住吉神社

月刊 「すみよし」

『小泉八雲の「出雲再訪」』
風呂鞏

大正四年(一九一五)六月二十五日に松江市で創立された「第一次八雲会」から数えて、来年(二〇一五)は創立百周年に当たる。「第一次八雲会」には大きな目標が二つあった。小泉家から拝領した遺品などを展示する小泉八雲記念館の建設と旧居(根岸家)保存である。一九六四年の小泉八雲六十回忌(九月に万寿寺で法要、奇しくも翌年四月には長男一雄氏が死去)を経て、昭和四十年(一九六五)六月二十七日(ハーン百十五回目の誕生日)には、「第二次八雲会」が発足し、機関誌『へるん』が創刊された。

小泉八雲記念館は東大教授市河三喜博士等の尽力によって一九三三年に竣工したが、老朽化のため、一九八四年の八十回忌には和風数寄屋造りに建て替えられた。現在では、毎年恒例の八雲会行事として、総会、「ヘルンをたたえる青少年スピーチ・コンテスト」、「小泉八雲を読む読書感想文コンテスト」(作詞・詩の募集を含む)などの活動がある。

ところで、昭和六十一年から毎年行っている「小泉八雲を読む読書感想文コンテスト」の「一般の部」において、広島市出身の主婦が平成二十四年度、二十五年度と二年連続で見事優秀賞に輝いておられる。中国新聞「こだま」欄への投稿などで、お名前はご存じかとも推察するが、西区在住の長松美登鯉さん(七十七歳)である。

平成二十四年度受賞の長松さんの感想文は、「日本を愛した八雲に感銘」というタイトルの下に、日本人にはお馴染みの「浦島太郎」が登場する「夏の日の夢」や「柔術」(共に『東の国から』に所収)を取り上げながら八雲の日本理解に言及したものである。二十五年度は「八雲の心に寄り添って」と題して、今なお明治の風情を残す松江を八雲が如何に愛したかを語るものである。一般の人が目にすることの少ない「出雲再訪」という珍しい作品に注目された長松さんの慧眼に感服する。

「出雲再訪」または「出雲への旅日記」は、一八九七年「アトランティック・マンスリー」誌五月号に掲載されたものである。書物の形では出版されなかったので、未発表の作品とも言える。八雲としては在日七年、松江、熊本、神戸と過ごしてきて、在日十四年の丁度中間にあたる時期の作品である。妻や子の将来を考えた、日本への帰化問題もようやく解決し、いよいよ東京帝国大学の講師として東京へ赴任する直前に、セツ夫人と長男一雄を伴って、懐かしの松江を再訪、約五十日間滞在した記録である。

内容は、「松江にて」、「松江にて」、「松江にて」、「加鼻にて」、「広島にて」(夫々日付あり)の五部から成り立っているが、元八雲会会長梶谷泰之氏の解説によると、「内容は変化に富み、紀行、叙景、抒情、ハーンのフォークロリスト的一面をあらわす民間伝説、民間信仰と挿話、民謡さらに日清戦争直後とて時事的観察、旧日本への愛情と新日本への嫌悪等、多種多様である」ことが分かる。

ご承知の如く、八雲は松江で一年三ヶ月、熊本で三年、神戸で二年を過ごした。その間、松江では「文明開化」の波に洗われていない旧きよき日本の姿を慈しみ、九州熊本では西欧化を急ぐ新しい日本に嫌悪感を懐いた。八雲の心中では旧日本と新日本との狭間で“振り子”が揺れていたのである。 神戸では一端教職を離れジャーナリストに復帰したが、一見平凡に見える日常生活の事件にも日本人の内面生活と情緒的特質への考察を深めていった。

八雲の来日第一作『日本瞥見記』は、日本到着直後の横浜近辺における観察記録も含むが、神々の国出雲の魅力、そこでの教師生活が中心である。そして松江からの離別は五四号線、広島を経由して行われた。旅日記『出雲再訪』も出雲の魅力を再確認した後、再び五四号線を辿る構成である。この部分はフィクションだが、旧日本への決別の象徴として広島を加え、実際五年前に可部太田川で乗った、“渡し舟”を配したことは、如何にもハーンならではの巧みな創作技法であろう。巻末では大都市東京で待つ新生活への不安が顔を出す。

おそらく、私の東京赴任の途上で旧日本の最後の最後、見納めの旧日本の亡霊に出会うだろう―あの西欧に対してギリシャがあるように、人間の信仰と芸術の物語の中に、永久に、若く残ってくれなければならぬ、愛すべき旧日本よ。―自然のかもすとこしなえの詩に満足し、仏の愛の教理の完全な信仰心に充たされ、この世の日々の美しさに歓びを感ずる旧日本よ。新日本は私を待っている、長らく私が恐れていたあの大首都が、とうとう私をその渦の中に引きこんだ。そして、今私がみずからに問い続けている質問は、「一体、新日本で、幸せにも旧日本の何かに出会う機会が時々あるだろうか」ということである。

一九五九年英国文化振興会(ブリティッシュ・カウンシル)の京都支部長として来日し、一九八〇年代後半国際ペンクラブの会長を務めたフランシス・キング(一九二三−二〇一一)という作家がいる。一九九〇年の「小泉八雲来日百年祭」には来賓として松江を訪れ、「帰属と距離」と題する記念講演を行なった。短編小説集『日本の雨傘』(一九六四)はキャサリン・マンスフィールド短編賞を受賞したが、エッセイ「孤独な旅人―松江のラフカディオ・ハーン」には次の文がある。終生松江を愛したハーンの姿が彷彿とされる。

