住吉神社

月刊 「すみよし」

『秋の風物「赤とんぼ」』
照沼 好文 

 

先日は、久し振りに大気の澄んだ青山に囲まれた山里を訪れて、清しい涼感を満喫したことであった。その時「この頃、どうしたものか、この山間部でも、すっかり赤とんぼの姿が見られなくなった」と、土地の古老は語っていた。そう云えば、赤とんが翅を左右にピンと張って、風に靡(なび)く青田の上をスイスイと飛ぶ風景は、まさに秋の風物の一つであったが、そんな光景も見られなかった。

ところで、英国に生まれ、俳句の評釈書『俳句』(英文)の著書、R・Hブライス博士は、さりがなく、田園の原風景を詠んだ句を取り挙げて評釈している。

秋の季の赤蜻蛉に定まりぬ  白雄

―原因と結果という常識的な順序の、この反転を句によって、屡々気づかされる。

例えば、小鳥の囀(さえず)りが日の出を誘い、赤とんぼの出現が秋の到来の因になっている。即ち、秋の到来によって赤とんぼの姿を見るのが常識だが、赤とんぼと秋の到来とが混同し、その上赤とんぼ即ち秋の到来、秋の到来即ち赤とんぼと同じものになっている。―[註](1)

つまり、嘗ての田園の原風景には、秋と赤とんぼとは切っても切れない深いつながりがあり、秋の風物の情趣があったことを物語っている。

秋といえば、三木露風作詞・山田耕筰作曲の『赤とんぼ』の歌を思い出す人が多いのではあるまいか。

一九八九年、NHKが、「日本の歌、ふるさとの歌」を募集したとき、全国から六十五万通を超す応募があり、その中で『赤とんぼ』の歌が第一位に選ばれたという。[註](2)

一、 夕焼、小焼のあかとんぼ

負われて見たのはいつの日か

二、山の畑の 桑の実を

小籠(こかご)に摘んだはまぼろしか

三、十五で姐(ねえ)やは 嫁に行き

お里のたよりも 絶えはてた

四、夕やけ 小やけの 赤とんぼ

とまっているよ 竿の先

さて、この詩の出来た背景を考えてみると、露風の母「かた」が離婚して鳥取市の実家に帰った当時、露風は満五歳だったという。「ある日、幼稚園から家に帰ると母親が弟を連れていなくなっている。その記憶と言うのは強烈だったと思います」。[註](3)
また、この詩の出来た経緯を露風自身が記した文章に拠れば、露風が函館のトラピスト修道院で洗礼を受けた時、修道院の窓の外に赤とんぼを見て、幼い自分を背負った子守娘を思い出したという。[註](4)
「姐やの背中のぬくもりを思い出した時、露風は母を慕った遠い日の記憶を重ね合わせたのではないでしょうか」と、竜野市の「霞城館」々長、苗村樹氏は言っている。[註](5)

『赤とんぼ』の「メロディーが暗いわけで決してないのに、この歌に漂う物寂しさ」、これが「日本の歌、ふるさとの歌」の原点ではなかろうか。また、「広い芒の原に群れをなして飛んでいたり、道の石の上や秋草の穂にじっと止まっている小さい赤蜻蛉を見るとしみじみと秋を感じさせる」[註](6)日本の秋の風物と、その風景は、いつ再び私たちの眼の前に戻ってくるのだろうか。

[註]

(1)R・Hブライス博士著『俳句』(英文)第四巻、一〇六〇頁)
(2)―(5)読売新聞文化部編『唱歌・童謡ものがたり』(岩波書店、一九九九年・九月二四日)
(6)講談社版『日本大歳時記』、一〇五九頁

 

『小泉八雲と蝉』
風呂鞏

前夜の慈雨もあってか、今年六十二回目を迎えた広島原爆記念日の式典は、誠に爽やかな朝の空気の下で挙行された。

例年の八月六日は灼熱の太陽と共にやって来ていた。放射線を浴び、水を求めながら、焼け爛れた身体を川面に浮かべて死んで行った、親や兄弟を思わせる暑さの式典だった。そして、その炎暑の中で耳に響くのは、けたたましいまでの蝉の鳴き声だった。

大事にしている松を切ってしまおうかと、つい思ってしまう程、蝉の鳴き声は暑苦しく、まさに「蝉あつし松伐らばやと思ふまで」という、横井也有(注一)が詠んだ句がぴったりの原爆の日、その喧しい蝉の鳴き声が、記憶の中に続いていた。

横井也有は江戸にいたが、この句はアブラゼミを歌った句であろう。アブラゼミは夏の初めに出現する。その鳴声が、鍋で揚げ物をする時の、油に似ていることから来ているそうである。朝、日が昇る頃から、辺り一面の木という木から、軟らかい“ジーッ”という音と共に鳴き声は始まるのである。

