住吉神社

月刊 「すみよし」

『那珂川の初蛙』
照沼 好文

私の友人、橋本利重さんは農業の傍ら、漁業を営みながら歌集『那賀河』(なかがわ)を編んだ(自家集、平成元年刊)。同歌集には二千三百首近い短歌が収められ、そのうち百首近い那珂川の鮭漁の歌が載っている。

同歌集の表題である那珂川は、その源流を栃木県の北那須岳に発して南に流れ、やがて向を東にかえ茨城県に入り、水戸(県庁所在地)の北を貫流して、漁港那珂湊で太平洋に注いでいる。

また、那珂川の鮭については、早くも奈良時代の『常陸風土記』のなかに、その記載が見られる。また本州の鮭は、「東北諸国ニ産ス、東国ハ利根川ニ限リ(南限 )、北ハ越国ニ限ル…尤常陸(茨城)、越後(新潟)ノ産ヲ上品トス」というが、とくに「那珂河ニ出ル者最美ナリ、世ノ知ル所、湊鮭(那珂湊ノ鮭)ト云フモノハ是ナリ」(『新編常陸 国誌』に拠る)と云われている。

ところで、私たち関東人は普通、鮭を「しやけ」と呼んでいるが、橋本さんの歌集をみていくと、鮭漁は秋冬の頃から、一月、二月の最も寒さのきびしい気候に、那珂川を溯行して来て、漁は夜間に行なわれるという。そして、その漁期に入ると、漁師は川岸に鮭番屋という仮小屋に寝起きする。こうした生活を三ヶ月も続ける。因みに、橋本さんの歌集『那賀河』の中から、鮭漁の情景を詠んだ歌、数首を紹介してみよう。

落鮎の瀬につく頃をはろけくも吾が那珂川に鮭溯(のぼ)り来る

鮭の子をはぐくむ水の湧くあたり寒芹(せり)の芽は小さく青める

大寒の闇に鳴る風潮待つと番屋に妻とききゐたりけり

満潮のたぎちくるとき渾身の掛声合はせ吾子と夜網(あみ)引く

こうして水揚げした鮭は、昔ながらの伝統をまもって、干鮭(ほしざけ)、新巻(あらまき)、塩引、塩鮭などに加工して、歳暮、新年の贈答品として用いられている。

しかし、水戸藩では、那珂川の初漁の一番鮭を、新年に京都の朝廷に進献するという特別な行事があった。初代水戸藩主として就任した徳川家康の十一子頼房が、寛永五年(一六二八)に朝廷と幕府とに那賀川の名産鮭魚を献上したことが記録されて以来、光圀をはじめ歴代の水戸藩主は、初漁の一番鮭を塩引鮭に仕立て、早飛脚をもって朝廷に進献した。そのあとで、藩主以下が鮭を食膳に乗せて馳走になったと聞いている。この那珂川の初鮭を新年の宮中に献上する慣礼は、戦後も水戸徳川家に伝わっている。

ともかく、古くから伝わる那賀川の鮭漁の漁法で、漁師たちによって水揚げされた初鮭が年の始めにいの一番に朝廷に進献されたことは、まことに有難い慣習である。おそらく、日本各地には、これに似た行事が自然な姿で、今も伝承されている所があると思う。

昭和六一年「吉田茂賞」受賞。

 

『八雲の見た正月風景』

小泉八雲は明治二十三(一八九〇)年の四月に来日した。その年の八月末には、島根県尋常中学校及び師範学校の英語教師として教壇に立つため、松江へやって来た。僅か一年三カ月の滞在であったが、日本での著作第一作目『日本瞥見記』上下(全二十七章)が、その間の松江での見聞をもとにして書かれている。

第二十章に「二つの珍しい祭日」がある。松江における新年と節分の祝いについて、民俗学的関心から調べたものである。既にアメリカ時代から、民衆の間に根付いている風俗や慣習に民俗学的な興味を感じていた八雲であってみれば、日本の古い都市に残されている伝統・風習の豊富さに狂喜したことは想像に難くない。彼は次のように述べている。

この古い町(松江)は、よその土地では急速に廃れてしまった、或いは、現に廃れつつある祭りのしきたりを、今でも沢山保存しているので、その式は特に面白い。

今回は“門松”と“しめ飾り”について、八雲の語る説明に耳を傾けてみたい。現在の松江に於ける正月風景とは装いも違うと思えるが、八雲の住んだ百年前には、松竹梅を組み合わせた美しい門松があった。町の通りという通りは、緑の色が一列にずらりと並び、何処を見ても、冴え冴えとした色が往来に満ち溢れていたのである。

