住吉神社

月刊 「すみよし」

『千の風になって』
宮司 森脇 宗彦

今年は三月はじめまでは暖冬がつづいた。そんな中にT家の納骨祭を執り行った。

Tさんのお母さんは、今年正月二日に帰幽された。新年そうそうのあわただしい中の神葬祭であった。Tさんの話では、お母さんは暮れまで元気で、正月には関西方面にいって歌舞伎でも鑑賞しようと計画していたという。そんなに元気だったということだ。体の不調を訴え、病院に搬送され突然の死であったという。八十七歳であった。その帰幽の日から五十日がすぎていた。

仏教では四十九日が忌明け、神道では五十日にあたる。一日神道のほうが長い。この一日の差異はあまりこだわることはない。仏教が七日を区切りにするのに対して、神道は十日を区切りとしているから一日の差が生じた。悲しみ、心の落ち着きを取り戻すにはこれくらいの日数が必要で、丁度いい日数かもしれない。古人の経験的な知恵である。Tさんもかなり心の落ち着き、整理がついたような様子が窺えた。

二月のこの日はすこし曇っていた。Tさんの送迎の車の中で、今年帰幽したお母さんのこと、数年前に帰幽したお父さんの想い出話を聞きながら墓地にむかった。Tさんの子供の時代のこと、学生時代のことなど私的な話をしてくれた。その話の中で、霊についての話が興味深かった。

両親の帰幽の時の知らせの現象、偶然に起った現象というものではなく、霊の存在を感じるものであったという。霊の存在の話となると、目に見えないものであるから、信じない人も少なくない。Tさんは霊の存在を信じるという。母とは霊の話をよくした。亡くなる直前までしていたという。

Tさんが「千の風になって」という歌を知っているかと質問。正直いって恥ずかしいがその歌は知らないと答えた。「いまこの歌の心境が分かるんです。」と話される。

「千の風になって」という歌は今大ヒットしているという。昨年大晦日のNHKの紅白歌合戦でも歌われた。テノール歌手の秋川雅史さんが歌っていると聞かされる。テレビの歌謡番組などはあまり見ないので、そのヒットしていることは知らなかった。私などは年末年始、まして紅白歌合戦どころではない。節分が終わってからが、正月だ。

Tさんの話す「千の風になって」の歌が、私のこころのどこかにひかかっていた。それから数日したある日、ラジオから流れるこの曲をきくことがあった。また、あるコンサートで女性歌手がこの曲を歌ったのを聞いた。あるテレビでは、歌手秋川さんをドキュメントしていた。秋川さんの歌唱力もヒットに一役かっている。Tさんの言われる意味も段々と理解できるようになってきていた。これほどまでブームになっているこの曲の魅力を改めて考えてみた。作詩者不詳、翻訳詩・作曲が新井満さんだ。翻訳詩はつぎのようになっている。

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹き渡っています
秋には光になって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る
私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 死んでなんかいません
(前章の「千の風に~吹き渡っています」・二回繰り返し)
あの大きな空を
吹き渡っています

翻訳詩・作曲の新井満さんはこの歌の誕生秘話を、「『千の風になって』は、いかにして生まれたか?」の中で次のように書いている。

川上家は、奥さんの桂子さんと三人の子供たち五人家族で「とても明るく幸せな家族生活を営んで」いた。ところがある日、桂子さんはガンにかかり急逝。「後に残された川上君と子供たち三人のおどろきと悲しみは尋常ではありません。絶望のどん底に蹴落とされたのも同然です。なぐさめの言葉を言う以外、私にできることはありませんでした。しかし、そんなものが何の役に立つはずもありません。」と新井さん。

桂子さんは、地域で地道な社会貢献活動を行っていて、仲間たち が協力して追悼文集「千の風になって-川上桂子さんに寄せて-」をだした。その文集の中で、ある人が「千の風」の翻訳詩を紹介していた。新井さんは「一読して心底から感動した。」という。
〈よし、これを歌にしてみよう。そうすれば、川上君や子供たちや、あとに残された多くの仲間たちの心をほんの少しくらいはいやすことができるのではなかろうか……〉そう思った。

