お知らせ
月刊すみよし著者紹介
~照沼好文氏~
昭和三年茨城県生まれ。元水府明徳会彰考館副館長。
著書『人間吉田茂』等多数。昭和六一年「吉田茂賞」受賞。
~風呂 鞏氏~
早稲田大学大学院卒、比治山大学講師
月刊 「すみよし」
『民族の神々を祀る社』
照沼 好文
丁度、この十月十日は、福井県敦賀市の松原神社の例祭日に当たる。嘗て、ご当社に私も参詣し、維新創業に際し尊い生命を国事に捧げた英霊の御前に額ずいたことがある。いま、ここに改めて私がご当社を紹介しようと思ったのは、ご当社の歴史には、今日頻りに話題になる靖国神社の縮図のような性格がうかがわれるからである。
ところで、ご当社の祭神は、元治元年(一八六四)三月二十七日関東の名峰、筑波山に、尊攘、討幕を唱えて挙兵し、慶応二年(一八六九)二月遂に事破れ、敦賀の松原において斬罪により非業の死を遂げた水戸藩士の武田伊賀守、藤田小四郎、田丸稲之衛門らを始め、四百十一柱の英霊である。私たちは、この事件を所謂筑波義挙と呼んでいる。
抑々、この事件の発端は、藤田、田丸らの水戸藩士が単独で計画したものではなく、この時水戸藩の尊攘派の志士達は、長州の桂小五郎(木戸孝允)、久坂玄瑞らとの密約により東西呼応して挙兵、一挙に討幕の大事を決行する計画であった。長州藩は元治元年四月、筑波挙兵に応じて出兵上京、ここに禁門の変が起った。
他方、筑波山に挙兵した水戸勢は、水戸藩内の佐幕派、幕府をはじめ関東諸藩の追討の兵と各地に転戦したが、しだいに苦境に陥り、遂に八百余名の筑波勢は、常陸から千山万岳を踏襲して京に上ろうとして信濃路に入った。しかし、十二月(元治元年)雪の木の芽峠を越えて越前に入ったが、寒気と飢と幕府の追討のまえに、遂に金沢藩に降伏を余儀なくされた。かくて、敦賀の鰊倉に幽閉され、翌慶応元年(一八六五)二月、水戸の志士達三百五十余名が斬罪となり、五百余名が遠島、追放の刑に処せられた。とくに、武田、山国、藤田、田丸等の四幹部の首は水戸に送られさらされ、妻子家族も入牢打首などに処せられた。まことに、維新史上未曾有の悲劇と言わざるを得ない。
さて、ここで幕末・維新前夜における神道界を見れば、この松原神社のように、幕末・維新前夜の動乱期に、国事に殉じた志士たちを祀った社・祠所謂招魂社(祠)は、全国各地に数多く見られる。また、こうした社は嘗ての同志たちによって、自発的に祀られている。
例えば、松原神社を見れば、ご当地は国事に殉じた志士、武田伊賀守以下四百十一柱を一括して「集団的祭神」として、日本古来の神道形式によって神社に合祀されている。即ち、国事に殉じた志士たちの功業をたたえ、その功業を顕彰する極致に、民族の神々として英霊が奉斎されている。これは従来の神道史ではきわめて稀有なことであり、明治神道の一大特徴として、高く評価することができると思う。
結局、以上のような神社を綜合し、かつこれらの神社成立の本質的な特徴について、小林健三氏はこれを「護国神道」として論破されているので、紹介して置きたい。
一般に神社神道の本質は、文明教期に入れば、日本人のこころにやどる神性を”神“とあがめ、神霊の実在を信仰したところに見られるが、それが奥底においていずれも、護国という中心生命につながり、祖先崇拝の独自の手振りと合流して、日本的な性格をとることになったといってよい。…わが国のそれは同一民族の成立の上からいって、外国に比し、より純粋性をもっていることは争えない。この民族的な自覚の最もよく表明されたものが靖国の大神であって、護国神社という内容をよく現わしている。それをさらに簡約して護国神道といってよいであろう。またこう呼ぶことが神社神道の特性を理解することにもなる。すなわち、それが単なる祖先教ではなく、一つの国としての、道義的生命力をあらわすからである。
『比治山の旧陸軍墓地』
風呂鞏
去る八月二十四日、「広島文芸懇話会」(稲田公子主宰)の例会で、広島城学芸員の村上宣昭氏による“日清戦争と広島”と題する興味深い講演があった(注一)。
明治二十三(一八九〇)年に来日し、明治三十七年に没した小泉八雲の日本での人生は、日清と日露の両戦役間を生きたものとして描かれることが多い。しかし、日清戦争の始まった明治二十七年八月には、彼は既に熊本第五高等中学校との三年間の契約が切れ、元の記者生活に戻るべく神戸へ向かう決意をしていたのである。
さて、事前に郵送されて来た案内状のハガキには、次のような講演内容が書かれていた。
日清戦争において広島は、宇品港から多くの将兵が戦地に向けて船出するとともに、広島城内に大本営が置かれ、臨時首都として国会が開かれるなど、大きな役割を果たしました。広島に大本営が置かれるようになった理由や日清戦争下の広島のようす、現在に残る当時の痕跡などを紹介します。