先ず、八雲は“門松”の歴史的な背景から説明を始めている。門松は、松だけではなく、松の若木もしくは松の小枝に、梅と竹の枝が括りつけてある。この松と梅と竹は、象徴的な意味の発達したもので、古くは松だけが用いられたのであるが、応永年間から竹がそれに添えられ、更に近世になって、梅が加えられたのである。

次いで、松、竹、梅の象徴的意味を解説する。

【松】・・・一番広く認められている目出度い意味は、逆境に際してよく耐え忍び、元気に目的を貫通するという意味である。他の樹木が落葉しても、松はいつでも緑の葉をつけている。そのように、大丈夫たる者は、艱難に際しても、勇気と力を失わぬようにという譬えなのである。松はまた、老いてなお矍鑠たる元気の象徴になっている。

【竹】・・・「節」という漢字には、元来二つの意味があって、一つは竹の「ふし」を意味し、も一つは、「操」「信義」「誠実」を意味する。その意味から、竹は目出度い印に使われているのである。日本の女の子に、よく「節」という名がつけられているのを注意するとよい。

【梅】・・・日本人は古来、女の容姿の美しさをサクラの花に譬えるのと対照的に、女の操と可憐さをウメの花に譬えて来た。梅は必ず新年に用いるとは限っていない。時には、梅の代わりに、サカキを使うこともあるし、或いはまた、松と竹だけで門松をこしらえることもある。

八雲は“しめ飾り”に大きな関心を懐いていたようだ。先ず、日の女神がいったん隠れた天の岩戸から誘い出されて、再びそこへ戻ろうとしたのを、ある神が岩戸の入り口に縄の綱を張り渡して、戻らせなかったという、古事記の伝説に言及する。そして、左撚りにしめ縄を撚ること、それに伴う伝統的な左の優位性(左が「清浄」、「吉」)、縁飾りの房に使うワラの数が三・五・七という順であること、御幣・モロモキ・ダイダイの意味、その他神棚の飾り方など、詳しく記述している。ダイダイが漢語の「代々」と同じ語音のため、吉兆の果実になったこととか、色んな物品の由来・象徴についての説明がある。

八雲の愛弟子の一人に、英文学者で俳人の大谷正信がいる(注一)。彼は大学卒業後の明治四十一年、金沢の第四高等学校の教授となった。翌年から二年間イギリスへ留学した。彼は誠に几帳面な性格で、終生自分の身辺で起った事象に就いて毎日克明な日記をつけた。イギリスに留学した二年間も日記を欠かさず、『英語青年』など、英語関係の雑誌へ送り続けた。後にそれらを纏めて『滞英二年案山子日記』(注二)として出版したことはよく知られている。

「クリスマス」と題した、明治四十三年十二月三十一日付けの日記では、下宿先の女性から「日本では一月の一日を祝うという事ですが、どんな飾りをして、どんな御馳走を食べるのですか」と質問を受けたことを紹介する。質問に対して大谷は「へルン先生はその“アンファミリアル、ジャパン”(注三)に旨く書いて居られるが、僕の口では容易に説明が出来かねる」と前記「二つの珍しい祭日」のことに触れている。

八雲の大谷宛書簡(明治二十五年一月二十二日付け)では、「正月の慣習についての君の価値ある解釈に対して多謝する。君は自分がそれまで知っていなかったことを非常に多く聞かせてくれた。―藁縄の撚り方の規則やら、炭や他の多くの物品の象徴やら。だが、どうゆう理由で下げ縄が三―五―七でなければならぬのか、自分は知りたい。この三つの数には何か神秘的な意義があるの会?」とあり、大谷が資料提供をしたことも判る。

それにしても、八雲の民俗学的好奇心と調査・観察の綿密さには、ただただ驚くの他ない。八雲と共に伝統的な正月飾りのもつ意義をじっくりと味わいたいものだ。(ふろ かたし)

(注一)大谷正信(一八七五-一九三三)は松江中学、東京大学での八雲の教え子であった。英文学者。俳人。大学卒業後の大谷は、私立中学、私立大学の教師を経て、明治四十一年金沢の第四高等学校の教授となり、翌年から二年間イギリスへ留学。大正十三年、新設の広島高等学校の教授となった。以後広島で生活、昭和八年この地で没した。
(注二)『滞英二年案山子日記』(大日本図書株式会社、大正元年十二月)は、付録と併せて九百頁を超える大冊である。「この書を恩師故小泉八雲(ラフカヂオ・へルン)先生の霊に捧ぐ」という献呈の辞が付いている。
(注三)“アンファミリアル、ジャパン”は『日本瞥見記』のこと。

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