住吉神社

月刊 「すみよし」

『日本回帰へ』
宮司 森脇 宗彦

二月十七日。

お笑いタレント陣内智則さんと女優藤原紀香さんが、神戸市の生田神社で結婚式を挙げた。人気ビックタレントの結婚式とあって、昨年の結納以来マスコミの騒ぎも日に日に増していた。昨年から生田神社のほうも、連日多くの参拝者で賑わっているという。挙式当日は一般参拝中止とする対策がとられたことをみても、そのフィーバーぶりは異常といえる。

この日、新郎陣内智則さんは衣冠束帯、新婦藤原紀香さんは十二単という平安貴族の正装衣装で式に臨んだ。日本の伝統的衣装というのも、二人の日本を意識した心の現われだろう。

生田神社は、神戸市生田区に鎮座し、古代神功皇后(じんぐうこうごう)凱旋のときに神教によって、河上五十狭茅が稚日女尊(わかひるめのみこと)を祀ったのにはじまる。縁結びの神として、崇敬を集めている有名大社だ。二人がこの神社で結婚式をすることに決めたのは、両人が関西出身で地元であり、幼少のときから参拝し、親しんでいた神社ということだという。幼いときから想い出のある神社を選択したことに敬意を表したいし、日本人らしい選択、いま求められている日本人の心ではなかろうかと思うのは神社人だからだろうか。

当日の結婚式を中継したテレビの視聴率二十%を超えるという高視聴率を達成している。国民の関心も、かなり高かったことを表している。日本人の熱しやすくさめやすいというか、この両人の結婚式で神社、また式場の神前式の問い合わせが急増しているともいう。両人の衣冠束帯、十二単の衣装にも関心が集まっているという。特に若者が日本に関心を示しているという。

近年神社、またホテルなどの施設の神前結婚式数が減少している。戦後のある一時期までは、殆んど神前式であった。現在は神前式以外にチャペル挙式、人前式など形式も多様化している。神前式の減少は、伝統的な家意識の崩壊、地域共同体の弱体化、そして個人と個人の愛情中心の考えに変化したことなどが原因として指摘されている。確かに結婚式に、媒酌人が殆んど無くなったこともそれを象徴している。

これらのことを考えるのに、石井研二氏『結婚式―幸せを創る儀式』(NHKブックス平成十七年十二月発行)には示唆に富む指摘が少なくない。

挙式様式の選択決定について、

「現在挙式の様式を決定しているのは両親や親族ではなく、結婚式を挙げるふたり、とくに新婦であることがわかっている。挙式様式の積極的選択には新婦の意向が強く働いている。」

と両親、親族より両人とくに新婦の意向が反映されていると指摘する。

神前結婚式からキリスト教結婚式の移行については次のように指摘する。

神前結婚式からキリスト教結婚式への移行は、価値観もしくは人間関係に関する二つの現われである。一つは「親・家族・親族の意向」から「ふたりの希望」への移行である。いま一つは「一般的・無難・人並み」から「個性」への移行である。

そして、「仲人の急速な減少や、海外挙式の増加は、こうした変容の象徴的な現象である。」という。

「家」と「家」との結合の儀礼としての結婚式は、あきらかに個人と個人が愛情によって結ばれる事実を表明して見せる儀式へと変化したのだった。

と現在の結婚式を分析されている。

こういったのが結婚式の現在の状況であるが、いわゆる神前結婚式の歴史を振り返ってみたい。

現在の様式の神前結婚式の始まった時期については、諸説がある。石井氏は、

「最も一般に流布している説は明治三三年の皇太子の神道によるご成婚における影響を受けた人々が、明治三四年に日比谷大神宮(現在の東京大神宮)において挙式したのが初めての神前結婚式である。」としている。

明治三十三年のご成婚というのは、明治三十三年五月十日、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)、公爵九条道季の四女節子姫(後の貞明皇后)とのご成婚が宮中の賢所で行われたことをいう。このご成婚は、国家的儀礼で、神道式で実施されたこと意味があったと石井氏は指摘する。「賢所大前の儀」が所謂神前結婚式という様式となり広まった。

明治からいえば百年の歴史しかない神前結婚式であるが、それまでにそのような様式が無かったわけではない。平井直房氏は、江戸時代になると結婚は神の計らいであり恵みであるという信仰が芽生え、江戸中期になると文献上に、婚儀の席に神が臨在するという意識が現われていたと指摘している。(「神前結婚式の源流」)