何ヶ月もかけて原詩となる英語詩を探し出し、それを翻訳して、日本語訳詩を作り、
それに曲をつけて歌唱したのが、この度の「千の風になって」という歌だ。

私家版のCDを数枚だけプレスし、そのうちの一枚を川上さんへ送った。CDは桂子さんを偲ぶ会で披露され、集まった人々は一様に涙を禁じ得なかったという。そして泣きながらこの歌を歌ってくれた。

それから世に出ることとなったという。そして今のこのブームである。

このブームを読売新聞(平成十九年三月十四日)が新井満さんをとりあげていたので、記事を紹介したい。

このブームについて新井さんは「この詩の内容は、死者が生者へ送った思いやりのメッセージ。その発想の転換の鮮やかさが、聞く人の心をつかんだのでしょう」と語っている。また「読者のはがきで最も多かったのが、死生観が変わったというものでした。大切な人が亡くなって手の届かないところへ行ってしまったと思っていたけれど、実は風や星や鳥になって自分を見守ってくれている。一度切り離された絆が結び直されたと感じた人が多かったようです」という。さらに「実はどんな世界宗教も、その古層を掘り起こせばアニミズムがあるんです。八百万神を信仰してきた日本人には、とりわけなじみやすい思想でしょう。心の奥に眠るアニミズムの考え方に、この歌が刺激を与えたのかもしれません」と、アニミズムの世界に通じる歌という。アニミズムというのは、あらゆるものに霊魂が宿るという霊魂観をいう。神道の霊魂観に類似しているといえる。

新井さんのこの歌にこめる「おもいやり」のメッセージを、私なりに解釈をしてみたい。

先ずタイトルの「千の風」のわけがわからない。けなしているのではなく、英語のわからない私など風を数えることができるかという疑問だ。勝手に解釈するといろいろな風、さまざまな風ということで、数が多いのを千といったのであろう。日本の神様でも八百万神というように……。

歌いだしは楽しい文句ではない。墓といえば死を連想する。人はなくなれば墓に納まる。墓は遺骸、遺骨を納めるところだ。「そこに私はいません」「眠ってなんかいません」「死んでなんかいません」といえば「ええー! どうして?では何処に?」と疑問におもう日本人は少なくない。

日本人は春秋の彼岸には墓参りをして、祖先を供養してきている。墓は遺骸、遺骨を納め、死者の魂の眠っているところとかんがえている。日本人の墓にいだく感覚とは少し異なると思うのも当然であろう。墓にこだわらないこの詩は、古代の日本人のかんがえに近い。

この「千の風になって」は日本人の墓によせる思いをかえさせる。というより、古代人の霊魂観が見て取れる。新井さんは、アニミズムという言葉を用いている。アニミズムを忘れていた現代人の心にそれを呼び覚ましてくれたものといえる。

神道では死後の魂の行方について概ね次のように考えている。この世に生を受けるのは祖先の御霊を受けて誕生し、死後にはその御霊は家の守り神となり、永遠に往き続けるという。またその御霊はそば近くにいて守ってくれるという。

古代人の霊魂観は、アニミズムの世界である。古層というものであろう。古代の日本人は霊魂は、時空を飛び越えて、「天翔り、国翔り」するものと信じている。「千の風になってあの大きな空を吹き渡って」いる。そして四六時中あなたのそばにいる。亡くなっても「泣かないでください」なのだ。

「朝は鳥になって目を覚まさせてくれる」とあるように、古来より鳥は「たましい」とのかかわりが非常に深い生き物とされる。日本の神話では、鳥が葬儀の重要な役目を担って登場する。また、鳥はあの世とこの世を取り持つもので、御霊を運ぶものという考えが神話には見られる。まさに「死んでいない」というのは御霊、霊魂が不滅ということをいったものだ。人間は自然の一部で山川草木というものと私たちは一体であって常に交流している。魂は永遠に生き続け、それは自然の雲になり、霧になり、また鳥になり、雷になり、森羅万象になってあらわれる。アニミズムとは、自然の中に霊性を見るかんがえだ。風、光、雪、星、鳥など森羅万象に現れるという。この思想こそアニミズムなのだ。これは世界の宗教の古層だといわれるが、この思想はいま注目されている。