松江市を案内してくれた二人の温和で優しい教授に別れを告げると、私は今一度その小さな美しい町を振り返ってみた。町はさながらハーンの記述にあるように「眠りそのもののように柔らかな靄に浸された朝の、さだかならぬ最初のつややかな色」に染まっていた。この光景こそは、なぜハーンがこの地を終生心の拠り所として思い焦がれたのかを端的に示している。彼は松江に一年余りしか暮らさなかった。だが、それで十分であったのだ。旅人としてたまの休暇を過ごすことはあっても、住人として居なかったからこそ、松江はいつまでも彼の桃源郷であり続けたのである。(横島昇訳)

大御心を拝して
宮司 森脇宗彦

今年八月二十日未明に、広島市安佐北区、安佐南区などを襲った豪雨は、大規模土砂災害という大きな爪痕をのこした。七十四名もの犠牲者がでた。心から哀悼の意を表したい。

この災害に対して多くの国民が心を痛めたことである。この報告をうけ天皇陛下は、いち早く保養計画を中止された。宮内庁は陛下のご心配を伝えている。

これまでも天皇陛下は度重なる自然災害に対しては、その都度心を痛められてきた。

記憶に新しいのは、三年半前の東日本大震災のときのビデオメッセージである。再度このときの御言葉を紹介してみたい。

この度の東北地方太平洋沖地震は、マグニチュード9・0という例を見ない規模の巨大地震であり、被災地の悲惨な状況に深く心を痛めています。地震や津波による死者の数は日を追って増加し、犠牲者が何人になるのかも分かりません。一人でも多くの人の無事が確認されることを願っています。また、現在,原子力発電所の状況が予断を許さぬものであることを深く案じ,関係者の尽力により事態の更なる悪化が回避されることを切に願っています。

現在、国を挙げての救援活動が進められていますが、厳しい寒さの中で、多くの人々が、食糧、飲料水、燃料などの不足により、極めて苦しい避難生活を余儀なくされています。その速やかな救済のために全力を挙げることにより、被災者の状況が少しでも好転し、人々の復興への希望につながっていくことを心から願わずにはいられません。そして、何にも増して、この大災害を生き抜き、被災者としての自らを励ましつつ、これからの日々を生きようとしている人々の雄々しさに深く胸を打たれています。

自衛隊、警察、消防、海上保安庁を始めとする国や地方自治体の人々、諸外国から救援のために来日した人々、国内の様々な救援組織に属する人々が、余震の続く危険な状況の中で、日夜救援活動を進めている努力に感謝し、その労を深くねぎらいたく思います。

今回、世界各国の元首から相次いでお見舞いの電報が届き、その多くに各国国民の気持ちが被災者と共にあるとの言葉が添えられていました。これを被災地の人々にお伝えします。

海外においては、この深い悲しみの中で、日本人が、取り乱すことなく助け合い、秩序ある対応を示していることに触れた論調も多いと聞いています。これからも皆が相携え、いたわり合って、この不幸な時期を乗り越えることを衷心より願っています。

被災者のこれからの苦難の日々を、私たち皆が、様々な形で少しでも多く分かち合っていくことが大切であろうと思います。被災した人々が決して希望を捨てることなく、身体を大切に明日からの日々を生き抜いてくれるよう、また、国民一人びとりが、被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ、被災者と共にそれぞれの地域の復興の道のりを見守り続けていくことを心より願っています。(宮内庁ホームページより)

広島の土砂災害は、この東日本大震災とは規模も異なるが、災害に寄せられるその御心は、同じものであろうと拝察できる。

 『道』(天皇陛下御即位二十年記録集 宮内庁編 NHK出版)の中から災害に対する御製を拾ってみた。

六年(むつとせ)を経てたづねゆく災害の島みどりして近づききたる

(奥尻島・平成十一年)

火山灰ふかく積りし島を離れ人らこの冬をいかに過さむ

(三宅島噴火・平成十二年)

六年(むつとせ)の難(かた)きに耐へて人々の築きたる街みどり豊けし

(阪神淡路大震災被災地訪問・平成十三年)

幾すじも崩落のあと白く見ゆはげしき地震(ない)の禍(まが)うけし島

(新島、神津島訪問・平成十三年)

地震(ない)により谷間の棚田荒れにしを痛みつつ見る山古志の里

(新潟県中越地震被災地を訪ねて・平成十六年)

被災せし新潟の人はいかにあらむ熱さ厳しきこの夏の日に

(新潟県中越沖地震・平成十九年)

災害に行方不明者の増しゆくを心痛みつつ北秋田に聞く

(岩手・宮城内陸地震 ・ 平成二十年)

これらの御製を拝するとき、その被災者などに寄せられる御心に思いやりがあり、温かいものを感じざるをえない。

毎年のように被災地を訪問され、被災者を見舞い、励まし、痛みをともにされている御心がこれらの御製によって読み取ることができる。

陛下の国民とともに歩まれるこころが、国の象徴として、日本人の心の支えとなっている。

「国民」という語は、「おおみたから」と古語ではよむ。国民は、天皇陛下の宝なのである。その宝が傷つき、苦しみ、そして亡くなるということは、陛下の心を悩ますのは当然のことであろう。これが陛下と国民との関係である。天皇陛下と国民は一体なのである。

先般、宮内庁編纂の『昭和天皇実録』が完成した。これにより昭和の激動の歴史が明らかになる。そこには国民とともにあゆまれた昭和天皇の苦悩の歴史も綴られている。

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