたと語られた。サイパン島での戦況を振り返り、その戦没者の数が軍人四万三千人、在留邦人一万二千人、そして敵国の戦死者は米軍が三千五百人、島民の犠牲者が九百人、そして朝鮮半島出身者の犠牲者のあったことにも言及され、それぞれの慰霊碑にお参り御供花されたこと、そして戦争の悲劇ともいうスーサイド・クリフ、バンザイ・クリフに立たれ犠牲者を追悼され、遺族の悲しみに思いをいたしたと語られた。

スーサイド・クリフ、バンザイ・クリフは通称で、その地名をあえてつかわれている。シーサイドとは、日本人の「自決」、バンザイとは、多くの日本人が「万歳」と叫んで岬の崖から海に身を投げたことから岬をそう呼ぶようになったという。もとはスーサイド・クリフをラデラン・パナデロ、バンザイ・クリフをプンタン・サバスタといった。地名に悲しい歴史が刻まれている。その地名の由来を陛下はご存じだったであろうから、陛下にとっては「心の重い旅」であったと心情を漏らされたのではなかろうか。

会見の最後に陛下は、「ただ、高齢のサイパン島民はかつて日本の移住者が島民のために尽くしたことを今も大切に思っている人がいることはうれしいことでした。私どもが島民から温かく迎えられた陰にはかつての移住者の努力があったことと思われます」と語られた。これと同じことを、かつて訪問した時、私も当時の佐々木日本人会会長が語られたことを思い起こした。

サイパン島の御訪問ではこう詠まれている。

天皇陛下御製  〈サイパン島訪問二首〉

サイパンに戦ひし人その様を浜辺に伏して我らに語りき

あまたなる命の失せし崖の下海深くして青く澄みたり

皇后陛下御歌  〈サイパン島〉

いまはとて島果ての崖踏みけりしをみなの足裏思へばかなし

サイパンをたって、ヤップ島を経由してパラオの空港に着いた。飛行場のターミナルといってもヤシの葉で葺いた建物で、とても今の近代的なターミナルとはほど遠い。当時日本人を中心としたプロジェクトがパラオの空港を建設中であった。その後、新空港が開港し日本からの直行便ができた。いまは乗り換えなくパラオに飛べる。

サイパン島・パラオ島を含む北マリアナ諸島は、第一次世界大戦後パリ講和会議によって、ドイツの植民地支配から日本の委任統治領になった。約三十年間であった。決して植民地ではなかった。

私が訪問した昭和五十七年当時、パラオはアメリカの信託統治領で、「パラオ共和国」と言っていた。一九九四年に独立した。

パラオでは国会議員が案内してくれた。パラオ共和国の上院議会を表敬訪問し、国会議事堂に立ち寄った。国会議事堂といっても会館のようなものであった。

パラオでは南洋神社の跡地で慰霊祭を斎行し、戦没者の英霊の安からんこと、そして世界の恒久平和を祈った。

南洋神社は昭和十五年に官幣大社として建立された。終戦とともに廃祀となった。

南洋神社跡地は、コロールからそう時間はかからなかった。

現地に着くと目の前はジャングルであった。歳月を物語っている。その足元には石段があり、この地がかつての参道の入り口であることが確認できる。日本人の移民が多く島民の三分の二を占めていたという。日本人の心のよりどころとして南洋神社は建立された。

当時島民の三分の二が日本人であったことからして日本人が神社を建て統治に利用したのではなく、あくまで日本人のよりどころであって、強制的にしたとは考えられない。それは日本人が引き上げても親日感情は強く、案内してくれた議員は、ここに南洋神社を再建するのであれば、この土地を無償で提供してもよいとのことであった。平成九年に有志によって南洋神社は再建された。

パラオ島から小船でペリュリー島へ向かう。ペリュリー島は日本軍玉砕の島である。

ペリリュー島は、パラオ本島から南に約五十キロにある。南北約九キロ、東西約三キロ、面積約三十一平方キロの小さな島だ。

緑の木々の生えるマッシュルームのような小さな無人島の島々の間を船は走る。美しい島々である。晴れ渡った空が、急に曇りスコールがくる。しばらくするとスコールは止む。また熱い太陽が照りつける。船のエンジンの轟音、そして波しぶきで会話などできない。約一時間あまりで島に着いた。