「千の風になって」は、日本人の原郷への回帰のような歌だ。アニミズムは人間本来の生活のなかにいきていた。文明の進歩によってその心を忘れかけている。

近年アニミズムの世界を描いたので思い出されるのは、宮崎駿の映画だ。「となりのトトロ」「千と千尋の神隠し」などのアニメ作品に生かされている。現代に訴える何かがある。

今また地球温暖化、環境の問題はアニミズムを取り戻すことが必要であると、日本文化研究センター教授の安田喜憲さんは『一神教の闇―アニミズムの復権』(中公新書)において訴えている。

「日本人の心には森と海の文明と、稲作漁労文明のエートスが深くインプットされ」、「美しい本来の日本文明を創るためには、まず心を美しくすることだ。その美しい心の原点はアニミズムにある。」と指摘する。そして、「アニミズム・ルネッサンスによって『美と慈悲の文明』『生命文明』を復権し、そこに活路を見出したい。」と示唆を与えている。安田氏が最も主張するところは、「アニミズムの神々を殺したがゆえに現代の地球環境問題も起こった」と指摘する点であろう。

アニミズムは未開の信仰ということで、キリスト教の布教によって姿を消していった。西欧も、そしてアジアもそうなりつつある。森を伐採し、森を破壊したのはその一つの現われだ。

しかし現代人が忘れてしまったアニミズムの信仰が、日本にはいまだに生きており、深層心理として持ち続けている。そんな時千の風が吹いてきた。

「千の風になって」のヒットはそんな傾向への警鐘ではなかろうか。スピリチャリテー(霊性)がいま問われている。心の叫びだ。

さわやかな春の風が、神の心を、魂をともなって吹いてくる。そんな春が、桜の開花とともにやってきた。

英語の詩をつけておく。

A THOUSAND WINDS

Do not stand at my grave and weep,
I am not there, I do not sleep.

I am a thousand winds that blow;
I am the diamond glints on snow,
I am the sunlight on ripened grain;
I am the gentle autumn's rain.

When you awake in the morning bush,
I am the swift uplifting rush
Of quiet in circled flight.
I am the soft star that shines at night.

Do not stand at my grave and cry.
I am not there; I did not die.

『昭和の日に想う』
照沼 好文

従来の四月二十九日「みどりの」は、ことしから「昭和の日」と改められた。言うまでもなく、四月二十九日は、先帝昭和天皇のご誕生日で、戦前には「天長節」と称し、戦後には占領軍の勧告によって、旧制の祝祭日が廃止されると同時に、昭和二十三年制定の日本国憲法のもとに、新しい国民の祝日として、「天皇誕生日」と改称されたが、先帝のご崩御にともなって「みどりの日」となり、改めてこの度「昭和の日」と定まり、昭和天皇のご聖徳を偲ぶ日となった。

ところで、国民の祝日として新たに「昭和の日」が出発するのを機会に、ここで「昭和」という時代のもつ歴史的意味について考えてみよう。

幸いに、私の手元に、日本外交・政治史の権威者として、国際的にも著名な栗原健博士の高著『天皇―昭和史覚書―』(原書房・一九八五年刊)が置いてある。私は外交・政治史については全く門外漢であるにもかかわらず、栗原博士のご生前、直接博士から右の著書を頂戴した。

とくに、本書は昭和天皇のご動静を軸として、外交・政治に関する根本資料を駆使し、昭和史を構成しているが、本書の内容を総括した「結び」の項が注目される。この冒頭に、著者は、

