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月刊すみよし著者紹介
~照沼好文氏~
昭和三年茨城県生まれ。元水府明徳会彰考館副館長。
著書『人間吉田茂』等多数。昭和六一年「吉田茂賞」受賞。
~風呂 鞏氏~
早稲田大学大学院卒、比治山大学講師
月刊 「すみよし」
『李登輝氏の来日』
照沼好文
先般、台湾の前総統、李登輝氏が訪日(五月三〇日―六月九日)して、いろいろと話題を呼んだ。今回の李氏の来日は、学術・文化交流と俳人芭蕉の『奥の細道』探訪が主要な目的で、あくまでも私的な旅行であることが報道されている。
李氏は大正十二年(一九二三)生まれで、昭和二十年(一九四五)の日本の台湾統治が終わるまで日本人として徹底した教育とエリート訓練を受け、「初等教育以来、先生たちから日本人はいかにすばらしい心を持っているかという教育をうけつづけたんです。二二歳まで受けた教育はまだ、のどもとまで詰まっているんです」(橋本五郎氏の「『政治家の品格』を考える」に拠る。『読売新聞社』二〇〇七年六月九日号所収。)と、李氏の人格形成の一端が語られている。
ところで、李氏の訪日で最も話題になったのは、六月七日の靖国神社参拝であった。『神社新報』(平成十九年六月十八日号)に拠ると、李氏の二歳年上の実兄、李登欽氏(岩里武則命)は先の大戦で、日本海軍の兵士として出征し、フィリピン・ルソン島のマニラにおいて、昭和二十年二月に戦死されたという。以前から、実兄の祀られている靖国神社参拝は、李氏の念願であったので、その希望が初めて叶えられ、社頭で兄弟の対面ができたことは、最大のよろこびであり、また本望であったと思う。
当日、李氏は昇殿参拝されたが、その前に「兄に対する尊敬の念を示すためにも参拝しなければならない」と述べ、「兄の遺霊を守っていただいて靖国神社には感謝している」と心から謝意を表されている。
李氏の日本訪問最終日の九日、李氏は東京都内の日本外国特派員協会で記者会見を行っているが、新聞報道(『読売新聞』六月十日号)に拠ると「靖国神社は、国内問題を処理できない中国と韓国によって作りだされたもの」と、日本の指導層による靖国参拝を非難する中国、韓国を逆に批判した。また、両国の靖国批判に対して「日本の政治は弱かった」との認識を示した。李氏は「自国のために亡くなった若い人をおまつりするのは当たり前のこと。批判される理由はない」と述べたという。
他方、敬虔なクリスチャンである李氏が、同行した曽野綾子氏に「靖国神社の問題は、常に個人の、家庭の中で考えるべき問題だ。信仰や魂という事柄については、個人がそれぞれの考え方を持っている」と語ったことを、曽野氏は明らかにしている。(『神社新報』六月十八日)
ともあれ、以上のように李氏の言動に触れてみると、李氏の勇気ある言動、或いは堅固な信念の人であるという印象を受けると同時に、いま日本人に失われているものを、李氏の人柄から学べるような気がしてならない。
なお、靖国神社には、台湾出身者二万七余柱の英霊が現在、奉祀されている(同上)。また、英国貴族出身のポンソンビ博士は、日本内地の招魂社に相当する台湾の建功神社について昭和八年に発表している。博士の論文に拠ると、同神社は昭和三年七月台湾総督府によって創建されたことがわかるが、博士が同論文を執筆当時、建功神社には、ご祭神として、日本内地出身者一三、一八五柱、台湾出身者三、三三九柱、台湾の原住者二八一柱、合計一六、八〇五柱の英霊を合祀していることを報告している。云うまでもなく、ご当社は台湾のために尊い生命を殞した方々を、職業、人種の別なく、神道の形成でお祀りしている。ポ博士は、とくにご当社の神社建築の特色にも詳しく触れている。
『湖の南』
風呂 鞏
今回のタイトルは、富岡多恵子さんの新作『湖の南』(平成十九年三月出版)から採ったものである。“湖”という文字を見て、直ちに琵琶湖を連想する人もいるであろう。更に、その“南”から大津を想起する勘の鋭い人もいるであろう。
しかし、これで『湖の南』と題するこの本が一八九一(明治二十四)年五月十一日、滋賀県大津において発生した、例の“大津事件”を取り扱ったものであると推理する人は、余程歴史に詳しい方であろう。そうゆう方にとっては、大津事件が“湖南事件”とも称されるなどという説明は蛇足であろう。本誌「すみよし」の愛読者で、平成十八年五月号の記事「小泉八雲と大津事件」をお読みいただいた方には、すでに常識かもしれない。