慰霊祭を行う。ここでも戦没者の英霊の慰霊、鎮魂を祈った。

島の山へ登った。汗が額をつたう。かつて激戦となったところだ。山の麓には洞窟が掘られ、そこに日本軍は逃げ込んだ。そこへ米軍の攻撃により玉砕された。

洞窟がいくつかある中である一つをのぞいた。そこには日本軍のものとおもわれる色の変わったヘルメットが転がっている。その奥は暗くてよくみえない。おそらく奥には遺骨が眠っていると想像をした。何か感じるものがあった。自然と手を合わせていた。英霊の安からんことを……

ペリュリー島の海岸をあるく。波打ち際の砂浜はいまも戦火の鉄くずがある。裸足では歩かない方がいいとの注意がある。いまなお島内には、戦車など戦いの残骸が各所にある。

戦没者の遺骨の収集は今も続けられている。ペリュリー島では戦死者は約一万人で、なお約二六〇〇人とも約五〇〇〇人ともいう遺骨がわかっていないという。米軍の戦死者も多かった。遺骨収集は費用等の問題であまり進んでいない。厚生労働省は、今年天皇皇后両陛下の行幸啓にあたって遺骨を収集すると発表している。

西欧人とは異なり、日本人は遺骨がないと死者は浮かばれないと考える人が多い。そう思うと遺骨収集は遅きに失したといわざるを得ない。

パラオは親日国だ。統治が侵略ではなく、委任統治であり、教育、インフラ整備等に日本人が島民のために尽力してきた。今でも日常会話に日本語が多く使われている。日系の大統領も誕生している。

戦前の南洋神社も再建されたが、ペリリュー島のペリリュー神社も戦後に再建され、戦没者の御霊が祀られている。再建の神社境内には、かつての敵将のアメリカ太平洋艦隊司令長官であったC・Wニミッツ提督からおくられた賛辞の石碑がある。

「諸国から訪れる旅人たちよ、この島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い、そして玉砕したかを伝えられよ(石碑には原英文と碑文に刻まれた日本語訳)」

井上和彦さんの『パラオはなぜ「世界一の親日国」なのか』(PHP研究所)に教わった。

今年は戦後七〇年という節目の年だ。戦後の日本をここに眠る英霊たちはどう見ているであろう。天皇陛下は何度も繰り返し先の戦争で命を落とされた人々に哀悼の意を表され、「今日の日本が享受している平和と繁栄は、このような多くの犠牲の上に築かれたものであることを心しないといけないと思います(平成十一年十一月一〇日 宮殿 天皇陛下御即位十年にあたっての記者会見から)」とのべられたように、日本の平和と経済大国は靖国神社に祀られた英霊たちのお陰である。今の日本人はこれを忘れているのではなかろうか。このこころこそ、これからの日本の繁栄の原動力となるであろう。

『小泉八雲と鎌倉』
風呂鞏

先二、三ヶ月前のこと、今春鎌倉に八雲顕彰の新しい拠点が出来るとの噂さが流れていた。どうやら、三月二十一日に円覚寺の如意庵で開催された第十六回かまくら学府定例会〈小泉八雲没後一一〇年記念シンポジュウム〉のことを指していたのであろう。兎も角、小泉八雲と鎌倉とは浅からぬ縁があるので、以下思いつくまま書き記してみる。

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が霊峰富士を眼前に仰ぎつつ横浜港に到着したのは、一八九〇年四月四日早暁のことであった。山下町のケアリー・ホテルに宿をとるやいなや、人力車を雇い、“テラへユケ!”の掛け声と共に、暗くなるまで市内の神社仏閣を巡った。

ハーンは横浜に数カ月滞在するが、その間市内の寺院で知り合った真鍋晃を案内役として、鎌倉、江ノ島を巡る。鎌倉では人力車を二台雇い、円覚寺、建長寺、円応寺、高徳院の大仏、長谷寺と見て回り、それから江ノ島に行き、弁天宮、竜神の岩屋などを見る。帰途藤沢に出て、隆昌院にある鬼子母神堂や庚申堂に立ち寄った。

この際の見聞を記した紀行文が「江の島行脚」という作品に結実した。「ニューオーリンズ・タイムズ=デモクラット」紙に発表され、『日本瞥見記』に収められた。全体は二十四節から成る。前半はピエール・ロチの『秋の日本』の中の一篇、「皇后の衣装」に類似点が多く、後半ではハーンの民俗学的関心が表れている。