太平洋戦争勃発にいたった歴史的原因については、内外両面にわたり広く究明すべきで、現在のところまで、一様に断定することは困難である。

と述べながらも、さきの大戦に突入する前後の経緯を、天皇のご動静を中心にして、国際政治史、国内の政治史の両面から考察されている。

まず、戦争勃発の歴史的原因を、戦争に突入前夜の情勢から、つぎのように述べている。

国際政治史的には、強大諸国家がそれぞれ権益の擁護また拡大或いは諸種のイズムを追って、帝国主義的な権力争奪を行ったことにあるように思われるし、一方日本の国内政治史的には、武断的急進勢力が国家の政治権力を掌握して、無分別な行動をとるにいたったことにあるようにみられる。

そして、右のような歴史の流れの中で、

この間、天皇は平和的合理主義的な御意図から、常に国際平和を念願され、一方武断的急進勢力の行過ぎを阻止されようと努力われてこられた。しかし、天皇の権威と御聡明をもってしても、国の内外を激しくさかまき流れる歴史の勢いを大きく転換させることは困難であった。

と、天皇のご動静を伝え、さらに戦争の進展、内外の情勢の変転、そして戦争終結に至る経緯に言及されている。とくに、戦争終結について、

この時天皇の終戦終結、平和再現の聖断が下ったのである。ナチス独逸は破滅的抗戦をとことんまで続けて敗北した。しかし、日本では、ナチスと同じ勢力を有し、なおかつ数百万の兵力をかかえていた軍部を中心とする抗戦派が、さしたる混乱をみず平穏裡に終戦をなし得た事は、なんとしても「天皇の権威」と「天皇の積極的な御努力」が決定的な力であったというべきであろう。…

このように、さきの大戦終結に際して、「天皇の権威」「天皇の積極的な御努力」によって、「平穏裡に終戦をなし得た」ことを、著者は力説強調され、昭和天皇のご聖旨と、「昭和」という時代から得た教訓を、こう結んだ。

私は冷厳な歴史の現実の姿をとおしてものを考えたい。そして昭和の戦乱の歴史は、断じて二度と再び繰り返してはならないと願ってやまない。この私の願いは、国内的には素より、国際間に対してもそうである。原爆や水爆の現われた現在、何人も戦争の惨禍、大戦の教訓を想い起さないものはないであろう。「万世の為に太平を開かむ」とされて、戦争終結の御勇断を下された天皇の御意図は、その意味でも忘れてはならないことだと思う。

 

『八雲の三男』
風呂鞏

日曜美術館はNHKの「顔」とも言える人気番組である。「NHK日曜美術館30年展」が広島県立美術館で二月十五日から三月二十五日まで開催された(注一)。配付されたチラシには次の説明が読める。

「日曜美術館」は、美術番組の草分け的存在として、長きにわたり多くのファンに親しまれてきました。一九七六(昭和五十一)年四月の放送開始から、放送回数が一五〇〇回を超えて現在も続く、世界でも他に類を見ない長寿美術番組です。このたび、放送開始三十周年を記念して、特別展を開催します。

初日の二月十五日、広島県立美術館を訪れた。会場は第一章「夢の美術案内」、第二章「作家が作家を語る」、第三章「アトリエ訪問」、第四章「知られざる作家へのまなざし」の四章に分かれ、それぞれの箇所にビデオが設置されていた。そこでは、展示された作品を中心に、番組出演者が作品・作家への強い思いを込めて語る様子や、作家本人のアトリエでの制作風景など、貴重な映像が紹介されていた。

第四章「知られざる作家へのまなざし」の中に、昭和六十三(一九八八)年二月七日に放映された小泉清の絵があった。〈人物(女)〉、〈不動明王〉、〈これは富士の雪がとけて三島に来る〉の三点である(注二)。

小泉清は明治三十三(一九〇〇)年、東京で生まれた。父はギリシア生れのアイルランド人で、日本に帰化した小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)であり、母はハーンが松江で結婚した武家の娘セツである。父・八雲は清が四歳の時、狭心症の為五十四歳で死去している。長男一雄、次男巌の二兄がおり、清は三男である。妹には寿々子がいる。