大津事件とは、言うまでもなく、当時来遊中のロシア皇太子(日露戦争の時の皇帝で、ロシア革命で銃殺されたロマノフ王朝最後の皇帝となるニコライ・アレクサンドロヴィッチ)が人力車で大津市京町にさしかかった時、サーベルを抜いた警備の巡査・津田三蔵に突然襲われ、頭と顔に重傷を負った大兇変である。
傷は頭部右側こめかみに、前より後ろにかけ長さ九センチメートル、深さ骨に達し、長さ七ミリメートル、幅一ミリメートルの骨片を斬り取りたる切創1ヶ所、同部の下方に当り、前より後ろにかけ長さ七センチメートル、深さ骨膜に達する切創1ヶ所であった。幸いというべきか、皇太子の生命に別状はなかった。
事件後ロシアの報復を怖れた明治政府は津田を死刑にしようとしたが、大審院々長児島惟謙がその圧力に屈せず司法権を守り、通常の謀殺未遂罪として、死刑ではなく無期徒刑の判決を下した。津田は北海道釧路集治監の獄中において、三十六歳で病死した。
津田三蔵が犯行に及んだ動機については、明治の国家体制や国際関係などから色んな議論が噴出したが、結局はっきりしたことは判らずじまいであった。
『坂の上の雲』の著者司馬遼太郎が、「精神医学でいう狂人ではない。思想的狂人であろう」と述べ、次のように書いている。
憂国的感情という、ときにもっとも危険な心情をうみやすい精神がかれにおいてはげしい。それがはげしすぎるわりには、その心情を秩序づけるための知識と良識がきわめてとぼしく、結局は論理を飛躍させ、行動で自分の情念を表現しようとする。津田は素朴な
攘夷主義の信者であった。さらに日本が欧州の大国とくにロシアから侵略をうけようとしているという、そういう危機意識で心をこがしていた。
しかし、巡査津田三蔵は裁判所の精神鑑定によっても、「精神医学でいう狂人」でなかったことが報告されている。果たして「思想的狂人」あるいは「素朴な攘夷主義者」であったのだろうか。
『湖の南』の著者である富岡さんは、大津市歴史博物館の紀要に載る津田自身の七十六通に及ぶ手紙、裁判記録、さらにニコライの日記(十四歳の時から銃殺される五十歳までの日記五十一冊)を調べ、津田三蔵という歴史の変革の中で翻弄され、追い詰められていった、生真面目で不器用な一人の男を浮かび上がらせた。
津田は津藩(三重県)の藩医の次男として幕末に生まれた。十三歳で明治維新、十六歳で廃藩置県を経験する。さらに二十代になると新政府軍の兵士として西南戦争に巻き込まれて行く。西南戦争では左手指間に貫通するタマ傷を受け、勲七等の勲章をもらっているが、その青春は気の毒なほど、時代の変革期と重なっているのである。
富岡さんは、津田がなぜ事件へと向かったのか、明確な答えを作中で披露しているわけではない。しかし、家族思いで、向学心もありながら、近代化の中でバランスを失ってゆく“かわいそうな人”に、彼女自身執筆意欲を大いに刺激されたことは確かである。
ところで、この大津事件で日本全土が憂慮と不安に包まれていた時期、畠山勇子なる一女性が京都府庁の前で、ロシアに罪を詫び、天皇陛下のお心を安んずるため自決し、大津事件の烈女として喧伝された。
明治二十三年四月に来日し、九月から島根県尋常中学校で英語を教えていた小泉八雲は、教頭の西田千太郎から情報を得て、「天子様ご心配」に始まる「勇子―ある美しい思い出」(『東の国から』所収)を書いた。また明治二十八年の京都旅行の際、八雲自身勇子の墓所である末慶寺を訪れ、その霊を弔ったことを「京都旅行」(『仏の畑の落穂』所収)に記している。
さらに、次のような、八雲自筆のロシア皇帝宛て見舞い電報の英文下書きが見つかっている。山陰新聞主筆岡本金太郎の依頼であったが、仏語で書く前に英語で書いて西田教頭に示した原稿であったと思える。(西田家寄贈により島大図書館蔵。梶谷泰之訳)
サンクトぺテルブルグ 日本全権公使閣下
大津においてのまことに痛ましき御奇禍に対し、日本最古の出雲の国の全人民はひたすら深く、悲嘆(sorrow)(初め「苦痛(pain)」としてのち、これを「悲嘆」と訂正している)を披瀝申し上げている旨、露国皇帝陛下に御伝奏を乞う。 山陰新聞社
松江で武家の娘と結婚した八雲が、大津事件、特に畠山勇子の武士道的覚悟に関心以上の気持ちを抑えられなかったのは、自然であろう。しかし、津田三蔵の性格や犯行の動機に関しては判然とせず、当時の八雲にそれを語ってくれる、富岡多恵子の如きアシスタントもいなかった。津田三蔵という生真面目な男の痛ましさを多少でも聞く機会があれば、八雲は必ずや自己の作品中に取り入れ、新たなる津田三蔵像を描き出していたに違いない。津田三蔵はハーン文学の中で、永遠の生命を与えられていたかも知れないのである。
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