結婚ということを考えると、男女の結びつきは実に不思議なものである。神の計らいといえる。

日本の創世神話を記す『古事記』『日本書紀』にも、イザナギ、イザナミの妹背二柱の神によって国土を生み、神々を誕生させられている。この二柱の婚姻の儀式は、天の御柱を廻って結ばれたとあり、神の意志なくしては結ばれないことを物語っている。神聖な儀式が結婚式だ。その神聖さがいま問い直されている。

石井氏は、「たとえいっときであったとしても、自分たちを超えたなんらかの聖性や力を借りずに、安定した関係を恒久的に維持することが可能なのだろうか。」と指摘する。

時代とともに形は変わる、しかし心は失うことがないようしなくてはならない。

陣内智則、藤原紀香両人の神社での結婚式を機会に、もう一度日本の伝統文化を見直すきっかけになればと思う。

『うれしいひなまつり』
照沼 好文

日本の四季折々には、その季節にだけ催される行事が伝わっている。そして、その行事には、成人したのちにも幼少の時代に経験した行事を、なつかしく思い起させるような唱歌或いは童謡がある。いつの間にか、季節毎の行事と、唱歌・童謡が結びついて一つになっている。

やはり、三月と云えば、三日の桃の節句雛祭であろう。この雛祭には、「うれしいひなまつり」(サトウハチロー作詞・河村光陽作曲)の童謡が、自然に口遊(くちずさ)まれる。

一、あかりをつけましょ ぼんぼりに

お花をあげましょ 桃の花

五人ばやしの 笛太鼓

今日はたのしい ひなまつり

二、お内裏様と おひな様

二人ならんで すまし顔

お嫁にいらした 姉様(なえさま)に

よく似た官女の 白い顔

三、金の屏風に 映る灯を

かすかにゆする 春の風

すこし白酒 召されたか

赤いお顔の 右大臣

四、着物を着かえて 帯しめて

今日は私も 晴姿

春の弥生(やよい)の このよき日

なによりうれしい ひなまつり

ところで、『万葉集』(巻十九、四一五三)をみていくと、天平勝宝二年(七五〇)の三月三日、大伴家持(おおともやかもち)越中(富山県)の官舎で宴を開いて、

漢人(からびと)も舟を浮べて遊ぶとふ

今日ぞ我が背子(せこ)花縵(はなかづら)せよ

と詠んでいる。―唐人も舟を浮べて遊ぶという三月三日の今日ですよ、吾が友よ、花縵をして遊びなさい。(澤潟久孝博士の口訳)

このように、日本でも三月三日の桃の節句は、古くから上流に伝わったが、中国の古風俗に、三月上巳(じょうし)の日に、水辺に出て災厄(さいやく)を払う行事があり、それが後に曲水(ごくすい)の宴となって、桃の酒を飲む風習を生んだという。(『日本大歳時記』講談社版)さきの家持の歌も、こうした漢土の風俗を念頭において詠んでいるが、日本固有の行事では、巳(み)の日の祓(はらい)と称して、人形(形代かたしろ、撫物なでもの)で身体を撫で、身体のけがれを移して、川や海に流したが、のちにこの祓の具としての人形から、美しく着かざって雛遊びをする風習が宮廷、貴族のあいだに起った。また、雛が立派な坐雛(すわりびな)になったのは室町時代からで、もとは家々で手作りの質素なもので、節句がすむと川や海へ流していた。(前掲同)今でも、この古い風習は「雛流し」の行事として行われている。

最近、とくに各地の博物館や、古い宿場町などで、町おこしの一環として、昔からの商家に保存されていた雛人形を、観光客の呼物に飾っているところが多い。

 こうした機会に、雛人形や雛の調度品などに施されている細工の繊細な技術、美術工芸としての「美」などに触れて、私たちの先人の優れた文化意識を吸収したいものだ。

 

映画『不都合な真実』
風呂鞏

司馬遼太郎が小学生用の教科書に「二十一世紀に生きる君たちへ」(注一)と題して次のように述べていることは良く知られている。

昔も今も、また未来においても変わらないことがある。そこに空気と水、それに土などという自然があって、人間や他の動植物、さらには微生物に至るまでが、それに依存しつつ生きているということである。自然こそ不変の価値なのである。…(略)…歴史の中の人々は、自然をおそれ、その力をあがめ、自分たちの上にあるものとして身を謹んできた。この態度は、近代や現代に入って少し揺らいだ。―人間こそ、一番えらい存在だ。―という、思い上がった考えが頭をもたげた。二十世紀という現代は、ある意味では、自然への恐れが薄くなった時代といっていい。