清は、大正七(一九一八)年、十八歳で旧制早稲田中学を卒業し、東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科予備科へ入学した。美校在学中に知り合ったモデルの針シヅと結婚。一男一女をもうける。この結婚が小泉家の反対に遭い、親族と疎遠になると共に、自活せざるを得なくなった。学生時代に身につけたバイオリンの腕を生かし、映画館のオーケストラで生活費を稼ぐ日が十年ほど続いた。昭和九(一九三四)年、母の遺産が入ったのを機に、中野区鷺の宮に画室つきの新居を築いたが、生活の糧を得る為に一部はビリヤード場にしている。

清が展覧会に作品を出品したのは、戦後の昭和二十一年、彼が四十六歳になってからであった。第一回新興日本美術展へ「向日葵」ほか三点を出品、読売賞を受賞した。以後約十五年間、画家としての活動は続いたが、妻シヅを病気で失った翌年、昭和三十七(一九六二)年二月二十一日、長男宅に「疲れた、休む」と電話したのち、ガス自殺を遂げた。享年六十二歳である。

海、裸婦、不動明王、自画像を主なテーマとして、チューブから押し出した絵の具を、じかに画面に置く、大胆な“チューブ描き”など、“重厚で、唸りを上げるような表現、めくるめく色彩の重なりの中に展開する小泉清の芸術”(注三)は、「日曜美術館」で「漂白のフォービスト」として取上げられて以来、若い人達に爆発的な人気を集めている。

昭和二十五年六月、小泉八雲生誕一〇〇年記念小泉清個展が松江市公会堂で開かれた。五〇歳になった清は、これを機に中学同級の秦一郎を伴い松江、隠岐島など一ヶ月余りにわたり旅行し、出雲にも足を伸ばした。へるんの常宿として知られる大社の「いなばや」に投宿した清は、まるで懐かしの父に再会したかのごとく感激の余り涙を流した。そして「雨の嫁ヶ嶋」と題する水彩画を旅館に寄贈している。

三男の清は性格が最も八雲に似ていると謂われる。また、創作への厳しい姿勢、対象へのあくなき追求力を見せる小泉清の作品は、八雲の芸術的才能を多分に受け継ぎ、むしろ西洋的な血を感じさせる。八雲の生誕百年祭を契機に、母親のことで、長男の一雄と仲たがいもしたが、彼の日記には次の言葉が読める。

西欧的追求か東洋的解脱感か、俺の血管の中には西欧の血と東洋の血が闘っている。自分の中で対立する西洋的なものと東洋的なものをどう解決していくか。

折りしも、千葉県我孫子市の白樺文学館で「バーナード・リーチ展―東と西を越えてー」が開催された(注四)。陶芸家バーナード・リーチは、十九歳頃小泉八雲の著作に親しみ、マイノリティの異文化に対する好奇心を育み来日した。柳宗悦や濱田庄司らと創めた民芸運動で有名なB・リーチは「東洋と西洋の結婚」という言葉を残している。

しかし、西洋的なものと東洋的なものをどう解決していくか、という問いこそ、父八雲が生涯を通じて闘い続けた課題であったし、明治以降の日本そのものが抱える大きな課題の一つである。斯かる観点から小泉清の作品および彼の生きざまを見ていくと、彼の内面的葛藤の中に今のわが国が有する苦悩が投影されており、彼への親近感が増幅される。

(注一)「NHK日曜美術館30年展」は、二〇〇六年九月の東京展から始まり、京都、広島、盛岡、長崎、静岡の六会場で、二〇〇七年七月まで巡回展示される。余談だが、稲田公子主宰の広島文芸懇話会(二月例会)で、角田新・広島県立美術館主任学芸員の講演“「日曜美術館」で振り返る戦後の美術”があった。
(注二)平成十七年十一月二十一日の中国新聞文化蘭に「奔放原色の油彩 八雲の三男小泉清の40点広島で公開」の記事がある。「不動明王」が、カラーで紹介されていた。
(注三)古浦秀明「フォービスト・小泉清」(山陰中央新報、一九八八・七・十三)
(注四)二〇〇六年九月から二〇〇七年三月三まで。九月には、小泉凡氏の講演「小泉八雲とB・リーチ」があった。

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