住吉神社

月刊 「すみよし」

『歴史に学ぶ』
照沼 好文

ことしは、朝鮮王朝(李氏)との国交、所謂朝鮮通信使を介して、日朝交流が始まって丁度四百年にあたる。とくに、瀬戸内海地方における朝鮮通信使にゆかりの深い土地では、多彩な記念行事が催されると聞いている。

そもそも、朝鮮通信使の発端は、豊臣秀吉の朝鮮出兵(慶長の役)以来中断していた朝鮮との交流再開を対馬の宗氏が交渉した結果、慶長十二年(一六〇七)朝鮮使節が来聘したことにはじまる。それ以来、朝鮮から江戸の将軍代替りのたびに、慶賀の使節、通信使が派遣されるに至った。江戸時代における通信使の来聘は前後十二回に及ぶというが、通信使一行の江戸までのコースは京城を出発、釜山で乗船、対馬・壱岐・赤間関を経て、瀬戸内海を航行、大阪より陸路を江戸に向かっている。とくに、対馬の宗氏が通信使を案内しているが、彼らは壱岐から品川までの道中には饗応をうけ、儒者たちとの詩文の贈答等があり、また江戸にも過分の礼遇をうけたという。

ところで、朝鮮通信使にかかわる物語は各地に伝わっていると思うが、ここでは特に水戸光圀公が、通信使に三ヵ条の疑問を提出して、彼らの無礼を問いただしたという逸話を紹介してみよう。

さきにも述べたように、慶長十二年(一六〇七)以来、江戸の将軍代替りの折には、朝鮮国から通信使が派遣され、賀詞を呈することが恒例になっていた。丁度、綱吉が五代将軍に就任の天和二年(一六八二)八月、通信使尹趾完(いんしかん)、李彦綱(りげんこう)、朴慶俊(ぼくけいしゅん)の三使が江戸に来聘している。この時、光圀公は幕府の儒者林春常を介して、家臣を三使と同行の朝鮮国の学士、医官のもとに派遣して、彼の地における鳥獣草木類をはじめ、国字等を尋ねているが、通信使もまた、自国の産物を贈物として、光圀公に届けている。問題はこの折に起っている。

つまり、通信使は贈物と一緒に、目録を届けたが、その目録には冒頭に、「奉呈水戸公閣下」と書かれ、次に贈物の品種、そして末尾に「通信使?」とだけ記されていた。即ち、通信使の署名はなく、刻印が押されていただけであったので、光圀公はこの文書が礼を失しているのを見て、三カ条の疑問を記してその無礼を先方に正している。因みに、文書の主要な部分を引用してみると、

品数を録して姓名を具せず。楮尾二印を押し、三使賜ふ所と称す。印文のニ字を見るに、是れ尹公の字(あざな)なるか。古人、交際に於て、自ら名を称して、字を称せず。以て通式と為す。/右三件竊(ひそ)かに疑ふ所あり、蓋し貴国の法か。願はくはこれを聞かん。(原漢文)

とある。要するに、文書を見れば、贈品の数を記しているが、贈主の姓名の記載はない、ただ、末尾に印が押して三使からの贈物というだけである。しかし、この印文を見ると、「叔麟」とあるが、これは三使の一人尹公の字(あざな)か。昔から古人は、文書には必ず自分の姓名を記し、字を書くことはない。これが通常の書式であるが、この文書の書式が貴国の正しい方法なのか、どうか是非教示を仰ぎたいという。このことについて、光圀公は通信使に再三、問いただしたが遂に答えはなかった。しかし、後日宗対馬守の家臣から水戸藩士への書面によれば、この事件以後、従来の通信使の弊害も改まり、これまでとは異って「珍重に存ず」と記してあったと。

結局、光圀公に対する彼らの無礼は、単に光圀公に対する侮辱だけではなく、本邦の文学の後進性を侮り、延いてはわが国家を辱しめる行為であった。こうしたとき、光圀公の毅然とした態度が自国の尊厳を保ち、一方他国の無礼、悪弊を改めさせるに至った。いま、私たちはこの史実を謙虚に振り返って、現代のわが国情を考えてみる必要があると思う。

 

『八雲の教え子 大谷正信』
風呂鞏

前回は、東大における八雲の教え子で、広島生れの小山内薫、そして八雲の「留任運動」について少しく言及した。今回は、広島縁かりの俳人、大谷正信を紹介する。

大谷正信(号は繞石)といえば、松江中学と東京大学、両校での八雲の教え子として、よく知られている。英文学者であり、俳人でもあった。

造り酒屋の長男として、松江市に生まれた大谷正信(一八七五-一九三三)が、松江中学三年の時、小泉八雲こと、ラフカディオ・ハーンが松江にやって来た。大谷は三年生から四年生の初めにかけて教えを受けた。ハーン来日第一作『日本瞥見記』第十九章「英語教師の日記から」の中で、ハーンは自分の好きな生徒として、五名の生徒の名を挙げ、その中に大谷を数えている。

ハーンが熊本第五高等中学校へ赴任のため、松江を去ることになった時、中学生を代表して送辞を述べたのは大谷であった。そして、ハーンの出立に際しては、木村牧中学校長等と共に、宍道湖畔の宍道村まで見送った。