つい原爆の日に託けて、強い陽射しと汗を連想させる、アブラゼミの鳴き声を想起した。

蝉と言えば、世界には約千六百種もいるそうだ。日本の蝉は三十五種で、種類は決して多くはないが、種類による鳴き声は変化に富んでいる。それ故、日本人は万葉の昔から、蝉の声には格別の詩情を感じ、和歌や俳句に詠んできたのである。

奇妙な事に、早い季節に出る蝉ほど、耳障りな単調な声で鳴くそうで、音楽的な蝉の出番は遅い、と言われている。最も複雑で旋律的な鳴き方をするツクツクホウシは一番最後に出てくる蝉である。

日本の蝉の中で最も有名なのはヒグラシであろう。一番すぐれた歌い手というわけではないが、美しい旋律で鳴く種としては、ツクツクホウシの次に位置する。「日を暗くする」という意味の名前を持ったこの蝉は、明け方と夕暮れだけに鳴く。ヒグラシの名は、それが鳴き始めると間もなく日が暮れるからであろうが、鳴く時刻から名をつけるとすれば、「ヨアケ」と名付けてもよいかも知れない。

朝一番早く鳴きだすものは、ヒグラシが一番で、それからニワトリ、それからカラス、次にスズメという順序だと記述している文学者もいる。

ところで、小泉セツの『思い出の記』によると、八雲の好きな物は、西、夕焼け、夏、海、遊泳、芭蕉、杉、淋しい墓地、虫、怪談、浦島、蓬莱などであった。

「そうした中で、まず書斎で浴衣を着て、静かに蝉の声を聞いていることなどは、愉しみの一つでございました。」とセツは、八雲が蝉を好んだことも教えてくれる。

八雲の作品『明暗』(一九〇〇)の【日本研究】に「蝉」というエッセイがある。

松尾芭蕉には「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」といった有名な蝉の句があるが、「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声」といった句も、このエッセイでは引用されている。

八雲は父親と母親から、アイルランドとギリシア、両方の血を受けている。ギリシアには蝉がいて、ギリシア人には蝉を愛する文化がある。八雲は日本に来て、日本人が蝉や他の昆虫を愛するのを知り、大変喜んだ。彼が「昆虫を愛するのは、世界の中で、日本人とギリシア人だけである」と述べたことはよく知られている。

蝉が好きだった八雲は、「蝉」というエッセイの冒頭で、陸運という中国の学者が書いた“蝉の五徳”を英訳している。八雲の美意識が倫理観と強く結びついていたのが判る。

一、蝉は、その頭部に、なんらかの模様、あるいは標徴をもっている。これは、書かれた文字、文体、文学を表わしたものである。

二、蝉は、地上にあるものはなにも食べない。ただ露だけを飲んで生きている。これは、蝉が清潔、清廉、礼節の心をもっている証拠である。

三、蝉は、年ごと一定の季節に現れる。これは、蝉が貞節、誠実、真実の念に厚い証拠である。

四、蝉は、麦や米の贈り物を受け取ろうとしない。これは、蝉が廉直、方正、正直であることの証拠である。

五、蝉は、自分がすむための巣というものを作らない。これは、蝉が質素、倹約、経済の念に厚い生物であることの証拠である。(長澤純夫編訳『蝶の幻想』より)

ギリシアの詩人アナクレオンも、次のような、美しい蝉の讃歌を書いている。八雲は、ギリシアの詩人と中国の賢人の間にも、思想上の一致点を発見して驚いている。

蝉よ。私達はあなたのことを、幸せな方だと思っている。なぜならば、あなたは王者のように、ほんのわずかな露を飲むだけで、立ち木の頂きで楽しそうに鳴いているからだ。あなたが野で見る全てのものが、また季節が持ってくる一切のものは、みんなあなたのものなのだ。しかも、あなたは人のものをとって、困窮に陥れるようなことはしないから、野を耕す人々の友達なのだ。この世の人々は、あなたを楽しい夏の前触れと愛で、ミューズの女神もあなたをこよなく愛する。太陽の神アポロもあなたを愛しく思い、あの高らかな声を与えたのだ。年は老いても衰えず、あなたこそは天からの贈り物、大地に生まれて、歌を好み、苦しみを知らない、血のない肉体の持ち主、―誠、あなたは神にも等しい芸術作品なのだ。(長澤純夫訳)             

(注一)名は孫右衛門。江戸中期の俳人(一七〇二―八三)。尾張藩士だったが、五十三歳で隠居後は文墨に親しみ、悠悠自適の生活を送った。天性器用で諸芸にすぐれ、特に「鶉衣」などの俳文で名が高い。俳系は美濃派、句風はこっけい洒脱である。

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