日清戦争当時、広島城内に大本営が設置され、明治二十七(一八九四)年十月の臨時第七回帝国議会開院式には明治天皇の行幸があった。
講演当日は、「日清戦争における日本軍の進路図」、「日清戦争関連年表」、「明治二十七年広島市外地図」などの珍しい資料も用意されていた。広島市西練兵場に設営された臨時帝国議会仮議事堂や御便殿の写真なども、スクリーン上で見ることが出来た。
明治二十八年四月、日清講和条約が調印され、大本営は広島から京都に移った。翌年、大本営は解散し、二年後には、西練兵場の仮議事堂も解体された。明治天皇の御便殿に当てられていた建物は、明治四十二年十月に、そっくり比治山に移された。
比治山が広島市民の遊覧の地“比治山公園”と言われるようになったのは、明治三十一年八月以来であるが、明治四十三年の紀元節以来、御便殿が広島名所の一つになった。
この広場には、大正天皇即位大典を記念して、絵馬堂式大記念館が大正七年に建てられた。その前、大正二年二月明治天皇御大葬で青山斎場に建てられた大鳥居が、東京市から譲受けて建てられ、御便殿風景は一段と立派になった。
ところが、原爆の日の朝、この御便殿の前で合掌していた人が、ピカッと光った途端に地上に伏し、次に頭を上げた時には、絵馬堂式の記念館は勿論、全ての建物が壊れていたと云う。残念なことに、御便殿は原爆と共にその姿を見ることは出来なくなった。
広島市中央の小高い比治山には、御便殿の跡のほかに旧陸軍墓地が現存する。ここには、歩兵第二十一連隊のラッパ手、国定教科書で「死んでもラッパを放しませんでした」と、成歓の戦闘における偉業を讃えられた、木口小平の墓がある。ご存知の方も多いと思う。また、余り知られていないが、陸軍一等軍正小山内建氏の巨大な墓碑(高さ一五〇センチ、表四十六センチ、側面四十五センチ)が、今なお偉容を誇っている。
昭和四十八年に広島市の“たくみ出版”が出した『がんす横丁』(全四巻、但し四巻目は『がんす夜話』)(注二)に、この陸軍墓地に関する記述があるので、ご紹介する。
比治山の陸軍墓地は、各戦役ごとに広島に立ち寄った報道人が必ず立ち寄った有名なところで、それだけに小さな四角い墓標が整然と並んだ風景が忘れられない。有名なラッパ卒木口小平の名がある合祀碑もあった。また、奥まった一角には、当時広島の衛戌病院長であった陸軍一等軍正小山内建氏の墓もあった。新劇の父といわれる小山内薫氏は、建氏が広島在任中の明治十四年七月二十六日、大手町二丁目の家で生まれた。昭和二年十一月十三日、モスクワに向かう途中の小山内薫氏を、広島駅に見送ったが、そのとき、「こんどの巡業で父親の墓にも参りたかったのですが」と言われた。その月に築地小劇場が広島に来演する予定だったので、モスクワ行きがなければ同行していて、そのときに墓参りをという意味であったろう。頭髪を短く刈って、先生好みの黒黄褐色の背広、黒のボヘミアン・ネクタイで、ポケットに手を入れて、コツコツと広島駅のプラットホームを歩いておられた姿が思い出される。(『がんす横丁』第一巻)
明治三十六(一九〇三)年、文科大学学長・井上哲次郎名義で、八雲が解雇通知を受けとった際、学生たちの留任運動に発展した。『帝国文学』第拾巻第拾壱(小泉八雲記念号、明治二十八年)の「留任」で、小山内薫はその経緯を書いた。東大の授業で、ハーンに心酔した小山内は、ハーンの講義には一日も休まず、他の授業にはあまり出席しなかった。ラテン語で試験に及第点をとったにも拘わらず、出席日数が不足で、小山内は二年に進級出来なかった。一説には、ハーンの留任運動を起こしたためとも謂われている。 (ふろ かたし)
(注一)会場は袋町の広島市まちづくり市民交流プラザ。なお、日清戦争当時、広島には第五師団(師団長:野津道貫)があり、熊本には第六師団があった。
(注二)著者:薄田太郎(すすきだ・たろう)は明治三十五年十一月一日広島市に生まる。広島商業時代、野球の名応援団長として活躍。素劇団広島十一人座同人。昭和三年広島放送局開局のとき初代アナウンサーとなり、定年までNHKに勤める。本名のほか、流石三郎などのペンネームでスポーツ、芸能評論、郷土史を執筆、宮島、広島の歌舞伎年代記の研究を続け、昭和四十二年四月二十三日病没。六十四歳。昭和三十二年五月、郷土のスポーツ放送の開拓と、郷土文化史の研究で「前島会中国賞」を受賞。
『がんす横丁』、『がんす夜話』の装丁・挿絵の担当は福井芳郎である。福井の描く「国泰寺楠の木・袋町電停」、「旧八丁堀千日前」、「西本川の御供船」、「旧己斐本町国道」が色彩豊かに各巻の表紙を飾っている。
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