松江中学を卒業した大谷は、京都の第三高等学校に進んだが、途中、学制改革のため、仙台の第二高等学校へ転校した。その間、恩師ハーンとの文通は絶えなかった。明治二十九年九月、東京帝国大学文科大学英文科に入学した大谷は、同じ年に文科大学の講師として赴任してきたハーンと再会し、またそこで教えを受ける僥倖を得たのである。

東大在学中、文筆のための資料をハーンに提供することで、毎月報酬を貰う契約をした。これで大学の授業料を賄うことは出来たが、毎月のテーマは大変で、集めた資料を百頁以上の英文にして提供することも屡々、かなりの苦労を経験した。

大学卒業後、私立中学、私立大学の教師を経て、明治四十一年金沢の第四高等学校教授となった大谷は、途中満二年の英国留学を挟んで、十七年間金沢で生活した。

大正十三年、新設なった旧制広島高等学校の教授(教頭)として、金沢の第四高等学校から赴任して来た大谷は、昭和七年二月退官まで、九年間勤めた。その間、大正十五年から昭和三年まで、恩師ハーンに対する感謝報恩の赤誠から、『小泉八雲全集』(第一書房)の翻訳に夜も昼も取り組んだ。四時までの校務を終えると、直ぐ訳業を続け、九時に帰宅するのを常とした、と謂う。

退官までの広島高校での九年間のことは、随筆集『己がこと人のこと』(春陽堂)に詳細

に書きとめられている。その中に「ヘルン先生追憶」、「ヘルンの観たる日本の自然」の二篇がある。八雲二十五回忌を迎えての句である「八雲忌や 好かれし虫の 鳴きそめて」も載っている。

広島高等学校同窓会が昭和四十八年に編集した『広島高等学校創立五十年記念誌』の第二部「黄昏る想いー広島の思い出ー」には、当時の教え子たちによる大谷正信に就いての想い出が採録されている。

その中から、森脇幸次(四・文甲)氏の思い出を読んでみる。

繞石先生が、長年住み慣れた北国の城下町・金沢をはなれ、広島に移り住まれたのは、大正十三年の三月だった。旧制広島高等学校の教頭として、また英語・英文学の教官としてであった。そして昭和八年十一月十七日に逝去されるまで、広島の温和な風物と人物を愛し、酒と俳句と文学に埋没した静かな生活を送られたのである。

「己がこと人のこと」という繞石随想集が、亡くなる前年に春陽堂(東京)から刊行されている。あの本には海村―丹那でのあけくれ、交友関係、酒の話、紆余曲折にみちた人生の苦渋と喜びなどが、淡々と語られていて、先生晩年のさびた観照さえ感じる。

「ロモラ」という英語の小説を習ったが、フィレンツェやローマの古い時代の面影や、学者の家庭と娘のラブ・ロマンスなど、独特の味わいのある名講義だった。

先生の酒好きは有名だったが、ある日、われわれ悪太郎どもが相謀って、黒板いっぱい縦横十文字に広島の酒の銘柄を書きなぐっておいた。出欠を点呼し終えた繞石先生は、やおら後ろを振り向かれ、ごま塩頭の赤ら顔をほころばして微笑された。温顔であり、慈顔であった。そして、ゆっくりと一つずつ、酒の銘柄を消していった。最後にたった一つ、カモツルという落書きだけが残った。再び微笑された。みんなどっときた。

忘れえぬ思い出である。

大谷正信は一九三三年十一月十七日に没した。享年五十九歳。同月十九日、広島市大手町大谷派別院にて葬送の儀が営まれ、十二月六日、遺骨は郷里松江市寺町恩敬寺の墓地に埋葬された。法名は英秀院釈繞石居士である。

ところで、広島市の北部と中央のバスセンターを結ぶバス路線が広島城の西側を濠に沿って南北に延びているが、広島城西に位置する中央公園“広高の森”に、大谷繞石の句碑が建っている。往復するバスの窓から西に向かって、基町高層アパート入り口のやや南に、その句碑は、はっきりと見えるところに位置している。

建立・除幕は昭和四十三年十月十四日、円筒形の大きな自然石の表面に刻まれた大谷の句は「枝下ろされし 濠端の樹も 東風そめし」(石川柑甫夫人蔵)と読める。大谷には、金沢の四高時代、自家句集『落椿』(大正七年)があるが、広島時代の俳句集はない。但し、中国新聞の俳句選者を務めていたことで、中国地方の俳壇に貢献するところは多かった。

余談であるが、初の広島県出身首相となった加藤友三郎(一八六一-一九二三)の銅像を建立する計画が愈々具体化してきた。「より多くの人の目に触れる場所を」などの理由で、建設地として中央公園が浮上し、募金も総額が既に壱千萬円を突破、歿後八十五年に当る来年八月の完成を目標にしている、と聞く。

これを機に、“広高の森”の大谷繞石句碑にも注目が集まり、終生心から八雲を敬愛した、八雲の教え子である大谷正信を偲ぶ人が一人でも増えんことを祈っている。

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