今年は暖冬で、例年になく、異常とも言える現象の報告が国内外各地から伝えられた。札幌では雪不足のため“雪祭り”開催が危ぶまれたし、東北の海岸では、本来温かい海に棲むハリセンボンが大量に打ち上げられた。二月初旬の東京では早くも、ひまわりや菜の花が咲き、県内の三次でも、土筆やフキノトウが見られた。ロシア・サハリンでは、海面に張った氷にひび割れが生じ、釣り人数百人がそのまま沖に流される事件が発生した。

こうした異常気象はエルニーニョ現象に拠るものだが、まさに司馬遼太郎が心配する異常事態が現実のものとなっていることは否定できない。不気味な予感を覚える昨今だが、話題の映画『不都合な真実』の全国ロードショーが、一月二十日(土)シネマズ六本木ヒルズ他にて始まった。併せて書籍版(注二)も発売になっている。

北極の氷はこの四十年間に四〇%縮小、今後五十~七十年で北極は消滅し、水位は六メートル上昇する。私たちが直面している気候の危機的変化は、時にはゆっくり起っているように見えるかもしれないが、実際には想像を絶する速さで進行している、とアメリカ元副大統領アル・ゴア氏は警告する。

映画の中では、氷が解けて溺れ死ぬ北極熊、干上がったことで大きな漁船団が砂の上に置き去りにされたままのアラル海、そして二〇〇五年ニューオーリンズに上陸した巨大な暴風雨カトリーナの猛威など、温暖化の影響で地球上に出現した身も凍るような危機的状況、信じられない「不都合な真実」が次々とスクリーンに写しだされる。

二酸化炭素濃度はほぼ五十年間にわたって着々と上昇を続けており、今や人間の文明と地球の生態系の基本的な関係が根本的に変わってしまったのだ。それは人類が地球の表面を易々と変えることの出来る絶大なパワーを手中にしてしまったからである。あの「終末時計」も、元来は核戦争の危機を警告するためのものだが、今年は二分進み、地球滅亡まで残り五分になってしまった。

明治二十七年、八雲は熊本第五高等中学校瑞邦館で「極東の将来」と題する演説を行った。その中で八雲は、自然と人間の生存との関係について、次のように述べている。

自然は偉大な経済家である。自然は過ちを犯さない。生き残る最適者は自然と最高に共存できて、わずかなものに満足できる者である。宇宙の法則とはこのようなものである。

さらに『日本瞥見記』の「日本の庭」の中で、西洋の自然観との比較のもとに、日本人の自然へのまなざしについて、次のように述べている。

樹木には―少なくとも、日本の国の樹木には魂があるという考え、これは日本のウメの木やサクラの木を見たことのある人なら、さして不自然な想像とは思わないであろう。げんに出雲その他の地方では、この考えは一般庶民の信仰になっている。これは、仏教の哲理にはそぐわない考え方であるが、しかし、またある意味から言うと、樹木というものを「人間の効用のために創造されたもの」と考えていた、昔の西洋の正統な考え方などよりも、かえってこの方が、はるかに宇宙的真理に近いものとして首肯できるとも言えよう。

東洋における自然観こそが人類の生存にとっての、大きな救い・真理であったのだが、全世界、そして日本人さえもが、それを忘れてしまい、そのツケが今やって来ているのだ。

旧約聖書の話として知られるノア(注三)は妻や子と箱舟に乗って、再び陸地に戻ることが出来たが、このままではわれわれ人類には地球滅亡しか残されていない。地道な活動を続けるゴア氏は、日本での初上映(一月十五日)に来日し、講演を行った。彼の今までの講演は千回を超え、映画は全米で大きな反響を呼んだと聞く。

京都議定書に批准した先進百三十二ヵ国に対して、アメリカとオーストラリアは批准を拒んでいる。日本も目標達成までまだ遠いが、自然崇拝という神道の理念を強く自覚し、地球温暖化防止に向かって、リーダーシップを発揮する時期に来ているのではあるまいか。

二酸化炭素削減への努力は辛いが、南アメリカ先住民が愛する「ハチドリのひとしずく」(注四)の話に倣って、自分に出来ることから始めないとこの美しい地球は危ない。

(注一)大阪書籍『小学国語六年下』(一九八九年)に載録
(注二)書籍版はランダムハウス講談社から第一刷が発行された(二〇〇七・一・五)。
(注三)旧約聖書「創世記」に出てくる話。世界に悪がはびこったのを見て、神が怒り、その結果人を地の表から拭い去ろうとして洪水を起こさせた。但し信心深いノアには神が恵みを授け、糸杉の箱舟の作り方を指図する。ノアは四十日間降り注いで地表を覆い尽くした雨をやり過ごし、百五十日ぶりで洪水を乗り切ったと謂う。
(注四)辻信一監修(光文社、二〇〇五)森の火事でハチドリが水を一滴ずつ運ぶ話

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