ところでアメリカを発つ半年前、「心の恋人」ビスランドから英国の小説家ラドヤード・キプリング(一八六五‐一九三六)のことを教えてもらったハーンは、キプリングの作品をほとんど読み、自らを「熱狂的な崇拝者」と呼ぶほど高く評価していた。ハーンより早く来日し、一八九二年四月二度目の来日をしたキプリングは約二カ月滞在、その際「鎌倉大仏」の詩を書いた。勿論ハーン自らも鎌倉大仏について書いているが、大仏の発する偉大な力を見事に描き出したキプリングに感激し、手放しで賞讃しているのである。

鎌倉の大仏に関するラディヤード・キプリングの美しい文章を、メーソンがあなたのために保管しておいてくれたことと思います。私はキプリングが―あの大仏を歌った詩ではなく、その散文が好きなのです。えも言えぬ味わいがあります。(中略)しかし、私などに比べれば、キプリングはすべてに於いて巨人です。(注一)

少し長くなるが、「鎌倉大仏」についての二人の文を比較してみたい。(注二)

(一)大仏殿の境内に入っても、大仏は見えない。(中略)ところが、そこをちょっと曲がると、いきなりまともにむっと全身が現われるので、あっとびっくりする。この方途(ほうず)もなく大きな物を写した写真を、今まで何度か見たことのある人でも、初めて実物を目の当たりに見たら、恐らく、肝をつぶすに違いない。百ヤードぐらい離れた所から見たのでは、まだ近過ぎるという気がする。そこで、もっと贍望(せんぼう)をよくするために、私は、もう三、四〇ヤード、後ろへ下がって見る。それを見た車夫たちは、私が大仏が生きているのだと思って、怖がっているのだと見て、私の身振りの真似をして大笑いをしながら、私の後から追い掛けてくる。(ハーン)

(二)……青銅の緑色に身を包んだ、法の師である大仏は、香のけむりのなかに半分隠れるように、揺らめく空気の中に座っておられる。大仏にとってそのとき大地はそのまま香炉となる。何百万という蛙どもは、その空気をどよめかせる。余りに暑い日なので、私は何もせず、ただ石の上に座って大仏の目を見ている。大仏の目は伏し目である。それは全ての物を見尽くした末に、もはや何も見ようとはしていない目で、頭は軽くうな垂れ、単純な線の流れに表わされた巨大な衣の襞が、その腕と膝とを蔽っている。(キプリング)

高徳院を訪れたキプリングの記述に、「庭の入口には古びた立て札があって、そこには少しく悲壮感が漂うが、なかなか堂々たる訴えの言葉が書いてある」との文言がある(注三)。この“訴え”、即ち、観光客に対する寺の注意書きは、陸奥宗光の長男・廣吉の妻で、英国女性だった磯が『鎌倉―その事実と伝説』の中で書き留めているものと同じである。

朝ドラ「マッサン」で有名になったスコットランド人妻エリーと同様に、陸奥磯(ガートルード・エセル・パッシンガム、一八六七―一九三〇)は、夫・陸奥廣吉が英国に留学したケンブリッジでの下宿先の娘であった。十七年という長い春を経て結ばれ、鎌倉に住んだ。彼女の波乱に満ちた生涯は、下重暁子が書いたノンフィクション『純愛―エセルと陸奥廣吉』(講談社、一九九四)に詳しい(注四)。その中で下重は次のように書いている。

イソは、一八九〇年(明治二三年)、教師として日本に来て、熊本や松江に住んで小泉セツと結婚し、『怪談』を書いた、ラフカディオ・ハーンに心酔している。自分もあんな風に日本を愛し、日本を書くことが出来たらと思う。夕日を愛したと云うハーンの気持ちは、イソにはよくわかる。そう決めたら行動に移すだけだ。通訳は傍にいる。散歩の好きな廣吉を誘って、積極的に一つ一つ寺を訪ね歩く。

(ふろかたし)


(注一)チェンバレン宛の書簡(一九八二年十二月十二日付)斉藤正二訳。

(注二)橋本槇矩/桑野佳明編著『キプリング大英帝国の肖像』(彩流社、二〇〇五)の三三〇頁からの引用。

(注三)ラドヤード・キプリング『キプリングの日本発見』(H・コータッツイ/G・ウェッブ編 加納孝代訳)(中央公論新社、二〇〇二)参照

(注四)伯爵陸奥廣吉は、昭和八年松江の小泉八雲記念館建設に百円寄付をしている。また下重は『わが心わが山陰』(聚海書林、昭和五七)に「八雲立つ出雲」を書いた。

 

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